見出し画像

文体の舵をとれ 練習問題③ 長短どちらも 問2


問2:半~一ページの語りを、七〇〇文字に達するまで一文で執筆すること。

 夜ごとに聞こえくる母家の風呂の水音に、はて、風呂を遣っているのは誰だろうと思いつく限りの顔を順繰りに思い出してみるのだが、身内にそれほど風呂好きな者がいただろうかと考えてはみても浮かんでくるのは風呂に入るのを面倒くさがる者の顔ばかりで埒はあかず、これはもう中学校の寄宿舎に入るまでの十二年間を、家族の者が風呂に入った後も、住み込みの使用人の誰かしらや、近所の人がもらい風呂にくるために、布団に入ってもいつまでも風呂の水音の絶えない家で過ごしたことが関係しているのに違いないと思うしかなく、夜が更けるに従ってくっきりとしてくる水音を今夜も聞くことになるのだが、ここにはもはや誰もおらず、住んでいるのはカネタタキだけで、ここ二、三年は特に大発生して、昼も夜も、チッチッチッと鳴きつづけ、それが、翌年の大発生をまた招き、この翅が退化して鱗のように小さい翅しか持たぬ虫の、しかも、メスのカネタタキはその小さな翅さへ失くしてしまっているのだが、極小の翅をこすり合わせているだけとは思えぬ音量と響きのチッチッチッの声の向こうの方で、かーんという桶の音まで時折聞こえてきて、いやいや、木の桶など疾うに腐り果てているはずであるし、赤錆びたちょうど風呂に沈める底板が当たるあたりに穴が空いた長州風呂の釜が裏の畑の片隅に転がしてあった光景を覚えていることから考えても、桶どころかここにはもうあの大きな釜を据えた風呂すらないのだよと思いはするのだが、そう思ったところで聞こえてくるものは仕方ないので、離れと母屋をつなぐ踏み石をつたって今はもう音だけが遺っている風呂の湯加減でもみに行くしかないだろうよと思いつつ、ここに座り続けている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?