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”好きは最強”に辿り着くプロセスの話

小学生の頃は国語が好きだった。

活字を読むのが好きだったわけじゃないけど、物語に登場する一人一人の思いにふけるのが楽しかったんだと思う。

自分とは違う世界に生きる同じ人間という存在が、何を感じてどう行動しているのか?

ただただ想像している作業が、心もワクワクさせてくれた。

感覚としては、「”人間”って十人十色でおもしろい〜〜〜!」みたいな感じだったんだと思う。

全く記憶はないけど、先生にも褒められた記憶があるし実際成績も良いほうだったように思う。

それが中学生になり、国語は段々嫌いになってきた。

テストで私が想像した答えを書くと、「不正解」というバツ印がついて返ってきた。

きっとそれはいわゆる、「正解」ではなかったんだろうと思う。

私は心の中で反抗していた。
(いや言動でもしてたかもしれない。)

「だってそれが正解かどうかはわからないじゃないか。」

みるみる成績も下がっていった記憶がある。

そんな国語に対し、数学はシンプルだった。

誰が見ても明確な答えで、プロセスも明記してあった。

出された問題に対して、解いていく作業は気持ちよかった。

国語でバツをつけられてもやもやする感覚とは反対に、数学のバツはわかりやすい理由がついてくるので納得感があった。

本当の意味では理解していなかったけど、何回かやるとパターンがつかめてくるので「はいはい、このタイプね。」って感じで、正解らしき答えを当てはめていると○印がもらえた。

そんなわけで、好きなわけではなかったけど何となく理系に進んだ。

(*すごい勉強できる人のような発言のように聞こえる気がするので、そんなことは全くないことだけは念の為注釈してきます)

大人になるにつれ、人の話を聞くのが好きな自分だったり、本を読んで物思いにふける時間の気持ち良さを感じているので、向いているのはこっちなんだろうと思えるようになった。

今でもかっこいい感じ(理系のイメージ)の仕事についている人を見て、自分にはない能力の高さに羨ましさを感じないかと言ったら嘘になる。

それでも誰に何言われようと、自分がただただ惹かれる”好き”な方に足を運び続けてみる。

「この人といる方が好き。」

「こうしている方が好き。」

「ここにいる自分が好き。」

そんな積み重ねで、自分の中に「好きの塊」が輪郭付いてくる。

「介護」の仕事は、絶対的な正解がないなかで、目の前の人に向き合って「最適解」を見出していく作業の繰り返しだと思っている。

国語から逃げた私が、紆余曲折して「介護」の仕事を選んだことは、過去一の業績だと褒めてあげたいし、「”人間”って十人十色で面白い〜〜〜!」を追求できる日々が好きなんだと心の底から思う。

私はここに辿り着くのに時間がかかって遠回りしてしまったけど、”好きは最強”までのプロセスを振り返ってみるとこれはこれで楽しい空想が出来て楽しかった。

noteの終わりってどう終えたらいいかわからないけど、考えすぎても言語化への旅は進んでいかないので、"好き"なように締めたいと思います。

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