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O-EASTのこと


先週はハンバーグフェス@渋谷O-EASTであった。GOING UNDER GROUNDさんのステージにキーボードで参加させて頂いた。

このO-EASTには思い入れがある。
私がその昔通っていた音楽の専門学校で、1年に1度だけ開催される選抜メンバーによる大きなライブイベントがあった。
出演条件は毎週木曜日に学校内で開催されるライブにオリジナル曲でエントリーすること。そしてエントリーされた200曲余りの楽曲の中から、さらにライブ審査で絞り込まれる20曲程の楽曲に残ること。
細かい事は端折るが、ともあれ在学最後の年に念願であった出演が決まった。
会場はO-EASTの真下にある渋谷duoであった。
会場等は全て学校が押さえてくれて、リハーサルから機材搬入等全てが整った状態でステージに上げてもらう。当時はエレクトーンという楽器を学んでおり、コンクールや発表会に於いて楽器が用意されているというのは私にとって当たり前だったし、特にそれらに感謝をした事もなかった。

学校を卒業して自分でバンドを立ち上げる。
エレクトーンを離れ、キーボーディストに転身。
楽器を買い、自分で運んで、リハーサルして、ライブハウスに掛け合って、ライブを決めて、当日はセッティング、サウンドチェック、バラし、セッティング、本番、バラし、楽器を転がして帰宅。
慣れない事も大いにあり日々自分の事だけでいっぱいいっぱいだった。サウンドチェックで一体何をチェックしたら良いのかすら分からない。
バンドマンの端くれとして現実を知り、自分が今までどれだけの人に助けられていたか、あんな会場でステージにポンと上げて貰えることがいかに恵まれた事であったかを思い知った日々だった。ステージの裏の見えない所で、ライブ当日はもちろん、それまでの日々、そして本番を終えて機材が運び出された後までも、とんでもなく沢山の方達が関わって下さっている。そして当たり前だけど、それなりのお金が動いている。そんな事にも気が付かずそれまでのうのうとステージに上がっていた私は大馬鹿者である。

時は流れて15年後。
昨年10月にO-EASTでのバックバンド演奏のお仕事を頂いた。当日、今はもうない東横線の旧ホームの横を通り過ぎて会場入りすると、ステージには私の機材全ての音量やペダルの位置までもがスタッフさんの手によって完璧にセッティングされていて心震えた。機材の何もかもを準備して頂いて、演奏だけの為にステージに上げて頂くのはあの日以来だ。ステージに上がる前に、ステージに向かって(恥ずかしいのでこっそりと)「今日はよろしくお願いします」と頭を下げた。本当に沢山の方々に助けられて15年の時を経てようやくここまで戻って来られたと、感慨深くて泣けた。
音楽と生活を続けながら向き合い方は都度その形を変え、手当たり次第に闇雲に突き進んだ事もあったけれど、とにかく、とにかく続ける事が大切なんだとこれだけの年月をかけてようやく身を持って知ったのだった。
この先音楽を続ける中でまた心に浮かぶ事はきっと沢山あるのだろうけど、急ぎ心の記録。

学生時代渋谷duoに出演した、その日の私。

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エレクトーン、ピアノ、ギター、ベース、ドラム、マリンバやウドゥ等パーカッション2名、総勢7名でお送りした楽曲「蝶々」の思い出。

2020.12.17

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