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♪はる自分史5 幼稚園2

自分史を綴るうちに、忘れていた幼稚園期の思い出がたくさんよみがえってきました。幼稚園入園だけでなく、自身の引っ越し、祖父母が隣に引っ越してきた等、変化の多い2年間だったと思います。

1.日常のこと

昔気質の大工さんです。祖父母とは長い付き合いのようでした。

大工さんからもらった木切れの匂いと感触が気持ちよかったです。

あとから考えると、すべて材料は母の古着でした。

見覚えのある地味な洋服に、心が落ち着いたのを思い出します。

灰色のドロドロ、中身がなんだったのか、いまだに謎です。

母がすごい速さでずんずん遠ざかる(ように見えた)ので、必死で泣き叫びました。

気持ちの悪い湿布でした。

2.言葉遣い

落ち葉を拾う女の子

父からは「『だよ』っていうのはパパだよ」と何度も注意されました。

東京にいる間は、うっかり「だよ」と言ってもすぐ直りましたが、引っ越してきてからは周りにすぐ同調してしまいました。


母の折衷案は叔父叔母の家でも採用されて、私のいとこ達は親のことをパパママ呼びするようになりました。

3.園生活

男の子も女の子も、夢中でコマ回しの練習をしていました。

うまく回った時の紐をひっぱる感覚が楽しかったです。

室内用での竹馬は転んでもあまり痛くないので、楽しく練習していました。

年長にあがる前に、もうピアノが両手で弾ける子が何人かいました。

保育室のピアノで先生の真似をして弾いている子がいます。でも伴奏の和音がおかしいことに気づいて、心の中で「違う!」と思っていました。


4.家でのこと

ばんざい

母は一人っ子のせいか、小さい私の様子を見るのが新鮮で面白かったようです。

タオルケットの肩口がボロボロになり、母に叱られました。

布団のなかで考え事を始めると、ますます眠れなくなります。

ピアノのふたはいつも開けっぱなしだったので、こっそりいじることができました。母は私のこっそりを見越してふたを開けっぱなしにしたのかもしれません。

近くにスーパーもないし、買い物はなかなか大変だったと思います。

さすがに「しまった!」と思い、母に「どうしよう…。」と言いました。

この時母がしじみを買ってくれたのかどうかは、覚えていません。

5.ピアノのおけいこ

レッスン中の母との会話は「ですます調」でした。

このボスママとは、親子そろってのちのちまで大変でした。

6.祖父母とのこと

祖父が畑で育てたナスは、アクがなくてみずみずしくて美味しかったです。

あの時の大切なティッシュ、今も色が思い浮かびます。カラフルなティッシュ、今は見かけませんね。それにしても短気な父がティッシュのためにわざわざレストランに戻ってくれるとは。根は優しいのです。

7.年長組に進級。あれこれ

周辺の住宅地はほとんど水洗トイレ完備でしたが、幼稚園の木造園舎では汲み取り式でした。新しい園舎の水洗トイレは嬉しかったです。

ちなみに、その頃のわが家周辺は下水道が整備されていなくて、わが家では泡洗浄式の汲み取り式トイレでした。その後下水は整備されましたが、今も実家の裏庭には浄化槽が残っています。

「富士山はとても高い山だから、あちこちから見えるんだよ」と説明されました。遠くに小さく見える富士山がとても高い?小さい私には理解できませんでした。

このツイートを見て「自分も子どもの頃同じことを考えてました」とリプしてくださった方が何人もいました。お月さまが後をついてくるのは不思議ですよね。

5歳児には理屈が通じないのです。自分ばかり遠い道のりを訪ねて行くのは不公平に感じて嫌でした。

8.筑波山お泊り会

筑波山は関東平野の真ん中にそびえる800mくらいの山です。男体山と女体山が連なり、見分けやすい形をしています。周囲が平野なので、遠くからもよく見えました。

実は、お泊り会に行く何日も前からとても不安でした。

無事にお泊り会を切り抜けることができました。よかったです。

9.外遊び

濃い色のスミレはとても綺麗で、摘みたかったけど我慢しました。

母の教育熱心には頭が下がります。実際に虫を飼った経験は小中学校での理科の勉強で役に立ちました。教科書だけの知識と自分の経験から得た知識では定着度合いが全然違います。

シバグリはお店で売っているのを見たことがありません。採りたてのせいか、ふつうに売られている大きな栗よりおいしかったです。

身近にカブトムシやクワガタがいたので、のちにお店でカブトムシが売られているのを知ってびっくりしました。カブトムシを触れない女性が多いようですが、私は今でも平気で触れます。

この頃が家の近くに田んぼがあった最後の年でした。小川は暗渠になり田んぼはどんどん埋め立てられて住宅地になりました。

家の周りは、どろんこだったのが砂利道になりました。今はこの林全部が住宅地になっています。

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周囲が住宅地になっても、しばらくはシマリスを見かけました。雪の日のウサギの足跡も、小学生の頃までは見られました。

10.祖父母の家

祖母は母より揚げ物が上手だと自負していたので、いつも張り切ってエビフライを作ってくれました。徒歩20分の魚屋さんのエビはプリプリでおいしかったです。母に「あの魚屋さんのエビが食べたい」とねだると「遠いから時間かかるし無理」と却下されました。

この頃家にあったのは電気釜。ごはんはあまりおいしくなかったのです。父方も母方も、祖母はごはんをガス釜で炊いていました。ガス釜で炊いたごはんは火力が違うせいかおいしかったです。

母の祖母に対する口止めが甘かったようです。それとも子どもを押し付けて遊びに行っている娘夫婦への意趣返しだったのでしょうか。

11.運動苦手?

まだクラスのみんなも周りが見えていないのか、私が運動が苦手でもいじってくる子はいませんでした。それとも私が気づかなかっただけかもしれません。人目を意識しなかった幼児期は気楽ですね。

12.躾

「テレビは30分!」ルールは小学生まで続きました。そのあと大学生までは「テレビなんて見てる時間あるの?」と父が嫌味を言ってくるので、親の目が届く時間帯はテレビをほとんど見ていません。のちのち集団生活を送るのが苦手だった原因の一端はテレビだったと思います。

幼稚園期自分史は99まで。noteは幼稚園3に続きます。

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