引き裂かれた女ー『ANTICHRIS♀』と『ノスタルジア』

課題

ラース・フォン・トリアー『アンチクライスト』(2009年)は、エンドロール冒頭でアンドレイ・タルコフスキーに献辞を捧げている。その理由を自由に論じなさい。(宮台真司)

Chapter1:答え

『アンチクライスト』(2009年)を女性蔑視と批判する声があるが、まったくの見当違いで、むしろ強烈な男性蔑視と言ってよい。ラース・フォン・トリアーは、そんな本作をアンドレイ・タルコフスキーに捧げた。トリアーは、タルコフスキーが表し続けた、「母」への畏敬を継承しつつ、タルコフスキーが果たせなかった、「父」への批判を、彼に成り代わって、実行したのではなかったか。
エンドロールの献辞には、次の訳をあてたい。

タルコフスキーさん、あんたは「父」を、こう描きたかったんじゃあないか。
こう描いてもよかったんだよ、「父」と「父」が生み出した糞みたいな世の中を。

Chapter2:引き裂かれた女性像―『ANTICHRIS♀』と『ノスタルジア』―


 トリアーがタルコフスキーに依拠する要素は数多いが、『ANTICHRIS♀』でこと重要な要素は、引き裂かれた、二つの女性像というモチーフである。
 タイトルの通り、キリスト(教)に抗う女(シャルロット・ゲンズブール)が、本作の中心人物の一人である。この女には、キリスト教の新、旧訳聖書にあらわれる、二つの対照的な女性像、聖母マリアと原罪の罪人イヴの二者が重ねられる。
 トリアーはそれを端的に、視覚的に表している。映画の冒頭、夢中で性行為にふける夫婦をよそに、ベビーベッドから抜け出した夫婦の一人息子ニックは、開け放たれた窓から足を滑らせ、はるか遠い地面へと落下する。続く葬列の場面、泣き顔の夫(ウィレム・デフォー)に続き映し出される茫然自失の妻は、途端に倒れ、その後一月にわたり入院する。医者から「悲嘆のプロセス」が「異常」であると言われた妻のセラピーを、セラピストの夫が請け負うといい、妻は家に帰る。一層悲嘆に暮れる妻に、夫は青いブランケットをかける。青い布に包まれる妻の姿はまさしく、青いベールに身を包む、子(キリスト)を失った悲しみの聖母マリアの姿そのものである。
 妻の悲嘆は自傷行為や夫への攻撃へと発展し、妻は恐怖に怯える。夫はその恐怖の根源を探り、それが、昨年の夏に妻が息子と二人で過ごした、エデンと称する森にあることを突き止め、恐怖を克服するために二人はエデンの山小屋に向かう。エデンに着いてからも、怯えふさぎこむ妻であったが、森の忌まわしさの理由が、降りしきるドングリの音をはじめとする、死にゆくものの音にあることを理解した妻は、次第に森に馴染んでいく。あるとき、夫の身体を異常に欲しながらも諌められた彼女は、裸で小屋の外に飛び出し、大樹の下で自慰行為にふける。森と一体化し、夫を誘い込むその姿は今度はエデンのイヴへと転化する。
 女は、聖母マリアに比される、慎み深女性でありながら、野生の性欲を有し、男をそそのかす、エデンのイヴにも比される。本作の女に名が与えられていないのも、マリアとイヴの両義性を確保するためであろう。ときにマリアの顔を見せていた彼女は、冒頭での快楽をむさぼるその姿に象徴されるように、エデンにあってはなお、イヴの本性を解放していく。
 あるとき夫はエデンの小屋の屋根裏部屋で、過去に妻が残した魔女狩りなどの女性迫害に関する文献や日記を発見する。加えて、息子ニックの検視報告で足の異常が報告されたこと、昨年のエデンでの妻とニックの写真から、妻がニックに靴を左右逆にはかせていたことが判明し、妻のニックへの虐待が発覚する。虐待を暴かれた妻は、夫が自分を捨てるという妄想にとらわれ、夫を殴って気絶させ、脚に穴を開け、重い研石を埋め込み、拘束する。抵抗した夫は隙を見て妻を殺し、一人森を去る。
 イヴの顔が全面に出るに及び、その変貌に直面した男は、女を殺す。トリアーは女が誰しもイヴという本性を抱えていることを暴くが、それが悪であるとは言わない。イヴの野生を、トリアーは決して否定しない。トリアーが痛烈に批判するのは、イヴの野生を悪へと変えるもの、すなわち、男の傲慢である。自らセラピーを施し、妻を治療、あるいはコントロール、抑圧しようとする夫は、イヴ化した妻に、傲慢であるとののしられる。妻を抑圧する夫は、野生のイヴをコントロールしようとする、父権的キリスト教社会の比喩である。
 エデンのイヴには、子を生み育てる義務も役目も、子を失った罪の意識も、恥も、保たなければならない世間体も、ない。それは、イヴがエデンを追放されたあとに付与されたもの、キリスト教という社外によって、つくりだされたものに過ぎない。いつからか女は、イヴという野生を捨て、マリアの義務と役目を負うことを、求められるようになった。本作が描く幼児の虐待、夫への攻撃は、すなわち、キリストとキリスト教への抵抗、損なれたエデンのイヴへのノスタルジーである。
 この、男=キリスト教によって引き裂かれた女の二側面、二つの女性像というモチーフを、アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』にも見ることができる。
 『ノスタルジア』はモスクワからイタリアを訪れた詩人アンドレイ・ゴルチャコフが、通訳の女エウジェニアを雇い、18世紀にイタリアを放浪したロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの足跡を追って旅をする。トスカーナ地方のある村を訪れたゴルチャコフは、狂信者と煙たがられる孤独な老父ドメニコに共振し、ドメニコの信じる世界を救う行為を託される。
 ゴルチャコフは、故国の景色とトスカーナの景色を重ねながら、不幸になることを知りながらも、郷愁に駆られてイタリアを離れたロシアの音楽家と自身を重ねる。さらにそこに、繰り返し登場するのが故国の妻マリアと、イタリア人通訳のエウジェニアの姿である。
 黒髪をまとめた妻マリアは、映画の冒頭で映る、ピエロデッラフランチェスカの描く「出産の聖母」にそっくりであると、ゴルチャコフによって語られる。ゴルチャコフの夢にのみ登場する彼女は、作中一言も声を発しない。いかにも貞潔な慎み深い女性である。 
 それと対照的なのが、通訳のエウジェニアである。細かなウェーブのかかった豊かな金髪をかきあげ、豊満な肉体をショールで覆うその姿は、マグダラのマリアを思わせる。処女のマリアに対し、マグダラのマリアは娼婦であるがゆえ「罪深い」女とされる。映画の冒頭で修道院を訪れ、先の「出産の聖母」に対峙したエウジェニアは、神父に促され、それに跪いて祈ろうとするが、それができない。それどころか彼女は逆に「なぜ女ばかりがこれほどまでに神にすがるのか」と神父に問い、「女の子を産み育てる役目、忍耐と犠牲のためだ」という答えを聞き、その場を去る。
 エウジェニアがそれを見つめることでクローズアップされる「出産の聖母」のは、画面上にしばしのあいだ映し出されたのち、鑑賞者/キャメラをにらみつけるゴルチャコフの顔へと切り替わる。これは後に、エウジェニアがゴルチャコフを非難するシーンへと繋がる。
 ゴルチャコフがホテルの自室に帰ると、彼のベッドの上には、ドライヤーで髪を乾かすエウジェニアが座っていた。彼女は自分の部屋のお湯がでないので、彼の部屋のを借りたという。黙って応じるゴルチャコフに対し、次第に彼女は苛立ちを募らせ、彼を攻め立てる。故国を離れ、自由を手にしているのに、なぜそうも故国に縛られているのか、と。しまいには、自分の胸をさらけ出し、「求めるのはこれなの。違うわね。あなたは聖人だもの」と、独りごちる。それまでと同じ衣装であるのに、露になった胸に加えて、ドレスのスカートは透け、美しい脚のラインがはっきりと見える。
 彼女がゴルチャコフに好意を寄せている様子は、それまでのシーンにも描かれていた。彼女は彼に、「故国の妻に電話しないのか」と聞き、「しない」という返事を聞いては上機嫌であった。しかし、ついに、つれないゴルチャコフに対し、「こんなに屈辱を感じたことはない」と、声を荒げることとなった。ヒステリックに振舞う彼女に対し、「信じられない」といいつつも、ゴルチャコフもまた、彼女に惹かれていたことは明白である。
 ゴルチャコフが夢に妻マリアを見たとき、マリアと並んでそこには、彼女と肌を寄せあうエウジェニアの姿があった。次のシーンでマリアは消え、エウジェニアの膝で休息する自身の姿を、ゴルチャコフは見る。また、別のシーンでゴルチャコフは、「大恋愛」は「キスはなし」「表情にも出さない」と語っており、これはエウジェニアへの密かな愛を自身の内に閉じ込めていることを告白するものであろう。
 ゴルチャコフは、自由なイタリアでのエウジェニアへの恋を楽しむことができる立場にありながら、故国ロシアとそこにいる妻への郷愁に囚われている。相反する二つの女性像へ惹かれるといゴルチャコフのアンビヴァレンスが、イタリアにいながら故国ロシアを思うアンビヴァレンスと、重なり合う。
 作中で18世紀の作曲家に重ねられるゴルチャコフには、亡命してロシアを離れた、アンドレイ・タルコフスキー監督自身、さらには母と自分と妹を捨て、戻ることのなかった父、詩人のアルセニー・タルコフスキーもが、映し出されているだろう。本作の最重要場面といってよい、狂信者ドメニコから託される、世界を救う行為ーー蝋燭の火を消さずに広場を横断するという一見無意味な行為ーーは、映画のなかで繰り返し登場する父の詩「我は燃えつきた蝋燭」に基づくものと考えられる。
 ゴルチャコフは、その行為を遂行すると同時に、持病の心臓が悪化し、息を引き取る。同時に、狂信者ドメニコもまた、ローマでの演説の後、自らの身体を焼いて死ぬ。『ノスタルジア』は、自由の享楽にも、過去の郷愁にも逃げずに、世界の救済という役目を、命を賭して果たす者をこそ讃える賛美歌、あるいは、鎮魂歌といえる。
 そして両者の一見無意味と思われる行為は、神父がエウジェニアに放った一言を思い起こさせる。「大事なことは、幸福になることではないよ」。タルコフスキーは『ノスタルジア』を、彼の母、すなわち、アルセニー・タルコフスキーが捨て、自身も捨てるに至った母に捧げるとクレジットする。『ノスタルジア』は、「忍耐と犠牲」を強いられた母に宛てた、その母に忍耐と犠牲を敷いた自身と父の行為ーー一見無意味と思われる世界を救う行為ーーの説明と言い訳だ。

 男の存在が照らし出す二つの引き裂かれた女性像を、『ANTICHRIS♀』と『ノスタルジア』は描く。女に「忍耐と犠牲」を強いる男であることを自覚しながらも言い訳がましく悩ましく、反省する男のナルシシズムに終始するタルコフスキーに対しラース・フォン・トリアーは、ナルシシズムなど持ちうる隙を一切与えないほどに、男を徹底的に、打ちのめす。完膚なきまでの男性否定を、アンドレイ・タルコフスキーに捧げた。




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