正義から享楽へ 正しさに負けずに、ウケる方、魂が選ぶ方を選べ
できることがパッと思いつかないなら、ちょっといいことをすればいいから。焦らなくていいけど、ちょっとずつは進もう。
別に世界一周とかはしなくてよくて、黒沢清とか園子温とか観たほうがいいかもな。見れる環境にたまたまいるし、そういう方向性もあっていいかなって。これまでなかったし。解説書も宮台が書いてるし。
さっき思ったのは、宮台が書いてることに対して、いや俺はそう思わないけどね、と思って読めるようになった。っていうのは、さっき左利きエレンを見て、ああ俺も一応物語を読み解くことを一定できるんだな、と思ったから。無理ってか苦手意識を持ってたので、無理じゃないなと思ったし、それで対抗できる気がし始めた。結果的によかったね。
普段やらないことをするとそこは成長の宝庫だなって。意外と。新しい角度からブッ刺されるからな。
これまでカント系の話を読んでも入ってこなかったのは、俺にそれを使う場面がないからで、そりゃ普通に生きててカントが必要になることはねえよ。だが、映画で、しかもかなり難しい系の映画なら、いけるかもな。そう言う視点がないと見れねえ。
社会に適当に乗ってれば生きていけた。でも、あるタイミングで社会がクソだって気付いてしまった。でじゃあそれに対してこうしようって考えた解決策は、より厳しいものだった。ってか、嘘をついて社会を生きてるって自覚を持って社会を生きること。一段メタになるしそれは結構きついけど、それしかないと。まあね。
恋愛で勝てなかったら俺これきついかもな。社会で偽って生きていける自信、そんなにないわ。なんにせよ繋がりへの希求はある。家族と愛だけはまだ、近代の檻に囚われない可能性が残ってる。その意味で、かわからん、単に宮台に影響されてるだけかもしれないけど、俺はそこに関心がやっぱ向くよな。
大学教員に威張らせないくらいの知識量は持ちたいよな。ソクラテス、アリストテレスからカント、フロイト、ラカンまで。全然meceじゃないけど。こう思うのは夜で頭が疲れてるのもあるだろうけど、でも本心でもある。あと、知恵がないなら役に立たないから喋るな、と思ってる節はある。けどまあそれが短絡だってのは宮台がこのあと言うのよな。
複雑性が増してくると、共通前提が崩れるので論理に頼らざるを得なくなる、ってのは、もう歴史の中でずーっとやってる図式。ギリシャからアメリカまで。で、その時にどうなるかっていうと、論理で捉えきれないもの、非論理的なものってのが排除されるわけよな。排除されるってか、そこに対するコストは社会レベルでも個人レベルでも減る。それを言語仕様の側面で見ると、たとえばアテネとかは法律から伝承まで全部歌でやってたものを、戦争に負けていろんな人が一気に入ってきて共同体の共通感覚とか訳わかんなくなった結果、全部書きましょう、ってことになった。で、書くってのは書かれてる内容が文脈を飛ばして受け取られるし、共通感覚とかも頼りにしない。そう言う形で、どんどん論理に頼っていく結果、近代の檻に囚われてしまうのよな。論理的に先読みできる結果、生きてる意味ってなんだっけ?っていう。だからこそ、非論理的な部分にオープンになれるかって話があって、でも普通に生きてると論理に従ってある程度安牌にと思って生きるように人々はもうなってるので、そうなるとむしろ、論理で測れない非論理的なことは怖い、って話になるのよな。非論理に回帰できるか、ってのは、実は結構手遅れ感があるよと。俺だって、アテネの共通感覚で文字じゃなくて歌で伝えてた時とか言われても、その共通感覚ってどんなもんなんだろうって正直想像できないもんな。その意味で、そこがどうしても空っぽなのかもしれない。悲しいことだが、嘆いてもしょうがないから取りにいくしかないよな。
あー、熱が引いてきて、ひっさびさに書く気がするな、いやちょっと前に書いたか。えーと、なんだっけ?ああそうそう19世紀の中頃まで、恋愛と一夫一妻制は別って考えられてた。一夫一妻制は基本的に定住以降の分配のための制度であって、それに対して恋愛ってのはつまり感情の問題であって、感情と制度は両立しないでしょ?って考えられてたから2つは別々だった。じゃあ逆になんで一緒になった?活字印刷かな。なんにせよ、恋愛結婚なんてたかが150年の歴史しかない。うまくいかなくても、まあそんなもんじゃね、くらいのもん。
世界はそもそも出鱈目である、ってのをもっとはっきり言うと、理不尽な苦痛や痛みが当たり前に存在する、ってことだ。そうならそう書いて欲しいんだが、もうちょっと意味があるのかもしれないしなんとも言えないな。が、思うのは、宮台の本はかなり彼の言葉で書かれてて、それをへーってそのまま読もうとすると意味がわからない。なので全部俺の言葉でバンバン置き直して読んでいった方がいい。じゃないとマジで、意味わかんないまま終わるぞ。文章を俺の言葉で書き直しつつ、そこに対する内省を同時に回し続ける、それが現状のベストだと思う。
正しい(安心安全)って軸と、ウケる、って軸の2本だな。xはウケる。
論理と論理以外って図式だとして、論理以外ってなんなんだ。感情のこと?感情を頼りにしろってのか?嫌だよ、動物じゃないんだ、一次反応の支配から抜けたいと思って勉強してきたんだ。いや逆だな、勉強してきて、一次反応から逃げたいと思ったんだ、それでなんで今更感情に戻らないきゃいけない。ウケるってなんだよ、どういうものなんだ。ああ、それが記述も記号での表現もできないから論理以外、ってか。もっと言えば、それは一次反応じゃない、だって、それを表出するかは俺が選択できるから。論理的にはそれが答えってわかってるんだけど、でもなんか納得できないよな、ってのは、一次反応じゃない。その感覚か。正しいし、その方が便利だし快適だし安全なんだけど、でもそれよりこっちの方がいいと思うんだ、だから琵琶湖までチャリで行こう、とかな。正しいことは、確かにもう飽きたな。それじゃ退屈で生きていけないし、面白く、てかウケる生き方をやっぱしたいと思う。正しくなかったとしても。正しいだけじゃ生きていけねえよ。
正しさに負けずに、ウケる方を選べ。魂が選ぶことを選べ。
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