俺の役割に価値があると俺は思うし、同じように価値があると思ってくれる人に俺は価値提供していけばいいのかなって

俺がやってることに価値があるのか、それが確定するのが、つまり判断できるのが事後的だったとして、じゃあその判定タイミングは恣意的だろう。塞翁が馬の中で、どのタイミングを切り取るか、ってことでしかない。だろう。だからその意味で、事後的に価値が決まるってのは正しいようで正しくない。価値は、ユニバーサルに一義的には決まらない。正しい価値判断は事後的にはできない。恣意性が介入する。とすると?俺がやってることは価値があるのか?事後的に判断はできない。俺が話して適当な解決策を得ることで、俺よりもいい人と話していい解決策を得られるチャンスを潰してるのかも知れない。俺がやってることが価値があるように俺は努力するけれども、それは最大価値を提供できるってことを意味しない。でね。じゃあ俺がやってることに価値はあるのか?この問いはちょっとナンセンスで、それは、ユニバーサルに判断できないからな。論理的に判断できないから。これはもう、てか、価値があるか?なんてのは、恣意性の問題でしかない。だから問うべきは、価値があると思うか?と言うか、価値があると思ってるから俺はやってるわけでじゃあその価値ってのはなんなのか?それはきっと、すごく恣意的で、つまり、俺の自信は、それを辿ってるからんだろうな。何を言ってるかって言うと、俺はこれまでの俺を振り返って、迷った時に、自分で考えて、本を読んだり人と話したりする中で、きっとこうじゃないか、ってことを借り決めして、それに沿って行動して、そうやって乗り越えてきた。そうやって成長してきた。それで簡単にうまく行くかとか効率的に物事を乗り越えられたかって言われたらそんなことはなくて、こうじゃないかって思ってやってもうまくいかなかったことなんていくらでもあるんだけれども、しかし、結局はそれでいいと思ってて、俺がこうじゃないかと思ったことをやってみて、まあ大抵は失敗して、でもそういう積み重ねの上に今の俺の自身とか能力とか考え方とか問題解決能力とか思考力ってのは成立してる。その意味で、一回一回の試行の成否に関わらず、一回一回迷う中で、自分なりに判断して、実行して、それをまた振り返って、ってその積み重ねは、俺を振り返ってすごく良かったと思うんだよな。

だしそれの反対派、イマイチ俺の結論が何かわからないままずるずる進むってことで、そうすると、結局は時間がダラダラ過ぎてタイムオーバーになって、何も得られなかった、って経験だろう。納得することも何か成長することもなく、迷っているうちに時間がなくなってしまった、って経験だろう。それが嫌だし、そうはなりたくないと思うし、そうならないためには現状把握とかこうすればいいってことを納得して前に進むことしかないと思うし、それを他人に対してそういう形で提供できるのであれば、つまり他人が曖昧な状態で明確化できてなくてどうすればいいかわかってない時に、こういう状況だよね、だからこうした方がいいよね、で方針を提案できて、それに相手が納得して腹落ちした状態で前に進もうって思ってもらえるのであれば、それは俺からすると価値があったことなんじゃないかなって、すごく主観的だし恣意的なんだけど思うんだよな。その意味で、俺がやってることに意味があるのかってユニバーサルな判断はできないんだけれども、少なくとも個人的には、恣意的には、意味があると思うし、だからこそやってるし、それに意味があると思ってくれる人に対してそれを提供していければ、とも思うんだよな。

こんなところでいいでしょうか。俺の役割は価値があるのか、と言われたら、あると俺は思ってる、って答えになるし、同じように価値があるって思ってくれる人に対して価値提供すればいいのかな、とも思う。

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