大衆の反逆 厳しいけど、いい本だった


結論

俺のためではなくて誰かのために、厳しい規律を設定して、自分の限界を底上げして成長し続ける。俺が最も充実感を感じるのって、ここだよな。

生きることは、自分自身の生を実現するための戦いである。これは本当にそうだと思うし、そこに対して俺がいかに向き合ってないか、本当に反省してる。

いかに、俺が求める状態に、俺を持っていくか。そこを設計しないと。

人類史上の甘やかされた子供

現在そこらじゅうを歩き回り、自分の野蛮性を押し付けている人々は、人類史の中の甘やかされた子供なのだ。甘やかされた子供はひとえに、相続しかしない相続人である。

相続する遺産は、安全さ、快適さなどの便益である。世界の文明によって生み出された生の余裕の中でのみ、そうした特徴を持った人間が生まれたのである。それは、贅沢が人間に生じさせる変形の1つである。

私たちは、有り余った世界に生み出された性の方が、窮乏と戦う世界そのものの生よりも、よりいいもの、より生命に満ち溢れたもの、より上質なものだとの幻想を信じる傾向を持っているしかし事実はそうではない

全ての生は戦いであり、自分自身になろうとする努力である

全ての生は戦いであり、自分自身になろうとする努力なのだ。自分の生を実現するためにぶつかる困難の数々は、まさに私の行動を、私の潜在能力を目覚めさせ動員する。

人類の遺産を相続した貴族にとって、彼らの全人格は生の使用もその努力も欠いているゆえに、徐々に輪郭がぼやけていく。全ての世襲貴族を、どうすることもできない堕落へと導く。

この最新種の野蛮人は、19世紀に採用した文明から自動的に生み出されたものである。

運命に従うことは、その人がしたいことではなく、しなければならないこと、その人がそうあるべきことしかできないことである。しなければならないことを拒否することはできるが、それは否定の自由意志であり、自分たちの運命の下位の段階に留まることになる。

運命は、私たちがしたいと思うことに基づいていない。誰かのためにしなければならない、という意識の中に示される。

あまりにも見事に組織化された時代に生まれ落ち、その世界から危険ではなく便益だけを受け取るこの種の人間。周囲世界が彼を甘やかす。それが文明である。

移り気な気質から抜け出させようとするもの、彼より上位の外部からの要請に耳を傾けるよう彼を励ますものに対して何も感じない。ましてや、彼自身の運命の根底に触れるよう強いてくるものにはなおさら何も感じない。

凡俗な人間

現代の人間は、自分以外のいかなる要請に対しても身を委ねる習慣がない。

あるがままの自分に満足している。自分の中に見出す全てのもの、意見、欲求、思考、好みを肯定し、いいものとみなす。

自らに何物も求めず、むしろ現状に満足して自己陶酔に陥っている。

彼が二流の人間であり、極めて限られた能力しか持たず、自己を肯定する根拠となった生活の豊かさを維持する能力さえないことを、誰も気づかせることをしないのだから、当然の結果ではある。

環境が有無を言わさず実力行使をしない限り、大衆化した人間は決して自分以外の誰に対しても意見を求めることをしない。そして現在、環境が彼に義務を負わせることはないのだから、大衆が変わることはない。

卓越した人間

卓越した人間は、自分を遥かに超えた上位の規則に自らを従わせようとする。自らに多くを求める。

卓越した人間にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしない。

彼らにとって、奉仕する必要性とは抑圧ではない。

もしも彼らに抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。

高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務である。

好き勝手に生きる、これは平民の生き方である。貴族は秩序と法を希求する。

貴族の特権は他者から与えられるものではなく、自分で闘って勝ち取るものである。特権の保持には、誰かがそれに対して挑んできたならば、いかなる時でも再び闘い取ることのできる必要がある。特権は、受身的な単なる所有や享受ではなく、その人の努力が到達する輪郭を表している。

人間としての権利は自然に与えられるが、個人的特権を持つには努力を要する。

高貴な人とは周知の人、つまり誰もが知っている人を意味する。そこに含意されているのは、名声をもたらすまでのとてつもない努力である。

一般に考えられていることと半単に、本質的な従属関係に生きているのは大衆ではなく、卓越した人間の方である。

対比

文明は人間に、人類史上類を見ないほどの水準で、経済的手段、健康な肉体、市民的権利、大量の専門的情報を注入し、そのままに放置した。

かくして平均人は本性に従って、自己の中に引き篭もってしまった。どの時代の大衆よりも力があるが、自己の内部に閉塞されていて、いかなるものにも人間にも心を開かず、それで十分だと信じている。

貴族とは、常に自己超克しようと努力する生、既存の自己を超え、自らに義務や要求を課することへ向かう生のことである。

凡俗で不活性な生の対極に位置付けられる。

大多数の人は、外的な必要性に対する反応のように否応なく敷いられる努力しかできないことに、嫌でも気がつかざるを得ない。

そのため自発的で貴重な努力ができるごく少数の人たちが、孤立した記念碑のように見えてくる。

彼らは高貴な人、単なる反応ではなくて自分独自の行動ができる人であって、彼らにとって生きるとは永続的な緊張、絶え間ない修練である。修練とはすなわち苦行であり、従って貴族は苦行である。


メモ

自分があまりに恵まれていて、貴族みたいだ、と思って貴族の没落について調べたいと思ったことがあったが、オルテガも似たようなことを書いてるな。ただし、一時代の人類全体レベルで。

有り余った生活は、生命の輝きを失った、下等なものである。うん、それは感じるよな。

生きることは、自分自身の生を実現するための戦いである。これは本当にそうだと思うし、そこに対して俺がいかに向き合ってないか、ってのは、本当に反省してるよな。これじゃダメだよな、と。

辛くても俺はやらなければいけない、という意識のもとに、つまり俺のやりたいとかって自由を超えた、外部への利他としての規律に従うこと。

こうしなければならない、に向かって、厳しい規律を持って自分の限界を押し上げていくこと。

生きるために働いてお金を稼がなきゃいけない、とか、自分がやりたいことだけを自分がやりたいレベルでしかやらない、とか、そういうのが嫌だ、って言ってるんだよな。

俺が限界だと思うレベルに基準を設定して、俺のためではなくて誰かのために、厳しい規律に従って自分の限界を底上げし続ける。俺が最も充実感を感じるのって、ここだよな。

あとは、何を信じるかだな。

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