"意味"に殺される...!ーーー中野坂上デーモンズ『死んだと思う』
最悪だ。
やらなきゃいけないことがたくさんあるのに、2日前に観た中野坂上デーモンズ『死んだと思う』のことが頭から離れない。
このカオスな心境を言語化するまで俺は次の仕事に取りかかれない。
ので、書きます。
もちろんネタバレありますのでご注意を。
辛辣な一言から始めます。
意味わからんかったです。マジで。
そして愛を込めて一言。
最高でした。
いや、厳密には最高ではなく"サイコう"だったのだが。
正直、全く意味がわからなかった。
唯一分かったのは、暗転前に佐藤昼寝が首を振るというルールだけ。
それ以外は一体何の意味があったのかさっぱりわからない。
しかし、この作品を語るにはこれが「中野坂上デーモンズ10周年を爆走する第1弾としての作品である」ことは無視できない。
そして、これを踏まえてこの劇を思い返すと、これはやはりとんでもない試みだったのではないかという邪推に駆られる。
もう術中に嵌っているのだ。
まさに劇中の彼らが、「演じる」という混沌に飲まれスタンスを見失っていくのと同様に、観客は、一体この作品をどう「観」たらいいのかを見失っていく。
そして、タイトル「死んだと思う」。これがすごい。
多分、この公演をやる前の中野坂上デーモンズは死んだのだと思う。
同時に、今までの中野坂上デーモンズを求めていた観客も埋葬された。
デーモンズほど"トランス欲"という需要に的確に応えてきた劇団があるだろうか。敢えてやっていることは間違いない。(エヴァによるエヴァ殺しのように。)
デーモンズによるデーモンズ殺し。
我々はその葬儀の立会人であり、「プレイヤー」になってしまった。
10年という節目に、劇団として再出発する彼らを、彼らの選択と決意を、私たちは受け止めなければならない。
しかし何度も言うがこの劇は全く意味がわからなかった。
"地蔵中毒"のいう無教訓な演劇とはまた違う。
この上演に何の価値があったかわからないし、何の価値を提示しようとしているのかわからないという究極の無意味に感じた。
しかしデーモンズはチケット1500円という破格の料金に設定した。とにかく"見てほしかった"ことだけは確かだ。
つまり、この劇が無意味であるはずがないのだ。
劇中に登場する"つんつるてんてこぺん"が立たされた10年の節目における静かな内部崩壊と葛藤はデーモンズによるデーモン自身の発露であるように邪推可能な構造になっている。そう捉えてほしいかのようなくどいまでの台詞、シーン構成だった。つまりあの劇は観客に「今現在のデーモンズ」のアクチュアリティを踏まえて鑑賞することを要求している(誘導や示唆ではなく直球な要求)。彼らの崩壊は、どことなく感染症渦中に炙り出された弱者の暮らしを連想したが本意か不明。中心にあるのは「売れねば」という切実な訴求。この点は、紛れもなくデーモンズが抱える課題とリンクしている部分だろう。
しかし、だから何だ? そんなん、誰だって売れたいし苦しいし、わざわざ劇にするほどのことではない。ツイッターで言ってればいいことだ。まして、あんな意味不明なストーリーと融合させる必要性がわからない。
彼らは一体、何がしたかったのだろう。
我々をデーモンズ葬儀のプレイヤーに仕立て上げて放り出し、一体その先に何を見出そうとしたのだろう。
ふと思ったのだが、僕はなぜこんなに、あの上演に意味を求めているのだろう。
つまらなかったならつまらなかったで、それでいいいじゃない。
でもそうさせてくれないのだから考えるわけだけども。
もしかしたら、この「なぜ考えているのだろう」という点が、彼らが用意した劇の本質だったのではないか。
そして、意味や理由を求める僕たちが迷い込んだこのデーモンズ迷宮には、ゴールは用意されていないのではないか。
そもそも全ての劇に意味や理由は必要ないという詭弁もわかる。しかしそうもいくまい。だって1500円でも金払ってるんだし。ほしい。意味や理由、価値、実感。しかし、それをくれなかった。僕は今、その喪失感を味わっている。味わっている。喪失感を得ている。
"つんつるてんてこぺん"は解散する理由も続ける理由も見失い、二人を囲む人間たちも、関係を保つ理由を失う。しかし、かといって関係は消えない。これは人間社会の不条理な真理だ。そして、この感染症渦中で、舞台芸術創作者たちは「意味や理由」を要請され続けた。どんなに意味や理由が元々ない営みであっても、続けるためには詭弁を振る舞い、有意義性を演じなければならない。死体のようにただそこに在るわけにいかせてくれない。なぜ必要か?をとことん問われて応え、そして私たちはそれを遂に内面化し、飼われ、意味と理由を水力発電することに成功し始めている。
それは自問するために喜劇的な様相を帯びてくる。しかし、客観視するまでもなく我々は今を生きており、次なる公演に向けて更なる詭弁を用意する。笑ってる場合すらない。死んでいる場合でもない。もう狂っている。そう、そしてデーモンズの次の公演は『安心して狂いなさい』である。どうかしちゃってるよ、デーモンズ。
実際、この上演単体で何かの価値を見出すのは非常に難しいだろう。しかし、これは「中野坂上デーモンズ10周年を爆走する第1弾としての作品である」から、つまり第2弾以降も見なければ真価はわからない。前説と後説の構造を考えるに、何かしらの関連性を持たせようとしているような気もする。それに、ここまで徹底的に意味の要求を禁じられた僕たちは、『安心して狂いなさい』を観に行くにあたって、一切の"意味の要求"を捨て、文字通り"安心して狂いにいく"ことができる。
あーあ。結局松森教かよ。
そうです、私が松森教徒です。
あんなに気合いを入れ、期待を煽り、こんなに無意味を貫ける姿勢に完敗です。
今後、デーモンズが「合法トランス」から「哲学的トリップ」に進化する過程を見られそうな予感がしています。
あと、モヘーさんの芝居がよかったです…南無。
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