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功利主義と便乗値上げ

最初に

 本稿は「社会的な正しさを支える」政治哲学のうち、功利主義について批判的に概観する。功利主義がもっとも得意とする経済的な意思決定について功利主義はどのようにして道徳的な基礎づけを与えるのだろうか? そしてその基礎づけに対して私たちは、ときにどのような違和感を感じるだろうか? そうした疑問に対して、「便乗値上げ」と呼ばれる現象を題材として検討を試みる。

1.新型コロナウイルスと「便乗値上げ問題」

 2020年1月16日、厚生労働省は新型コロナウイルスによる肺炎の国内初感染者を確認したと発表した。その一週間後、同省から国内2例目となる感染報告がなされ、未知のウイルスに対し国内の緊張感は日に日に高まっていくばかりだった。何はともあれ、まずは予防が肝心と思われた。そして日本人にはオイルショック時のトイレットペーパー騒動の苦い経験(1973年)があった。人々はマスクを買い求めに走った。

 そしてその中にはこの混乱を商機だと考える人たちの姿もあった。安価なうちにマスクを買い占め、より高い価格で売り抜けようと企むいわゆる「転売ヤー」たちの存在だ。

 思惑はさまざまだったが、結果として需要が供給をはるかに上回った。たちまちマスクは品不足となった。

 2020年2月5日、フリマアプリ・メルカリにおいて60枚入りマスクの価格(送料込)が7,500円を記録した。通常であれば900円前後の価格といわれる商品だった。

 多くの国民はこの「不当な」価格の高騰に憤りを隠さなかった。政府もこの現象を問題視し、令和2年3月11日にマスクの不正販売を罰則付きで禁止する政令を公布した。規制される対象者や行為は以下の通りとされた。

1)規制の対象者:不特定の相手方に対し売り渡す者から衛生マスクを購入した者
2)規制される行為:不特定または多数の者に対し、(1)の衛星マスクの売買契約締結を申し込み、あるいは誘因したうえで、購入価格を超える価格で譲渡すること

 違反者に対する刑罰は1年以下の懲役か100万円以下の罰金(重複可)と定められた。

 こうした規制の結果、マスクの価格は令和2年8月14日時点で一枚あたり最低価格6円まで下落した。2月5日の7,500円/60枚(一枚当たり125円)をピークと考えれば、およそ1/20の価格調整が働いた計算となる。「これで正義が執行された」。そう安堵感を感じた国民が多かったのではないだろうか。

 こうした現象は「便乗値上げ」と呼ばれており、社会的にしばしば論争の対象となっている。例えば東日本大震災後の2011年3月13日に、ある会社の経営者(詳細不明。自称としか言いようがない)が、ブログに『地震で首都機能が麻痺している今が(便乗)値上げのチャンスである』という趣旨の投稿を行い、ネット上で非難が殺到するという事件があった。

2.アメリカにおける「便乗値上げ問題」と経済学者の見解

 便乗値上げに関していえば、単に日本人(の市場経済)が未熟だという話しでもない。マイケル・サンデル著の『これからの「正義」の話をしよう』によれば、2004年にメキシコ湾で発生したハリケーン・チャーリーがもたらした甚大な被害と、便乗値上げ事件についてこうまとめている。

 「22人の命が奪われ、110億ドルの被害が生じた。チャーリーは通過したあとに便乗値上げをめぐる論争まで残りしていった。オーランドのあるガソリンスタンドでは、1袋2ドルの氷が10ドルで売られていた。8月の半ばだというのに電気が止まって冷蔵庫やエアコンが使えなかったため、多くの人々は言い値で買うより仕方がなかった…多くのフロリダ住民が物価の高騰に憤りを隠さなかった。『USAトゥデイ』紙には「嵐の後でハゲタカがやってきた」という見出しが躍った。(同、P9)」

 「フロリダ州には便乗値上げを禁じる法律があるため、ハリケーン・チャーリーの直後には司法当局に2,000件を超える苦情が寄せられた。なかには裁判で勝訴を勝ち取ったものもあった。(同、P10)」

 さすがアメリカは市場経済統制が成熟している、という簡単な話しでもない。現時点で便乗値上げ(Price gouging)を禁じる法律を制定しているのはアメリカ51州のうち34州である。およそ1/3の州は便乗値上げを「法的に禁じているわけではない」。

 なぜアメリカでも便乗値上げ禁止法は全面的に法制化されていないのだろうか? この記事に興味を持っていただけるような読者であれば、その背景には「自由市場」的思想が潜んでいると推測するだろう。実際、経済学者の多くはこうした便乗値上げ問題を「問題がないこと」として認識しているようである。引き続きマイケル・サンデルの著作より引用する。

 「自由市場を信奉する経済学者のトーマス・ソーウェルは...『便乗値上げというのは感情には強く訴えるかもしれないが経済学的には意味のない表現で、ほとんどの経済学者がなんの注意も払わない。曖昧すぎてわざわざ頭を悩ませるまでもないからだ』と述べた。(同、P10)」

 「市場を支持する評論家のジェフ・ジャコビーは...『物価の急騰はひどく腹立たしいことであり、恐ろしい嵐のせいで生活が混乱している人にとってはなおさらだ』と認めていた。だが、一般市民の怒りは自由市場への干渉を正当化するものではない。一見法外な価格も、必要な商品の増産を促すインセンティブを生産者に与えることによって、「害よりもはるかに多くの益をもたらす」というのだ。(同、P11)」

3.現代における正義~自由市場と功利主義の精神

 こうした経済学者の見解の背景となるものは、自由市場とともに「功利主義」の思想がセットになっている。功利主義とは、「最大多数の最大幸福を目的」とする政治哲学であり、19世紀のイギリスでベンサムやミルといった哲学者・経済学者により広く唱えられた。上述のジェフ・ジャコビーの主張でいえば、「便乗値上げにより被る害(マイナスの幸福の合計)よりも、便乗値上げによる早期復興(プラスの幸福の合計)の便益の方が大きい」ことが、便乗値上げが社会的に容認される論拠となっている。「これぞ社会正義」というわけである。

 経済学者の常識は世間の非常識なのだろうか? 確かに便乗値上げにより、ハリケーンの被害者は一時的に必要なものを必要以上の価格で購入しなければいけないかもしれない。便乗値上げの原因は供給不足である。通常通りの価格であれば、企業はわざわざコストやリスクを負担してまで、あえてフロリダ州に優先的に商品を供給する理由を何に求めればよいのだろうか。企業の正義観、あるいは倫理感に頼るしかないのだろうか。

 仮に倫理観に頼った場合、便乗値上げした場合は三日で届いたものが、届くまで二週間かかるかもしれない。この場合住民は物資不足の中、より長い時間を耐えなければいけない。住民はその企業のことを「不正だ」といって非難することができるのだろうか。

 便乗値上げを禁止した場合、「プレミアムを払ってでも今商品がほしい」と考えている住民の権利を奪うことにはならないだろうか。彼らからすれば、商品の値段が不当に高いと思う住民は単にそれを買わなければよいのである。

 あるいは功利主義を主張しているのは経済学者たちだけではないかもしれない。令和2年4月7日、政府は緊急事態宣言を行った。感染拡大と医療崩壊を防ぐことが目的だったが、当然ながら経済に対しては深刻なダメージを与えるという問題を抱えている。堀江貴文氏は、後者の方こそが社会にとって致命的な傷であると主張する論陣の代表格であろうと思われる。

 この意見の対立は、実は功利主義(感染拡大と医療崩壊の防止が社会の最大幸福)VS功利主義(経済崩壊の防止が社会の最大幸福)の構図である。私たちがどちらかの主張を支持するならば、私たちはいずれにしても功利主義的な選択を行っていることになる。私たちに与えられる選択肢は、想像以上に功利主義的な正しさに支えられているものばかりなのだ。

4.新型コロナウイルスの副次的な症状について

 新型コロナウイルスの症状は、人命を奪っただけではない。副次的な症状として私たちと私たちの社会からさまざまな権利を奪っていった。緊急事態宣言以降、私たちは「外出する権利」、「通学する権利」、「施設や店舗を営業する権利」など、私たちが当たり前のこととして享受してきた権利の一部が制限される経験をした。日常生活内においては「新しい生活様式」が提唱された。今思えば、「親しい人と1メートル以内に近づき」、「真正面から会話を楽しみ」、「外出する際はマスクをしなくてよい」のは私たちの権利であり、自由であったのだ。

 しかし功利主義の考え方は、私たちが当然のこととして受け取るべき権利を制限するよう求めてくる。私たちが行使する権利(プラスの幸福)は、誰かの権利を侵害する(マイナスの幸福)かもしれないからだ。最大多数の最大幸福のために、自分たちの幸福よりも他者の幸福が優先されざるをえないとき、私たちは一体どこまで・どのように折り合えばよいのだろうか。

 需要と供給が形成する市場価格。こうした功利主義的発想に支えられた道徳的説明は、私たちがときに便乗値上げに対して持つ憤りの感情に対してどの程度説得力を持っているのだろうか。言い換えれば、私たちにとって許容可能な社会正義とは一体なんなのだろうか。

5.最後に

 本稿では、新型コロナウイルス流行当初に問題となったマスクの「便乗値上げ」を題材として、功利主義が経済的意思決定に与える道徳的基礎づけの妥当性について概観した。加えて類似の事例としてアメリカの便乗値上げ事例を引き合いに出し、功利主義的な「正しさ」に対する違和感の所在について確認した。

 あり体にいえば、功利主義にはいい面とわるい面が存在する。わるい面としては、功利主義はときに私たちの権利を制約したり、ときに私たちが社会に対して抱く淡い期待の感情を裏切ったりする。私たちは功利主義の弱点を認識したうえで、現実的にマスクの転売を法的に制限したり、便乗値上げを禁止する法律を制定したりするなどの政治的なアクションを起こしている。

 功利主義の考え方自体はとてもシンプルだ。「最大多数の最大幸福」。そしてもし経済的な意思決定であれば、「需要と供給のバランスが決めた市場価格による取引」。これが功利主義の考える社会的な正しさだ。

 一方、功利主義に感じる違和感に関しては実は体系立った言葉として取り出してみせることが難しい。お金のように客観的な数字で示すことが難しいからだ。私たちは功利主義が示す正しさのビジョンに対して、どのように代替的な正しさの可能性を語ることができるのだろうか。

 更なる検討は別な機会に譲り、本稿はいったんここで筆を置くことにしたい。<了>

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