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二つの自由概念~「消極的自由」と「積極的自由」について

 本稿では、自由を哲学するにあたって欠かすことのできない古典的論文をひとつご紹介したいと思います。アイザイア・バーリン著の「二つの自由概念」(「自由論、みすず書房」収蔵)という論文が本稿の主役になります。

1.アイザイア・バーリンの人となり

 アイザイア・バーリンは、20世紀の英国の政治哲学者です。1909年にラトビアに生まれ、幼少期にイギリスに移住。オックスフォード大学に入学すると、哲学科で頭角を現し、後に同大の教授に就任しています。

 バーリンの功績は、とりわけ「自由概念」の研究が知られています。彼は異なる人々や社会がそれぞれどのように自由を理解し、評価しているかという方法に興味を持ちました。彼がオックスフォード大の要職に就任する際(1958年)に発表した論文、「二つの自由概念」は、この分野における古典的なテキストとして今もなお高い評価を得ています。

 哲学者以外の顔として、バーリンには政治的な「観念idea」を歴史的に研究する歴史家としての側面がありました。彼は政治哲学上の重要な観念、例えば「権力」「権威」「自由」といった観念が、時代とともにどのように変化していったかを研究しました。彼の業績を通し、わたしたちは現在当たり前のように受容している「自由」という観念が、(主に西洋においてではありますが)どのような変遷をたどって今ある形に落ち着くようになったのかという歴史的な経緯を知ることができます。

 日本ではなじみの薄い印象がありますが、総じてバーリンは20世紀の自由哲学を考えるうえで重鎮といえる哲学者だったといえます。

2.「二つの自由概念」

 アイザイア・バーリンの「二つの自由概念」は、個人が自由であるための異なる方法を探求した、自由哲学における古典的作品になります。この論文でバーリンは、「消極的自由」と「積極的自由」の2つの種類の自由を区別しています。

 「消極的自由」とは、個人の行動に対する外部からの干渉が存在しないことを意味します。つまり消極的自由とは、他人に妨げられない限り、自分のしたいことができるという意味での自由です。当然ながら国家からの個人の思想、行動、財産に対する国家からの介入を善しとはしません。この種類の自由は、「古典的自由主義」と密接に関連しています。

 一方で「積極的自由」とは、外部からの干渉が存在しているかどうかにかかわらず、自分自身の目標や願望の実現を追求する追求する「能力」を重要視します。こうした能力を発揮する状態、及びこうした能力を行使して実現した「なるべき自分」こそが、その人にとっての真に自由だと考えます。従って積極的自由は、個人が自分の目標を追求するために必要な資源と機会(リソースとチャンス)が不足している場合、社会がその人へ資源と機会を供給する責務を要求します。この種類の自由は、「自己実現」や「社会主義」、「責任ある大きな政府」といった概念としばしば密接に関連しています。

 バーリンは、これら2つのタイプの自由が(同じ自由でありながらも)しばしば深刻に対立することを主張しています。バーリンによれば、積極的自由を促進する試みは、消極的自由の制限につながる可能性があります。たとえば平等を増進するための政策は、富める者の財産を富まざる者へ再分配する過程の中で、強力な国家権力の行使が必要となりますが、これが個人の消極的自由への制約として働く可能性があるわけです。

 バーリンはまた、これら2つの自由概念の歴史的な起源を探求しました。消極的自由は古代ギリシャから啓蒙哲学の時代へと段階的に発展してきた一方、今日的な積極的自由の概念は主に19世紀から登場するようになったと報告しています。時期としてはヘーゲルやマルクスが哲学史に登場するようになった時期にあたります。

 「二つの自由概念」は一冊の本ですらなく、日本語訳で100ページ弱の短い小論であるにもかかわらず、今日においても自由を哲学的に考察する際の基礎的なテキストの一つとして輝きを放っています。

 みなさんも相手の主張している「自由」の概念が全くピンとこないとき、よかったらバーリンの議論を思い出してみてください。同じ自由という言葉で語られながらも、消極的自由と積極的自由はその基本原理が全く異なります。二つの自由は理想としては相互補完的であるべきですが、しばしば深刻に対立する場面が目撃されています。

 そんなときは「相手のいう自由は真の自由ではない」と頭ごなしに否定するのではなく、「相手のいうような自由も、自由の一つのあり方としてはありえるのかもしれない」という姿勢で、開放的かつ相手を尊重した議論に取り組みたいものです。(了)

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