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イメージに潜る:戻ってこれる狂気

 数ヶ月前に川田英里佳《Utopia or Arcadia?》(2024)についての感想を、作家から求められた。作家がウェブ上で公開していない資料や記録写真なども送っていただいたが、実作を見ていないし、テキトウなことも言えないからどうしようかなと考えながら数ヶ月目に入る。この文章は、筆者から川田作品へのあくまで主観的な応答である。
ヘッダー画像《Utopia or Arcadia?》(2024)
提供:川田英里佳

《Utopia or Arcadia?》

 本作に於いて川田は認知の歪みを個別的に検証しながら扱っている。※1 そして、それらの矯正の先の展望として理想郷がある(のではないか)としている。到達するであろう理想郷を川田は2つに分類して投げかける。ステイトメントを引用しよう。

認知の歪みの10パターンの思考を作品にした。どれも私には見覚えのある思考である。作品に起こすことで、自分自身の思考パターンへの綺正、抑制を試みる。投薬やワクチンのようなイメージである。昔の精神薬パッケージのイメ ージを元にしている。
Utopia...徹底して管理されている世界、       
    dystopia(反理想郷)
Arcadia...牧歌的な真の理想世界
認知の歪みを取り除いた世界は Utopiaか、Arcadiaか?

川田英里佳《Utopia or Arcadia?》ステイトメント

 筆者は、このステイトメントからいくつかの点に村上春樹の作品と彼の態度を連想した。2つの村上作品を検討した上で、川田作品を考えてみることとしたい。

深層意識の「ユートピア」・ユニコーンの死

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

 村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)は一人称視点の「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」が交互に繰り返される長編小説である。
 「ハードボイルド・ワンダーランド」は私たちが暮らす現実に相当する。「世界の終わり」は深層意識のメタファーとしての、壁に囲われた街(住民に死が存在せず、完全な機能のみで成立している)が舞台である。「世界の終わり」には一角獣が存在しており、物語途中で一角獣の死によりその世界が保たれていることが発覚する。※2
                         『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は解釈が分かれる作品であるが、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」の主人公(語り手)は同一人物であると考えるのが妥当だと筆者は考える。現実と深層意識の往還からなる、リアルとイメージでの被暴力を経て主人公は選択をする。一角獣の犠牲からなる「ユートピア」を拒否し、感情や恐怖が渦巻く現実「ハードボイルド・ワンダーランド」に戻ることを決断する。(実際にはいくつもの「主人公」が存在するため、現実に戻る、と言い切るのは齟齬があるが、主体的に「ユートピア」を拒否するという点においてその態度は共通している。)

現実の「ユートピア」・サリン

『約束された場所で―underground2』

  村上春樹『約束された場所で―underground2』(1998)は、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995)に取材したノンフィクションである。
 それまで社会問題を大きく扱うことのなかった村上が、オウム真理教を扱わざるをえなかった理由として、自身が今までの創作の中で扱ってきた「ユートピア」が現実のものとして現れた衝撃があると考える。彼が作品内で仮定してきた「ユートピア」が排除と死を伴うものであることがリアルタイムに証明されてしまった。タイトル「約束された場所で」はまさに「ユートピア」の言い換えである。
 地下鉄サリン事件以後の村上にとって「ユートピア」をフィクションとして扱うことは倫理的な葛藤が存在したと想像する。ゆえに彼には、オウム真理教を扱ったノンフィクションである『アンダーグラウンド』(1997)と、『約束された場所で―underground2』(1998)の執筆が、ある種の作業として必要になったのだろう。つまり、村上にとっての執筆は、川田がステイトメントで言うワクチンと重なる部分があるように見える。

ワクチンの絵画:イメージに潜る

 川田がステイトメントで書いたワクチンの作用を、絵画のイメージにおいて「ユニコーンを殺すこと」と考えてみる。現実で、あるいは倒錯した現実で、自分や誰かを殺さないために。※3
 だから川田のパステルテイストの絵の裏にあるのはリアルだし、リアルにはいつも死が伴っている。ワクチンには副作用だって死のリスクだってある。そう、これはたぶん川田自身がもっとも良く知るところだろうが、「UtopiaかArcadiaか」の問いが行き着く先は、どうしようもなく現実である。この回路を立ち上げるため、それを経て現実に「戻ってくる」ために、川田には「認知の歪みの10パターン」という個別で具体的な検証が必要だったのではないか。深層意識のメタファーに飛び込む/迷い込むことは、村上作品で言えば、「壁」や「地下」※4 に潜ることだし、川田にとってその入り口は、イメージが現前する場である絵画だったのだろう。

 「眠りとは戻ってこれる死」と言った人がいた。ワクチンの機能にも重なるところがある。加えて、絵画(のイメージ)とは戻ってこれる狂気だったりするところが少なからずあるように思う。(筆者もまた制作者であるが、筆者にとってはその側面がほとんどだ。)
 「認知の歪みの10パターン」に潜った後の川田はどう作り変えられたのか、戻ってくることが出来たのか、今も潜っている最中なのか。次の作品を待ちたい。

青木遼

※1 川田は10作品の絵画に対応する10パターンの解説を、ポートフォリオ形式にして会場に設置している。
※2 社会における差別とはシステムを成り立たせる機能として存在する。そのシステムの恩恵の享受者から、犠牲者となる被差別者は不可視化される。村上は一角獣という幻想上の生物にこのシステム上の不可視の犠牲(『世界の〜』においては住民と一角獣の生命の非対称性)を重ねている。また、中世西洋において一角獣は高貴の象徴だったようだが、現代においては愛らしいキャラクターとしての表象が強い。ユートピアの幻想はここでも補強される。

※3 イメージ上の殺人、現実感を伴わない暴力は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のみならず多くの村上作品で扱われる。『海辺のカフカ』(2003)におけるジョニーウォーカー(父殺し)など。

※4 村上作品では、イメージ上の暴力(それは現実に干渉しうる・イメージの問題は現実の問題であるとするのは作品内で非常に重要である。筆者はそれを川田作品を論じるのに援用している。)が発生しうる深層意識のメタファーたる特定の空間が設定されることが多い。『ねじまき島クロニクル』(1994)での208号室、『騎士団長殺し』(2017)での「穴」など。

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