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構造と動くもの

 本テキストは2023年12月に金沢美大にて発表した作品と併置したものである。本展示において青木は屏風構造とビニールで表具したドローイングを絡ませ、数日置きの組み換えを行った。

「構造と動くもの」《ストラクチャー: 植物・霧》2023年12月4日―12月15日 
金沢美術工芸大学アートコモンズA


「構造と動くもの」 

〈ストラクチャー: 植物/霧〉

1.
 本作のタイトルにあるストラクチャーとは構造体のことだが、それは例えば今わたし達がいる建築のようなものから、言語や政治に表象される制度と呼ばれるものまでを対象としている。つまりインスティテューションと呼ばれる、私たちの態度を規定してくるすべてのコト・モノのことである。そのような構造と呼ばれるものが立つとき、そこに絡まるものは往々にして動くものである場合が多い。(ex.建築-人間、支柱-植物の蔦)

2.
 本作では、構造体に絡まるものや、その環境に応じて形態を変化させるものとして、蔦の植物と霧を扱った。植物や霧は、構造がどのような形態であれ驚くべき適応や変化を見せる場合が多い。植物の場合、電柱の支柱に絡まり生きる場所をより生きやすくするために拡げていくことや、コンクリートの割れ目に侵入することもある。霧の場合、その環境の温度に合わせて雲-霧-水蒸気-水…など様々な適応を見せる。それらは人工・自然を問わず、環境に対して、自身の本質を変化させることなく自由に動き回る。

3.
 蔦の植物や霧について構造と合わせて語るとき、1. 2.で語った側面を見る場合、自身が生きることができる場所を確保する営為として見ることができる。わたしたち人間の営為にたとえて見た場合、強固な社会制度や生活の介入する余地のない建築など、既に建てつけられた構造体へのレジストとしてのアプローチと見ることも出来る。
 しかし、「動くこと」がリベラルと呼ばれる態度を示す可能性を持つ事実とともに、背中合わせの近さで他者(ときには自己さえも)をねじ伏せる暴力性を伴う危険性を含んでいるこもまた事実だ。蔦の植物が電柱の支柱に絡まることは生きるための自由な態度とも取れるが、政治における他領土への侵攻とも読み替えられる。霧はどこにでも入り込む柔らかさを持つとともに、どこへでも侵略する危うさを持つ。強すぎる植物は毒を用いて周りの植物を殺す。高地での霧や雨に襲われた人間は低体温症によって殺されることもある。
 「動くもの」がリベラルな可能性を持つのと同じ量で、その存在は暴力の危険性を含んで存在していると言える。

4.
 1. 2.で語った側面のみ見る場合、構造体とは、強固な社会制度や生活の介入する余地のない建築など、私たちの在り方を本来の在り方と別の在り方に矯正・強制してくるものとして存在する。しかし、「動くもの」がその自由さと同じ量だけ、暴力性をはらむことと同じことがこの構造体にも言える。 つまり、構造とは矯正・強制する監獄にもなりうるが、生を育む家にもなりうるということだ。
 本作で使用している木枠により構成された屏風構造は、中抜き(板が貼られていない)であるということ、空間のスケールに合わせて物理的に可能な範囲であればどのような形態にも動かすことが出来ること。立てることも、畳むことも、平らに倒すことも出来る。1. 2.で構造とは強固なものであるかのように記述したが、実際にはその構造さえ関わる主体や、併置や外包する他の構造に対して可変可能な存在であると言うこともできる。

総論
 諸事物(ひと・もの・場所)が諸事物と関係を結ぶことと、それら関係により諸事物が意味付けをなされ続けることの繋がりや摩擦の中で、諸事物は存在し続ける。その自由さと暴力性は背中合わせの存在であり、関わる主体や他の構造によりどのような相も呈す。その在り方の考察と、考察のしえなさこそが本作である。私たち(ひと・もの・場所)の内部と外部にはそれだけの可変可能な可能性と、暴力性を持つ危うさが併・共存しながら実に複雑な相で交差している。


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