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浮上、そして『聖なるズー』について

9月中に本業外で提出せねばならないハードな課題があり、
ここ1ヶ月ほどは家族以外の人には会わずに、仕事以外の時間はずっと孤独にパソコンと向かい合っていた。
ひーひー言いながら、でもこれはとりあえずやり切らないといよいよ自分のことを許せないな…とか考えながらやっていた。

で、提出し、しばし放心して、本業がどっひゃ〜状態になり、ようやく交換日記を書こうという気持ちを取り戻した…というよりも書かなければみなみちゃんに合わせる顔がねぇ…これを送って10月の楽しい予定を決めるんだ…!と思い筆をスッ

前に書きたいと話していた、濱野ちひろ著『聖なるズー』について。

私は性に関する内容を、他人に話すのが好きじゃない。
ただ、そういう話題を頑なに避けたり、嫌悪をむき出しにするのはいわゆる大人な対応ではないと思ったり、かつ「その話をしたくない」のは私の個人の希望であり他人に強制するものでもないしなあ、とか、心が死なない程度に笑ったり受け流したりはしている。コミュニティによっては俗に言う「ノリのいい人」を演じがちなところもあったりした、でも最近はふてぶてしくなったのであんまり参加しなくなった。

そもそも男性というものがあんまり好きじゃない。
家族や社会的な信頼関係を築いている一部の知人・友人をのぞいて、それ以外の人たち、通行人たちもなんなら敵とすら思っている。
もちろんまともに生きている人が殆どであろうが、どうしても一部の「女性をまるでモノのようにときにはトロフィーのように扱い、社会的に優位に立とうとし、それをのぞんでいない人に対し性欲をむき出しにして組み敷くのが面白いと勘違いをしている」人たちが、女の私にはどうしても目につく。というか鼻につく。

どうしても体力的に勝てないというのも怖さを助長する。
フィジカルでは勝てないから、いつ襲われたり殺されたりするかわからない。弱いものにとって、強いものは怖い。

それでもこの本をすごく興味深く読み進めたのは、
これは単にセックスについてではなく、尊重の先にある愛の話だから。

犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。
夫婦のように接し、セックスをするときもある。
動物とのセックスと聞いて、最初は人間が身勝手に無理やりするのかと思ったんだけど、そこにはまったく違う、互いの尊重の上に成り立つ関係性があった。こんな関係性があるなんて知らなかったし、考えたこともなかった。

動物とのセックスについては、それをレイプ、虐待だとみなし動物愛護の視点から反対する人も多い。獣姦という言葉はまさに(てかこの漢字なんなんだよ、いちいちわれわれの尊厳を奪っていくな…)

中学生のときに読んだ金原ひとみの著書『アッシュベイビー』の中に小児性愛や獣姦の描写があり、当時嘔吐したような気がする(私は嫌悪感で物理的に吐きがち)小さいものに性的興奮を覚えるという登場人物がいたのだ。

『聖なるズー』のなかで語られているのは「獣姦」ではなく「動物性愛」。
単なる性の吐け口として動物を扱うのではなく、
動物に対して感情的な愛着をもって、時に性的な欲望を抱くこと。
われわれ人間がパートナーに抱く感情とほぼ同じだ。

これについては性的倒錯とする精神医学的見地と、
性的指向のひとつ(異性を愛したり同性を愛したり)とする心理学的見地で分かれているらしい。
※この本で知り得た内容なので、2023年の最新の状況についてはよくわかっていないけど

内容は結構デリケートだし、さまざまな個人的な愛情やトラウマにも触れているので、少々割愛するのだが、
結論として、動物とセックスをすることの是非というより、「ペット」として可愛がることへの違和感が生まれた。

もちろん、犬や猫などといった動物と生活をともにし、めいっぱい愛情を注いでいる人たちをたくさん知っている。私も子供のころは実家で犬を飼っていた。

ウィキペディアによると、
「ペットは、人の心を和ませたり楽しませてくれたりするといった理由で飼育される動物」らしい。

なんだか、悪い側面がなかったことにされている気がする。生きているんだから、常に人間にとって都合のよい行動ばかりしてくれるわけじゃない。(自身の都合でペットをかんたんに手放す人たちは、都合のよいところしか受け入れられないんだろう)
そのひとつが、動物としてのかれらの性だと思う。

私たちの心を和ませたり楽しませるために飼育されているはずの動物、の発情や性欲。病気の予防であったり、よそ様の大事なペットにのぞまない妊娠させてしまうのを避けるために必要なんだろう。と思うが、
なんだか人間が都合よく扱うために、可愛いと思い続けるために支配しているようにしか思えてならない。

話を「ズー」に戻す。かれらは動物とセックスをするときもあるが、自分の性欲まかせに無理やりするようなことはしない、と話している。
動物たちの仕草や態度、つまり「あなたとセックスしたい」という合図があり、そして自分もそうしたいと思ったときにするらしい。
愛情の先に、動物たちの性を尊重し、自分自身の気持ちも尊重している。
というかそもそもこれ、共通の言葉でコミュニケーションが可能な人間同士でもできない人、できない関係性に陥ってる人たちをよく見かける。
非言語のコミュニケーションでここまで互いを理解しあえるのに、愚かな人間よ。

とはいえ動物たちは人間と同じ言葉を持たないので、「はい、おっしゃる通りです」とは言わないから、人間側のそうあってほしいという解釈を含んでいるかもしれないけど。
でもペットを去勢して避妊して本能である発情をなかったことにして愛玩動物として可愛がるより、もっともっと動物が尊重されていると感じる。

とはいえ、ペットとしてめいっぱい愛されて生活している動物たちは、とても幸せそうに思える。むずかしい。まあそこに答えはないんだけど。

街を歩くと、犬とともに散歩をしていて、ともに愛情に満ちているように見える人をたくさん見る。
いつか自分自身、あるいは家族が動物とともに暮らすことを望んだとき、愛玩動物として受け入れることを、私はどう考え、どう家族と話すんだろう。

(ちなみにこの本、ハードカバーで大きくて重たいけど、もし興味があったら貸すので言ってね)

つい最近まで「9月なのに暑すぎだろ」と気候にキレていたのに、気づけば「秋服全然持ってねえ!」と焦っている。秋服ってなんで毎年「ない」んだろう。窓をあけると、マンションの庭にある金木犀の香りがふんわりと部屋に入ってくる。秋だねえ。