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人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である

こんばんは、みなみちゃんの日記に共感したひとりの女です。
からだが女として生まれただけで、ハンデすごすぎるだろ。

毎月あれがくるたびに、1ヶ月が経つスピードの速さに驚く。
そして年12回×十数年、もはや100回をゆうに超えるほどに付き合っているはずなのに、いまだにその予兆に気づけない。
食欲が爆発寸前のときに、「はいはい、あの周期だから仕方ないのね」と命の母でも飲んで対処しておけばいいものの、家中のあらゆるお菓子を食べ尽くし、イライラを他人にぶつけて自己嫌悪で消えたくなったところでトイレでようやく気づくのである。

夫とともに暮らし始めた頃、あまりにも私がばくばくご飯を食べ、普段あまり飲まない牛乳を一気飲みした日があり、とまどう彼に「ホルモンがそうさせている!我々はそういう生き物なの」と伝えたのを思い出した。

「まるで、3日ぶりのご飯にでもありついたようだった」by夫

ほんとうにみなみちゃんがおっしゃる通りで、いかに技術が発達しようが、我々のからだは原始的で、結局のところ動物なんだよなあ。
くそな話だけど、どれだけ技術が発達しても、ひとに理性が備わっているはずでも、性犯罪もこの世からなくならないし。

人間って、技術を進歩させ、あらゆるものを作り出し、なんか動物の頂点っぽい雰囲気だしているのにね。ほかの動物と変わらないような気がするよ。


そうそう、人間といえば。
つい最近、映画『ファンタスティック・プラネット』がアマプラで観れることに気づいて、めっっっちゃ久しぶりに観て

な、なつかしい、、

真っ青な巨人たちに、人類がおもちゃのように/虫のように扱われているさまを、皮肉〜!と思っていたところだった。
巨人たちが、逃げ惑う人間を追い詰めたり、つまんで落として「ああ死んじゃった〜」と遊んでいるのが、我々が虫などの小さな命を軽視するさまそのもので、ただ私も人間なので、巨人たちの無邪気なあそびに不快感を覚えつつ。

こういうちょっと不穏なタッチって、なぜか惹かれるんだよねえ。
同じように、絵本作家のピーター・シスの不穏さも好きで、2年くらいまえに練馬まで展示を観に行った。

練馬区立美術館のサイトより拝借!
このアマデウスのポスターでシスのことを知った

チェコ、プラハに二度訪れたことがあるんだけど、綺麗なのにちょっとどんよりとしているところもあり、素敵でまた行きたい国の一つ。歴史とか気候とかそういうもの全てが関係して、こういった繊細で不穏なタッチはなかなか日本では生まれないような気がする。

おっと話が逸れてしまった。

動物、人間、といういきものについて。
2年ほど前に『聖なるズー』というノンフィクションの本を読み、とても衝撃を受けた。
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」の人々との生活から筆者が考察を重ねる、という本なんだけれど、
動物を性愛の対象で見るということにではなく、動物を愛玩の対象と見て都合よく扱うということへの違和感を言語化されてしまった衝撃。
この本については、またの機会に語らせてほしい。

次第に夜が涼しくなってきた。夏が終わりが近づいてきたね。