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pomme d’espoir

 穏やかな揺れを感じる。目を覚まして体を起こすと、私は小舟の上にいた。大人一人が横になれる程度の小さな舟だった。木か何かで出来ているような頼りなさそうな舟。エンジンも櫂も無く、どうやってここまで来たのか分からなかった。辺りは薄暗く、空気は淀んでいる。


「誰か、誰かいませんか?」
試しに大きな声で叫んでみたけれど、応える声はなかった。
 不思議と怖くはなかった。だけど言いようのない焦りがあった。私には、早く行かなければならない場所があるはずで、やらなければならないものがあるはずだった。早くこの空間から抜け出さなければ。
 まずは腕を舟の縁から伸ばして手を櫂のようにして水を掻いてみた。水は思ったより冷たくて、ぴちゃという水音をさせただけで、舟は全く進む気配がなかった。
――どうしよう・・・。
余計に焦りと不安が増してきた。私には時間がないのに。そこまで考えてふと思考が止まった。
――私は何に焦っているのだろう?
どこを目指しているのか、どうして早くしなければならないのか、そもそも何をしようというのか、何も思い出せなかった。


 その時突然、水の中から死体のような、まだらな色をした腕が伸びてきて、私の手首を掴んだ。死体のような腕は、強く私の腕を引っ張り、私を水の中に引きずり込もうとしている。
――殺される・・・。死にたくない。
不安定な舟の上で必死に踏ん張って抵抗したので、頼りない舟はぐらぐらと揺れた。
「誰か助けて。死にたくない。」
わめくような声が出た。
『ノア、しっかり。ノア。』
知らない声が響いた。強くて、温かな声。
――ノア・・・。私だ。
思い出した途端、私の手首を掴んでいた死体のような腕が手を離した。
「私のことなんて誰も分かってくれない・・・。」
離す瞬間、水の中からそんな悲しそうな声が聞こえたように思った。舟は腕を離された反動で少しだけ進んだけれど、また止まってしまった。


――今の腕は一体・・・?
私が怖いもの見たさで舟から少し顔を出して水の中を覗き込むと、今度は水から両腕が伸びてきて、私の首に抱きつくように絡みついて、そのまま私を水の中に引きずり込もうとした。腕は驚くほど冷たくて、鼻をつくような悪臭がした。
「ちょっと、やめて。誰か助けて。」
私は夢中で腕を振り払って叫んだ。すると、
『大丈夫。ノアはノアらしく、生きていてくれたらそれだけでいいんだから。』
また誰かの声が聞こえて、温かな記憶が私を包んだ。
――お母さん。
大きな愛に包まれている、柔らかで安心する記憶。私の涙がぽたりと水に落ちると、私の首に絡みついていた両腕は私を離した。
「ただ、愛してほしかっただけなのに・・・。」
また悲しそうな声が聞こえた気がして、舟はまた少し進んだ。

 ぼんやりと思いだしてきた記憶の中で、私は表現者だった。誰にも理解してもらえない人や、愛に飢えた人のために表現し続けていたかった。今、私がやらなければという使命感と、私の使命に、実力も時間も体力も、何も追い付かないことへのもどかしさを感じていた。
――ノア。
思い出した自分の名前を口に出そうと思ったのに、なぜだか涙が伝って、うまく音にならなかった。


 その時、舟が転覆しそうなほど大きく揺れて、振り返ると、おぞましいミイラのような姿をした何かが舟に上がってくるところだった。それはもともと人間の形をしていたのだろうと分かったけれど、耐え難い悪臭や、朽ちて崩れかけた皮膚は私に生理的な嫌悪感を抱かせた。それは舟が揺れるのなどお構いなしで私に覆いかぶさるように迫ってくる。恐怖からくるものなのか体が震えたけれど、もう声にもならない音しか出なかった。
「死にたい・・・。でも生きていたい・・・。」
口だと思わる空洞からそう聞こえた。

 私はその声にすべてを理解して、自らそれを受け入れた。それまで抵抗していた両手を広げて、おぞましい姿のそれを優しく抱きしめると、辺りに光が満ちた。眩しくて思わず目をつむる。目を開けた時にはそれは消え、私はリンゴを1つ大切に抱えていた。


 ずっと死にたくてたまらなかったけれど、生きていなければ何の使命も果たせないと思って、もがくように必死で生きてきた。
――水の中に引きずり込もうとしていたあいつらは、全部私だった。全部私の言葉だ。
そう気づいたら涙が出た。私が成りたかった私、表現したかった私。理想の私が私を縛って追い詰めていた。そして。
「死のうとしたんだ・・・私。」
『ノア、こっちへおいで。』
優しい声が聞こえた。
「私にも、まだできることがあるかな?」
私が聞くと、
『もちろん。』
その声が答えた。それを聞いた私が頷くと、舟が進みだした。

 死者やミイラのような影は消え、透き通った水の上にはピンク色の花びらがたくさん浮かんでいて美しかった。空気は澄んで、優しく私を包むように暖かい。
――この場所を、この気持ちを、私はまだ表現していたい。まだ、生きていたい。
舟は声のする方へ私を運んでいく。私はリンゴを齧りながら舟に揺られていた。それは希望の味だった。

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