反能力主義の実践は可能か

制度や都市計画などのハード面から人間のソフト面が決定されるものの一番大きなものが資本主義社会なのだと思う。

能力によって人の価値が決まっていく社会の中で優生思想に基づいた犯罪が起こるのは不思議ではない。私達は子供の頃から常に能力によって選別されていて、それが「努力」によって達成されるものだと思い込まされている。実際は遺伝的な特権や社会的秩序によってそれらはほぼ「あらかじめ決まっている」にも関わらず。

そして、優生思想による差別や犯罪化を防ぐために「道徳」という教育がなされているが、肝心の「能力主義」が採用されている社会なので、根本的にそれらは説得力がないのだ。(「人権」ですらもそれらを覆すほどではないが徹底できればギリギリ「生存」はできるのではないか)

本当に差別やいじめなどの犯罪をなくしたいのであればそもそも「選別」を無くすしかないし、能力によって選ぶ選ばないが決められない社会にするしかない。

しかしそれができない。

そんな中で、学校という閉鎖的な空間の中でなんとなくの序列ができていく。それは年齢とともにはっきりとした形になっていく。

その空間の中で人として尊重され生き残っていく為には能力で他者を殴っていくしかないのだ。

能力がないと生きていけない、能力がないと尊重されない。そんなことを子どもたちに教えていかなくてはいけないのは辛い。

そうでない社会にしていきたい。

反能力主義(アンチメリトクラシー)の実践は多くの人々、自分自身の価値観の否定にもつながるだろう。なんせ私自身は人口の多い氷河期世代で厳しい倍率の受験を努力によって勝ち抜いてきたという自負があるのだから。

しかし自分自身を否定してでも、現在の社会を肯定し続けることはできない。

子どもを育てているからこそ、そこを感じる。

価値観の多様化などと言われているが、価値観はもともと多様にあった。

それを認められてなかっただけで初めから人間の価値観が多様であるのは当たり前なのだ。

それでもその多様な価値観を認める根底に「能力があるならそれを認めてやってもいい」という価値観があるのならそれらは多様とは言えないだろう。

不完全な人間達、能力があるものもないものも、それぞれが自分たちの生を誰に遠慮するでもなく主張しまくる、その混沌の中から秩序ではない「何か」が生まれるようにするには、そのような社会を想像するには。

考え続けている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?