何を一番にするかは私が決めること

自分が子どもを産んでから、目につくようになったのは「ママ○○」や「○○ママ」というやつだ。

○○には母親向けの仕事の名前だったり、母親向けの何か商売のものがある。

それは、母親=ママ に向いている仕事を紹介していたり、母親向けのサークルだったり、とにかく母親向けのものなんだということがわかる。

それを見ると、心が沈んでいくのがわかる。

パパ○○という父親向けのものは滅多に見かけない。(パパ活は援助交際の新しい名前なのでこれとは関係ない)

母親になった女の人は、母親になる前は人間の女で人生を歩んでいたわけで、名前もあるし、仕事もしている人もいるだろうし、とにかくそれぞれ様々な人生を歩んできたわけだ。

それが、子どもを産んだ途端にその人が歩んできて持っていた複数の社会的属性の中に一つ増えた社会的属性が、優先順位の一番に来る。
正確に言うと、その人の中で属性の一番に来ているかは関係なく、世間のその人の見え方が 母親>それ以外の社会的属性
になるくらい、それは強烈だということだ。

もちろん、その人の職場であったり、専門の場ではそんなことはないだろう。職場の人にとってはその人は職場の人であることに変わらないから。(それによって生まれる齟齬についてはまた別に思うところはある)

しかし、あくまでも社会の中では母親になった女というのは、母親という社会的属性を一番に優先しないと許されない雰囲気がある。

男性が父親になったからといって父親であるという社会的属性を一番に優先しないと許されない雰囲気はあるだろうか。

私は、大学を卒業してから美術作家として20年活動を継続していて、同時に講師の仕事もしている。どれも、自分の社会的属性としている。
ここ6年、それに親としての社会的属性も加わった。
生活は子育てを中心としながらも仕事も制作も続けているので、私は複数の属性をどれも「自分」の一部として認識している。

女の人は子どもを産んでも産まなくても人間であるのに、なぜ産んだあとは人間ではなくあたかも「母親」という生き物ののように扱われるのか。

単なる人間の社会的属性の一つでしかないのに、それがその人のすべてでないと許されないのか。それらの自己犠牲を払うのが当然とされているのか。

もちろん、母親になり、その社会的属性が自分の中で一番の優先順位になる人もいるだろう。
しかし、問題はそこではなく、そうでない人間のことだ。その人によって母親という属性が増えても自分の中で複数の属性が同列に並んでいるだけにも関わらず、母親が一番の優先順位であることがあたかも通常であるかのように思われる社会である。

そこには、母親になった女の人は人間として生きるよりもまず母親として生きるべきであり家庭内のことは家庭内で収めるべきでありあり主に子育ては母親が第一責任者だという考えがあり、その根底には家父長制的な思想がある。

ママ〇〇という名称を見るたびに、私は、母親という社会的属性によってないがしろにされる、自分の、他の人の大事なものをひとつひとつすくいあげていきたい気持ちになる。


私もあなたも、産んでも産まなくても私自身でありあなた自身であることは何も変わりがないはずなのに。



追記
ここまで書いて、子どもを産むまでに社会的属性をもっていなかった人間が母親になったことで初めて社会的な属性をもち、それをその人のアイデンティティーとする場合もあるなと思った。しかしここで危険なのは、子どもは自分の子どもであっても自分以外の人間であるという点で「他人」である、という点だ。他人を育てることをアイデンティティーとすることは自分と子どもを同一視する危険性がありそれはお互いによい結果を生まないと思う。やはり母親であることは複数あるうちの一つの属性とするのが良いのではないかと思う。子どもはいずれ大人になる。人は他でもない自分の人生を歩まねばいけない。


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