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「鎌倉街道」の始点は鎌倉じゃなかったりする

 鎌倉街道とは、鎌倉幕府が整備した道で、名称としては江戸時代に確定した。
 したがって、鎌倉と各地を結ぶ今でいう国道のようなもの。全国津々浦々に張り巡らされる性格のもので、各地に「鎌倉街道」の名がある。
 各地の「鎌倉街道」は、古道が残っている部分を指定しているものが多く、その始点と終点とはそれぞれの道による。つまり・・・始点が鎌倉市内にあるわけではない。鎌倉時代には『鎌倉街道』の名はなく、古代からの道を整備する形で使われていたようだ。

鎌倉時代の主要道
1)東海道~目的地:京都。経由地、駿河・遠江。下総・常陸への道も東海道に含まれる可能性あり。
2)中路~方向:武蔵東部や下野へ<鎌倉から丸子の渡しを通過>
3)奥大道~中路を経て奥州に向かう道
4)下道~方向:武蔵西部や上州<鎌倉から関戸の渡しを通過していく道>
5)北陸道~下道を使って、さらに信濃・越後に向かう道
6)武蔵大路~鎌倉と下野足利荘とを繋ぐ経路上の道(経路不明ながら上記の下道および古代の東山道武蔵路と重なる)

東山道(とうさんどう/とうせんどう)とは、五畿七道※の一つ。
※五畿七道(ごきしちどう)とは、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。1869年(明治2年)、北海道が新設されてからは五畿八道と呼ばれる。現在の日本各地の地方名の多く(東海、東山、北陸、山陽、山陰、北海道など)は、五畿七道(八道)に由来している。

http://inonet.jp/Kaido/Kamakura/Kamakura.html

 鎌倉街道という場合、古道としての価値?
 江戸幕府が整備した道に対して旧道を「鎌倉街道」と名付けたのではないかと仮説をたててみた。東海道や奥大道、北陸道は継続して使われるのだろうから、とくに鎌倉街道と言い慣わせる必要はないのだろう。鎌倉から群馬への道は、相変わらず使われていて、鎌倉街道といわれていたのか?
 関東における「鎌倉街道」は、上記ホームページにある、上道、中道、下道がメインであろう。

<問>江戸時代の道はどうなっているのだろう?
<答>五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。


鎌倉街道について、市町村がホームページ上にいろいろ書いている(観光?健康ロード?)

(鎌倉市)特に記事がない!

(保土ヶ谷市)ページあり。URLの掲載失敗。

(国分寺市)の解説がとても説得力がある。
 『現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたもので、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されてい ました。鎌倉以前の幹線道路である東山道武蔵路と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側-泉町交差点付近-小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびています。市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側にある国分寺崖線を切り通した約120メートルの道が「鎌倉上道」の名残といわれて保存されています。』

(高崎市)https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121900515/

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