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剣客商売第10巻 春の嵐

 第10巻は全話通して一つのストーリー。
 「あきやまだいじろう」と名乗る侍(頭巾の侍)が、暗殺を繰り返し、秋山父子や周囲の人びとを苦しめ・・・その裏に幕府重鎮の思惑。
 なので、1記事にまとめていきたいと思います。

 池波正太郎著「剣客商売」自分も歩きたく、地図を作りはじめました。
 今まで作ったものは「目次」記事でチェックいただけると嬉しいです。

 ストーリーの根底に息づく地図をお楽しみいただけたら嬉しいです。


地図(画像)

(前半のあらすじ)江戸の町に暗殺者があらわれた。
 「あきやまだいじろう」と名乗り、必ず証人を残す。
 最初は旗本。次に田沼家人。田沼が騒がないので、田沼を憎悪する松平越中守を狙う。果たして、越中守は、大治郎の引き渡しを求めて大騒ぎ、江戸城内でも、公然と田沼を攻撃し始めた。

6件の暗殺

➀愛宕下の道 ②田沼中屋敷(浜町)③松平越中守(上屋敷・門前の「越中橋」)④同、国許へ帰る途中の南千住 ⑤同、下屋敷・門番・・屋敷内から現れ ⑥田沼意次・家来

各話毎に作成した地図

<第1話・・・第1の暗殺:愛宕下の道、旗本/目撃者(小者)殺害現場>
最初の暗殺があった④武家屋敷街
生き残った権蔵が、件の頭巾の侍を見た⑥金王八幡宮門前(尾行)⑦で曲り⑧渋谷川沿い、⑨宮益坂へ・・・権造が殺さた⑩藪の下

⑩の位置が少し上にずれている。現在の六本木さくら坂が「藪の下」道で、当時は崖下の暗がり。

<第1話・・・第2の暗殺:田沼意次の家来(中屋敷)>
 田沼意次の浜町の中屋敷は、どうもここ↓。屋敷は、海に面していたようだ(江戸時代:オレンジ色の環状線の外は・・海というか、砂州)
 現代では区画整理が行き届き、江戸の道が不明、新大橋は、角度が違う。

<「第2話 寒頭巾」・・・第2話では暗殺は起こらない>
 1月1日~7日・・徳次郎は毎日金王八幡社へ。7日は小兵衛も。
 杉本又太郎道場に芳次郎が入門。又太郎は、1~7日中2回ほど大治郎宅へ。7日に芳次郎のために根津遊郭にお松を訪ね、これは辞めさせようと。
 7日昼、頭巾の侍は、金王八幡宮にて小兵衛の狼藉者を懲らしめる様子を見、根津遊郭総門では、又太郎とすれ違う。ただし、頭巾の侍は、小兵衛を強い年寄りと思ったのみ。又太郎とも互いに知らぬまま。

<「第3話 善光寺・境内」では、第3・4の暗殺が起る>
いずれ(第3・4・5)も、被害者は、松平越中守家来
第3の暗殺: 松平越中守・上屋敷 門前:②越中橋(1/9)
第4の暗殺: 南千住 ⑦日慶寺入口(1/27)
※1/28傘屋の徳次郎は、頭巾の侍を⑨青山善光寺で見る。

「第4話 頭巾が襲う」では、第5の暗殺が起る(第4話の最後のシーン)>
 いずれ(第3・4・5)も、被害者は、松平越中守家来(門番)
 ⑬松平越中守・下屋敷・・・正門にて。↓赤丸印

マーカーで海(堀)、近くだけですけど、塗ってみました。
道(黒線)が通っていて、⑬⑭⑮とも、正門はこの道に面しています。
⑭の上にあるマーカーの線は、越中家へも通じている掘割。

「第4話 頭巾が襲う」の最初の見せ場は、犯人の潜伏先の発見。

右手、➀善光寺境内を、頭巾の侍が突っ切る・・・傘徳はそれを尾行して⑧を突き止める

第4話で、昔の知り合い・荒川大学信勝を訪問し、情報をいただく。
 『秋山小兵衛が訪問したのは、⑫築地の南小田原町にある二千石の旗本・荒川大学信勝の屋敷』
 ※犯人は、戸羽平九郎と判明。背後に内緒の人(一橋治済)

<「第5話 名残りの雪」・・第6の暗殺が起る、田沼家家来:八ツ小路>
 小兵衛(偽名:前川角之助)は、昔の知り合いとして戸羽休庵宅訪問。
 (お孫さんがいるなら挨拶を・・・と。まったくの塩対応)
 応対したのは下男。後ろに曲者の気配。
・曲者とは別の男が尾行に付く。・・・小兵衛は団子坂へ誘導。
・すぐに傘徳は追いかける(見張り中断)。
・曲者も出ていく、千駄ヶ谷から筋違御門・・・田沼の家来を暗殺

 夜半、小兵衛たちは尾行した男を捕らえ、話を引き出すことができた。
 そのころ、頭巾の侍は根津遊郭にいたのである(夜半に帰宅)。

第5話 名残りの雪

<第6話 一橋控屋敷>

<第7話 老の鶯>
地図1
 
三冬・こはるは、こはるの実家(地図に書き込んでない)。
 大治郎と笹野新五郎は、➀橋場の道場(外出自粛・迎え撃つ!)
 隠宅はカラにする・・・⑨松平越中守の襲撃?
 団子坂の道場(杉本又太郎)には、岩森源蔵がいる。見張り:秀
曲者:一橋控屋敷
政敵:松平越中守<上屋敷から十人の侍が・・・>
 
話のはじめ・・小兵衛は又六の家に→⑥一橋控屋敷見張り、その夜の内に④元長へ(屋敷から曲者でない男。尾行したら⑦法恩寺傍の道場へ)

 ⑦中ノ郷の法恩寺で情報収集。曲者は⑪〔大むら〕へ移る(隠宅傍)
 次の日早朝、大むらへ行くが、すれ違う(地図2)

地図1。

地図2 ターニングポイント。
 互いに斬り殺そうとする小兵衛と曲者:戸羽平九郎
 次の日早朝、戸羽は鐘ヶ淵の隠宅へ、小兵衛は大むらへ赴く。
 タッチの差(法泉寺の入口)ですれ違ってしまった(黒先。小兵衛が堤へ駈け上れば、たがいに出会うレベル)。

地図3・・・レイヤーは「老の鶯」のまま
<戸羽平九郎の迷走>
②隠宅・⑱大川橋・⑬浅草寺境内・上野山内・⑤団子坂・⑭福巖寺・⑮千駄木坂・⑯根津権現(遊所)

<杉原秀ルート>

元長に着き、根津権現の福田屋へ入ったことを報告(予想・二刻)、外に出たら越中守家来
杉原秀は、足止めとなる。

<遊所を出た平九郎の足取り=黒ライン>
 芳次郎と傘屋の徳次郎が見張り・尾行。弥七と連絡を取り、小兵衛へ。
 対決の現場は、×印?

㉒駕籠で惣門をぬけ、↓へ。
322)戸羽平九郎を乗せた駕籠は宮永町(地図ではちょうど地下鉄駅)をぬけて、鉤の手の道を曲がり七軒町をすぎ、不忍池のほとりの道へ出た。
 道の右手は大名屋敷の練塀が長く続き、その向うに、茅町の町屋の灯がちらちらと洩れた。
 秋山小兵衛があらわれた。

<まとめ・田沼意次と小兵衛の会話(上屋敷)>
 戸羽平九郎の死体は、一橋控屋敷へ届けられ、浅野を経て、一橋治済に伝わった(はず)。←沈黙
 越中守へは、田沼意次から親書で犯人と経緯が伝えられた。←沈黙


小兵衛・大治郎チーム

小兵衛・大治郎(笹野新五郎・証人として)粂太郎、鰻屋又六、お秀。
四谷の弥七・傘屋の徳次郎、八丁堀の旦那(永山)。
団子坂・杉本又太郎道場(杉本又太郎・千代・不二家芳次郎)。
田沼屋敷
◆曲者に名乗られた大治郎は動きが取れない。ほぼ、蟄居(評定所も)

地図データ

本文抜書の『51)』等は、文庫本のページ数です。
切絵図はお借りしています。出典:国会図書館デジタルコレクション

第1話 除夜の客
 (第1の暗殺・旗本/第2の暗殺・田沼家来〈1話の最後〉)

 又八が、おっかさんの床払いの祝いの品(鯛と軍鶏)を持ってきた。
 その夜。
 小兵衛は、おはるを使いに、大治郎夫婦を呼びだして、一緒に鍋を囲んでいた。
 ちょうどそのころ・・・。 

時間:天明元年(1781)、12月17日
場所:芝・愛宕下、藪小路の入り口あたり(青×のちょっと右)
暗殺:井上主計助(八百石の直参旗本)と家来1名。いっしょにいた小者・権造は命の別条なし(証人にされたものと思われる)
犯人:頭巾の侍『あきやまだいじろう』と名乗った。

青×印が現場かと。「愛宕下の道」とは青線(タテ)の通りだと。 右「愛宕ノ下大名小路」

抜書10) ③芝・愛宕下の道を、八百石の旗本・井上主計助(かずえのすけ、御納戸頭、すぐ近くの④藪小路に屋敷)が➀新(あたらし)橋の方へ向かって歩んでいた。
 近くの②田村小路に屋敷がある小堀鎌四郎を訪ね、碁を楽しんだ。
 新橋へ出る手前の道を、主計助主従が左へ折れた。この道が④藪小路
10)待ち伏せの侍が「あきやま、だいじろう」と名乗り
 <まず、家来が斬られ>
 ③愛宕下の道まで後退し、抜き合わせた井上主計助の大刀は、打ちはらわれた(息絶え・・曲者は小者に害を加えようとせず、去る)

12)<翌日夕暮れどき、弥七が隠宅へあらわれ、知らせを>
14)「今朝方、八丁堀の永山さんの旦那から呼び出しがありまして・・・」
*永山の話:「愛宕下で井上主計助という、八百石の御直参が殺害され、その頭巾の野郎が秋山大治郎と名乗ったらしい」
16)かっと頭に血がのぼった弥七は、それから愛宕下へ行き、自分の目で現場をたしかめてから、隠宅へ
17)小兵衛はおはるの舟で大川をわたり、弥七とともに大治郎宅へ。
 おはるは、例の橋場の船宿〔鯉屋〕で待つことにした。
21)それから10日ほどが過ぎた。
23)小兵衛は数度、井上殺害の現場を見に行ったり、付近を歩き回ったりしていた(大治郎は自宅待機)。
25)三冬が隠宅に現れ、そろそろ稽古に・・・と言いに来て、
「かまわぬと申しなさい」(12/27)

25)翌12月28日。
 大治郎は、田沼屋敷の稽古納めに出て行ったが、同じ日に、④井上屋敷の小者・権造も、あれからはじめて、屋敷の外へ出たのである。

出典:国会図書館デジタルコレクション

24)井上主計助夫人の一代が、躰をこわし、主治医の川島桃伯先生に診ていただきたいという。川島桃伯は御殿医を引退して渋谷に住んでいたが、駕籠でやって来て診察してくれた。
25)帰りの駕籠に権造がつきそったのは、薬をいただいてくるため。
 渋谷に⑤金王(こんのう)八幡宮という古い社がある。
 金王八幡の近くにある川島桃伯の風雅な隠居所で、調合してわたされた薬の包みを抱き、権造が帰途に就いたのは八ツ(午後2時)ごろ。
26)ふと思いついて権造は、⑤金王八幡宮へ立ち寄り、拝殿にぬかずいた。
 それから、引き返した。
 表門から松並木の参道が南へ下ってい、前方に鳥居が見える。
 鳥居の向うは⑥門前町で、藁屋根の茶店が五、六軒。
 その一つからふらりとあらわれた侍が、鳥居近くの権造の眼に入った。
 あの夜の頭巾の凶漢。

27)権造はのめり込むように松並木の陰へ走り込んだ。
 頭巾の侍は悠々とした足取りで、⑦門前の道を右へ折れた。
 渋谷川の岸辺の道にも荷車や人びとの通行が絶えない。
28)侍は⑧渋谷川に沿った道を北へ、⑨宮益坂の方へゆっくり歩んで行く。
28)権造は帰ってこなかった。

第1の暗殺の証人・権造の死

時間:天明元年(1781)、12月28日(身元判明は29日、小兵衛が知ったのは30日の「大晦日」?)
場所:麻布の藪の下(崖下。六本木けやき坂通りか、さくら坂通り)
被害者:権造(井上主計助の小者)
犯人:不明

29)「権造は、⑩麻布の藪の下で切り殺されていたのでございますよ」
 四谷の弥七が秋山小兵衛の隠宅へ駈けつけてきたのは、その翌日で、すなわち、天明元年の大晦日だ。
 ⑩麻布の藪の下というのは、⑪桜田仲町から⑫南日ケ窪へぬける曲がりくねった細道が谷間へ下ったあたりで、少し先へ行けば、日ヶ窪の町屋もあるのだが、このあたりは、その名の通り藪や木立が昼も暗いほどに重なり合っている。

北が左:南日ヶ窪と北日ケ窪の間の道に出る細道

 で、その日の夕暮れどきに、南日ヶ窪で酒屋をしている九兵衛というのが、急ぎ足で藪の下へさしかかると、
「う・・・むぅ・・・」
 崖の上は、⑬毛利候の下屋敷(別邸)の土塀と木立である。
「こん・・・」

団子坂

北は右。団子坂と根津権現は700m・10分の距離 出典:国会図書館デジタルコレクション

35)本郷・団子坂。無外流の道場を構える杉本又太郎と妻の小枝。
38)ときに、五ツをまわっていたろう。
39)杉本又太郎が竹藪の中から見ると、小道に一人、佇んでいるのは町人風の若い男らしい。
 小道は、その先の木立の中を通り、千駄木の方にぬけているが、その間には人家とてない。
40)<首をつろうとしていた男(芳次郎)を母連れて来て・・・>
47)団子坂の杉本道場でも、又太郎と件の若者が除夜の聞いていた。
「さ、首を斬って下さいまし」

日本橋浜町(同時進行している事件)

38)ちょうどそのころ・・・。ーーー(五ツ時)
 ➀日本橋浜町にある老中・田沼意次の中屋敷(↓赤丸)の門前に、頭巾をかぶった侍があらわれた。
 頭巾の侍が、ふたたび田沼屋敷の門前に姿を見せるのは、およそ、二刻ほど後のことになる。
43)中屋敷の門前へ、またしても頭巾の侍があらわれた。
「粂太郎を呼んでいただきたい、わたしは秋山大治郎だ」
 足軽三井吾助・・・門番、頭巾を取った侍を応対。
 山田恒平が、粂太郎を迎えに行く・・・戻ると三井は斬り殺されていた。
 除夜の鐘

字の頭があるほうが正門なので、海側から来た?

※物語の進行はページ数をご参照ください。(小説は)畳みかけるリズムがドラマをみるようです。

メモ:第2の暗殺

時間:天明元年(1781)、12月31日 除夜の鐘
場所:日本橋浜町にある老中・田沼意次の中屋敷の門前
暗殺:足軽三井吾助 (証人)山田恒平、現場に粂太郎。
犯人:侍は頭巾を取り『粂太郎を呼んでくれ、私は秋山大治郎』と名乗った(面体を見ている三井吾助は死亡)。

=====天明2年の年が明けた=================

第2話 寒頭巾

51)<又太郎と芳次郎の対決>・・・
「お助けを・・・お助けを・・・」「生きていたいのだな?」「はい」。
 死のうとした理由・・
56)「きさまを、このような目にあわせたのは、どこの女だ?」
「③根津権現の岡場所にいる娼妓、弁牽牛のお松なんでございます」
「私は、⑤池の端仲町の菓子舗で不二家太兵衛のせがれでございます」
※➀-④根津権現門前付近。③は根津遊郭の総門と言われる位置
58)天明2年の年が明けた。
 元日の朝、父小兵衛の隠宅から秋山大治郎夫婦がおはるの舟に送られて大川をわたり、橋場の外れの我が家へもどって間もなく、
 飯田粂太郎が、浜町の田沼家・中屋敷から駆けつけて来た。
60)こころ急くままに、大治郎は橋場の船宿〔鯉屋〕から舟を出させ、大川をわたって、父の隠宅へ。
 そのころ・・・。
 隠宅へは、四谷の弥七。傘徳のことを聞かれて、
「それが大先生。今朝も早くから、⑥渋谷の金王様へ見張りに参って・・」
 大治郎が引き返してきて、すべてを語り終えたとき・・・

65)そのころ・・・。
 傘屋の徳次郎は、⑥金王八幡社の境内に佇み、目をくばっていた。

 一方、杉本又太郎は、死ぬ気が消えた芳次郎をともない、⑤池の端仲町の菓子舗〔不二家太兵衛〕方へ向かっている。
69)いつしか二人は、不忍池の西側の、茅町二丁目の道へ来ていた。
 ・・・いうや、不二屋芳次郎は、駆けるようにして仲町の方へ遠ざかった。

 又太郎は、その足で、浅草・橋場の外れの秋山大治郎宅へ年始に向かったのである。
 大治郎はまだ帰って来ていなかった。
 三冬、飯田粂太郎、笹野新五郎(町医者・小川宗哲宅へ寄宿)・・話
 夕暮れ近くなって、小兵衛とともに帰って来た大治郎は、三人の挨拶を受け、思いのほかに平静であった。
「一人歩きすなよ、よいか。かならずだれかを・・・」
 笹野新五郎が、すぐさま「今夜から道場へ泊らせていただきます」。
 宗哲宅へ向かい、身の回りのものを大風呂敷に包み、引き返してきた。

77)帰宅した又太郎。翌日。五ツ。
「首吊り男がまいっていますよ」(すぐ起きてください)
 不二屋太兵衛も一緒。芳次郎の住み込み(入門)を許す。

86)1月7日となった。この間に二度、杉本又太郎は、秋山大治郎宅を訪れている。

87)秋山小兵衛が、渋谷の⑥金王八幡社の境内へ姿をあらわした。
 小兵衛が町駕籠を金王八幡社へ乗りつけたときは、もう、昼に近かった。
88)何処からあらわれたのか、傘屋の徳次郎が、小兵衛へ追いついて来て、低く声をかけた。・・角の茶店へ
91)茶店の横手で悲鳴が上がった「お助け・・」(小兵衛が助けに入る)
 秋山小兵衛の早わざを見とどけた頭巾の侍に、小兵衛も徳次郎も気づかなかった。

94)この日の夕暮れが濃くなり、風が立ちはじめたころ・・・。
 ③根津権現門前の岡場所にある〔福田屋〕という見世から、杉本又太郎が出て来た。
96)(又太郎は)福田屋へ上がり、お松を呼んでもらった。
97)・・冗談ではない、芳次郎を、こんな女と夫婦にさせてはならぬ・・
98)③総門を出た杉本又太郎と、すれちがった頭巾の侍がいた。福田屋へ入って行った。
 ちょうど、そのころ・・・。
 秋山小兵衛は、浅草の駒形堂・裏河岸の〔元長〕へ、傘屋の徳次郎を連れて来て、しきりに労をねぎらっていた。

第3話 善光寺・境内
(第3・第4の暗殺:松平越中守家来)

99)➀八丁堀に、奥州・白川一万石・松平越中守定信の上屋敷がある。
 その表門の前の道の北面を楓川がながれてい、橋がある。
 この橋の名を②「越中橋」とよぶのは、いうまでもなく松平屋敷の正面に架けられてあるからだ。さて、正月九日の五ツ(午後8時)ごろであったが・・・。
 松平家の家来・伊藤助之進が、下役の坂田浜四郎と小者の卯七をつれて、楓川の北側の河岸地から、越中橋へさしかかった。
100)この日。伊藤助之進は、公用で巣鴨の中屋敷へ出向いての帰りであった。
 橋の向う側・・・つまり、松平屋敷の方から、人影が一つ、ゆっくり越中橋をわたって来た。
「秋山大治郎と申す」
・(1)卯吉、突き飛ばされ (2)伊藤助之進、惨殺 (3)坂田浜四郎・茫然自失
102)前のめりに倒れ伏し、伊藤が息絶えたとき、松平屋敷の傍門から抜刀の士(もの)が数人、道へ走り出て来るのが見えた。

第3の暗殺
時間:天明2年(1782)、1月9日 五ツ(午後8時)ごろ
場所:八丁堀・松平越中守定信の上屋敷前 越中橋
暗殺:松平家の家来・伊藤助之進が、下役の坂田浜四郎と小者の卯七
犯人:「秋山大治郎と申す」

102)同じころ・・・<アリバイというか・・・>
・秋山大治郎は、田沼屋敷の稽古を終え、笹野新五郎を従えて橋場の家へもどり、三冬をまじえて三人が遅い夕餉を終えたところだ。
鐘ヶ淵の隠宅では、すでに夕餉を終えた小兵衛が、おはるに腰をもませている。
団子坂の杉本道場では、杉本又太郎が芳次郎に・・・
104)(芳)「相手は、私よりずっと美(よ)い男で、お金もたっぷりあると申しますから・・・」
104)翌々日の十一日になって・・・。
105)幕府の評定所から、秋山大治郎に呼び出しがかかった。
 相手が悪い・・・松平越中守定信の家来(定信は田沼に憎悪)

113)正月十二日に、③江戸城・和田倉門外にある評定所へ出頭した秋山大治郎は、その日も、次の日も、帰宅を許されずに取り調べを受けた。
 新五郎は評定所で証言をした後、まっすぐに鐘ヶ淵の隠宅へ駆けつけた。

119)黒い頭巾をかぶっての証人調べ・・・姿形はそっくり(という)
「私は秋山大治郎だが、この声に聞きおぼえがあるのか?」
 翌十四日は、取り調べがなかった。
 そして十五日の朝になると、帰宅をゆるされたのである。ただし、
「外出を禁ずる」
 橋場の家へ帰った大治郎は、笹野新五郎を鐘ヶ淵の隠宅へやり、小兵衛にきてもらうよう頼んだ。
124)秋山大治郎の禁足は、十日で解けた。(24日?)
 この十日の間に傘屋の徳次郎は、二度ほどしか渋谷の金王八幡へ行けなかった。
125)四谷界隈で、殺人事件が起り、探索にかかっていたからだ。・・解決
 一月二十七日。徳次郎はまた、渋谷へ出かけて行った。 

 この日の早朝。
125)八丁堀の松平越中守・上屋敷から、旅姿の藩士二人が、国許の奥州・白河へ向かって出発をした。磯崎六平太・田代福太郎
 二人が、⑧千住大橋の手前にさしかかったのは五ツ半(午前9時)頃
 千住大橋の手前は⑤小塚原町・中村町の宿場で、俗に南千住といい、大橋をわたれば、北千住の本宿となる。
 磯崎と田代は、④浅草縄手より、⑤南千住の宿場町へ入った。
126)前方に、⑦千住大橋南詰の火除地が見えた。
 磯崎と田代が、街道を右へ切れ込んだところにある⑥日慶寺という寺院の⑦入口へさしかかった。
 ⑦入口というのは、細道が寺の門前へ通じているわけで、道をはさんで〔髪結庄太郎〕の店と〔綿屋巳之助〕の店がある。
 その髪結いの店の横手の羽目へ、ぴたりと身を寄せていた背丈の高い侍が、つと街道へ
127)「それがし、秋山大治郎と申す」
 名乗りあげざまに抜き打った。田代福太郎の絶叫があがった。

第4の暗殺
時間:天明2年(1782)、1月27日 五ツ半(午前9時)頃
場所:南千住、⑥日慶寺の⑧入口(寺に通じている細道)
暗殺:松平越中守家来・田代福太郎 (証人)磯崎六平太
犯人:「それがし、秋山大治郎と申す」

129)翌二十八日。
傘屋の徳次郎は、この日も朝から渋谷へ出かけようとして、身支度中
「お前さん、伝馬町の親分がお見えなすったよ」
 ・・・
131)「千住だ。小塚原の宿場の往来で、やってのけやがった」
132)「毎日、金王さんへお百度を踏むつもりで出かけているのですよ、親分」
133)弥七は、途中で別れ、先ず鐘ヶ淵の小兵衛宅へ向った。途中おもい直し、大治郎宅へ急いだ。果たして小兵衛とおはるが、三冬と共にいた。
136)松平越中守様家中の者という六人の侍。道場へ躍り込んだ六人が、大刀を抜きはらった。
138)同じ時刻(ころ)に・・・。
 傘屋の徳次郎は、青山の善光寺・境内にいた。
 徳次郎は、渋谷へ来ると、金王八幡を中心にした一帯を歩きまわり、それから青山か目黒のあたりまで足をのばし、午後からまた金王八幡社もどって見張りをつづけるのが例になっている。
139)善光寺前を通りかかったので、境内へ入り、本堂と観音堂に祈りをささげたのち、三社宮の鳥居あたりまでもどって来て、ひょいと仁王門の方を見やった傘屋の徳次郎が、おもわず「若先生」と呼びかけようとしたほどに似。
140)かの頭巾の侍は、本堂に参詣するでもなく境内を突っ切り、観音堂の後ろの木立へ入って行った。
 頭巾の侍は、木立をぬけ、裏門から出て行った。

青山 善光寺

関係地図

②第3の暗殺:越中橋(1/9)
⑦第4の暗殺:日慶寺入口(1/28)
⑨翌29日、頭巾があらわれた、青山善光寺

第4話 頭巾が襲う
(第5の暗殺・松平越中守下屋敷内)

141)(松平江戸城・家中6名)いきなり、道場へ踏み込んできた六人が抜刀したのを見て、後手に三冬を庇いつつ、するすると後退した秋山小兵衛が・・・撃退。1/28

144)さて、そのころ・・・。
 頭巾の侍の後を尾けはじめた傘屋の徳次郎は、どうしただろうか。
 ➀青山の善光寺の境内を斜めに突っ切り、②裏門から外へ出た頭巾の侍は、悠々とした足取りでへ向う。
145)右側は善光寺の塀。左手に武家屋敷がたちならぶ道の③突き当りは、松平安芸守の下屋敷だ。その下屋敷の塀に沿って、頭巾の侍はへ曲った。
 快晴の昼下がりのことで、武家屋敷の道に通行の人が絶えなかったことも、尾行にさいわいした。
 頭巾の侍は④道の突き当りを右へ折れた。
146)前面が急に開け、見渡す限りの田畑と木立になる。
 このあたりは、⑤⑥穏田(おんでん)とよばれてい、現代の⑦原宿駅前から⑧青山へかけての繁華街にあたる。
 畑の中の道を、頭巾の侍は北へすすむ。
 渋谷川の手前まで来て、頭巾の侍がこちらを振り向いたとき、徳次郎は、ちょうど木陰にいた。
 頭巾の侍は、⑦渋谷川へ架けられた土橋をわたらず、その手前を右へ切れた。

 そこには、こんもりとした木立に囲まれた⑧寮のような邸宅がある。
 畑道から少し引き込んだところに茅葺の古びた屋根門があり、頭巾の侍が扉を叩くと、覗き口が開いて、顔をあらためたのちに門の扉が開き、侍の姿を吸い込んだのだ。
 徳次郎は、二刻ほど、木陰から彼方の門を睨み、出ないのを確認した。

青山渋谷絵図より

147)その足で隠宅へ駆けつけた徳次郎から、すべてを聞き終えて、
青山の外れの穏田に、な・・・」(遠い目になった)
151)「その、⑧穏田の屋敷・・・(地図に)書いてみてくれぬか」
152)「⑧戸羽休庵というて、わしと同様、剣客の屋敷であったが・・・」   ・・・戸羽念流
152)「ご苦労だが、今日のことを弥七へ知らせてくれ。明日(1/29)四ツ、⑪金王八幡門前の茶店で落ち合おう」 
153)秋山小兵衛は、翌日の夕暮れ近くなって、町駕籠を大治郎宅へ乗りつけた。
 徳次郎と⑨金王八幡門前で待ち合せ、⑧隠田の寮を見に出かけての帰りに立ち寄ったのである。
 昨日・・・評定所
165)傘屋の徳次郎の執念は、一向におとろえなかった/日に一度は、⑧隠田の屋敷を見張りに出かけているのだ。
 一度は、青山の通りで見失い、一度は、青山から赤坂伝馬町の通りまで尾けたが、見失った。
169)大治郎宅を襲った六名を懲らしめてから八日目の朝。・・・2/5
 秋山小兵衛が訪問したのは、⑫築地の南小田原町にある二千石の旗本・荒川大学信勝の屋敷。
「ご隠居様は、すこやかにおわしますか?」
 小兵衛が両国の米沢町にある菓子舗〔京桝屋〕の〔嵯峨落雁〕を、徳田用人が早速に大学の前に差し出すと、覚えていてくれたのである。
 素直に話すことにし、旧臘からの、頭巾の侍に関するすべてを語るや、荒川大学は目をみはって聞いていたが、
「たしか、休庵先生の孫どのが、住み暮らしておるはずじゃ」
177)傘徳は見張りを続けていた。そこへ弥七があらわれる。
179)こうして二人は、⑧戸羽屋敷の見張りをやめ、青山の通りへ立ち去ったのである。
 ところが、それから間もなく、戸羽屋敷の門が開き、頭巾の侍があらわれたのだ。青山とは反対の方向へ・・・すなわち、⑦渋谷川へ架かった橋を北へわたり、畑道を東へ行く。
180)小兵衛が隠宅へ帰って来たのは五ツ(8:00)をまわっていたろう。
 すでに弥七と徳次郎は、帰りを待っていた。・・・2/5
182)ところで・・・。
 築地・南小田原町の荒川大学邸の近くに、ほかならぬ⑬松平越中守定信の下屋敷がある。

北は右。名前の上側に正門がある。

 南小田原町の西側は掘割になってい、その向うに、大名家の下屋敷がたちならんでいる。
 その中では、いわゆる徳川御三家の一、尾張家の控屋敷がもっとも宏大であり、この尾張屋敷と堀川ひとつへだてて、浜御殿(現在の浜離宮庭園)が見える。
 稲葉一橋松平(安芸守)の三家に囲まれた⑬松平越中守・下屋敷は、掘割をへだてた、南小田原町一丁目の町屋と向い合っており、さほど宏大なものではない。
 表門は、掘割に架けられた橋をわたった北側にあった。
 掘割に面して、屋敷の北端に水門が設けられてあり、これが舟入り場ともなってい、奥に邸内へ通ずる門がある。
「秋山大治郎」
 名乗ってから、いきなり鈴木の胸下の急所へ拳を突き入れた。
 門番所内の高山安五郎が、突棒をつかみ取って走り出た真向から、頭巾の侍の一刀が襲った。高山の悲鳴を真先に聞いたのは、同僚の足軽・上野平吉。大声をふりしぼった。
「お出会い下され!!!」
 あまりに見事な曲者の手練に、藩士たちは茫然となった。
「早く、人数を・・・」
 このとき、ようやく、鈴木幸七が息を吹き返した。

第5の暗殺
時間:天明2年(1782)、2月5日
場所:⑬松平越中守・下屋敷
暗殺:門番所内の高山安五郎 (証人)鈴木幸七
犯人:邸内から表門の詰所へ。「秋山大治郎」と名乗って鈴木を気絶させ、高山を斬る。

第5話 名残りの雪
(第6の暗殺、田沼家来)

187)➀築地の、松平越中守・下屋敷における惨劇によって、松平家の江戸藩邸は、混乱に陥った。
188)下屋敷の門扉は堅く閉ざされてい、曲者は邸内から突然あらわれ、門番を斬殺し、傍門を内側から開け、悠々として姿を晦ましたのである。
 曲者は掘割に面した水門からでも潜入したのか・・・。
 いや、そうではあるまい。水門も閉ざされていた。
 となると、塀を乗り越えて潜入したのか。どうも、そうとしか思えぬ。
 またしても強硬に、大治郎の引き渡しを求めてきた。
 証拠をもって大治郎の潔白を伝えても納得せぬ。田沼が老中の威力をもって評定所を押さえているからだろうというのだ。

190)旗本・荒川大学信勝から聞き取ったこと。それは、

➀休庵の寮にいるのは、休庵の孫・戸羽平九郎
②休庵の息・戸羽甚右衛門が徳川御三家の一、紀州家に仕えており、その息戸羽平九郎も紀州家につかえるもの。噂では平九郎は、10年ほど前に、紀州家の士(もの)と爭い事を起し、これを斬って捨てて、和歌山城下を出奔。事件は密かに処理された。
③平九郎が一橋家の庇護を受けている。
 ➀と②は、弥七と徳次郎に語った。③は小兵衛の胸の内

193)その日。
 秋山小兵衛は、②青山の外れの隠田の戸羽休庵旧宅へ向った。
 青山通りを北へ切れ込み、穏田へ出ると、田畑にも小立にも春の陽光がみなぎりわたっている。
195)③渋谷川に架かった土橋の手前を右に曲がると、こんもりした木立の向うに屋根門が見える。
196)ー下男と話すー「さようか、ではこれにて・・・」
197)わざと小兵衛は、傘屋の徳次郎が隠れている木陰に近づかず、そのまま、青山の方へ歩んで行った。
199)そして④善光寺の境内へ入り、参詣をすませてから、身を返した途端に
 (だれかが、わしを見ている・・・)
 と、感じた。

199)これより先・・・
200)木陰から、戸羽邸の門前を見守っていた傘屋の徳次郎は小兵衛が門内へ入ることなく引き返して来るのを見た。
 さっさと青山の方へ引き上げていく。徳次郎は(なるほど)と思った。
 戸羽邸の門がわずかに開き、中から男がひとりあらわれたのである←小兵衛を尾行

 徳次郎が走り出したあと、頭巾をかぶっていないが、あの侍が出て来た。
202)頭巾をかぶらぬかわりに、浅目の網笠に顔を隠し、門外から外の道へあらわれた。
 そして、これは⑤渋谷川の土橋を北へわたり、川沿いの道を東へ行く。
 この前、徳次郎と弥七が、その日の見張りをあきらめ、木陰から去った後に門内からあらわれた頭巾の侍が何処かへ去ったときと同じ道すじを、今日も歩んで行ったことになる。

202)傘屋の徳次郎は、⑥松平・戸田両家の下屋敷の間の細道を駆けぬけ、先まわりをして、⑦善光寺傍の道へ秋山小兵衛があらわれるのを待った。(尾行の件を伝える・・・件の剣客の姿は見えない)

赤線:小兵衛、青線?:傘徳(この道の痕跡は現在はない)

204)傘屋の徳次郎は、もとの見張りの場所へ引き返したのである。
 すでに、そのとき、あの〔頭巾の侍〕は、⑧千駄ヶ谷のあたりを歩んでいた。
※うららかな午後>傘徳:②戸羽邸前へ引き返す。小兵衛(尾行されつつ、茶店を出る)。曲者⑧千駄ヶ谷(夕方に八ツ小路の辻で凶行)

 秋山小兵衛が、⑨上野山下へ姿をあらわしたとき七ツ(4:00)をまわっていたろう。
 こころを決めた小兵衛は、⑩山内から⑪不忍池のほとりへ出て、⑫北へ向って歩みはじめた。
206)⑬谷中から、本郷の通りへ抜ける途中の⑭団子坂の杉本道場では、
「秋山の大先生が、お見えでございますよ」 

209)ちょうどそのころ・・・。
 ⑮神田川に架かる筋違橋をわたり、筋違御門を⑯八ツ小路の辻へ出て来た侍がある。
 内神田から外神田をつなぐ、このあたりの人通りは繁く
 だが、この侍は、田沼意次の家来で、名を石本長右衛門という。
 ⑰下谷・御徒町に住む親類の御家人・豊島文七郎宅から、⑱神田橋御門内田沼屋敷
210)八ツ小路の辻 別名〔八ツ路ケ原〕
 広場の東面は神田川。三方は大名・武家屋敷と須田町二丁目の町屋だ。
 石本長右衛門は、急ぎ足に、八ツ小路の広場を突っ切ろうとし、ちょうど、広場の中央へ出て来た。
 そのとき、編笠の侍が擦れちがいざま白木の柄の短刀を石本の左胸へ突き入れたものだ。

第6の暗殺
時間:天明2年(1782)、2月6日
場所:八ツ小路の広場
暗殺:田沼意次の家来・石本長右衛門
犯人:編笠の侍が擦れちがいざま白木の柄の短刀を石本の左胸へ

上が北 筋違御門 下谷絵図より
上が北 筋違御門/八辻原ト云 日本橋北神田浜町絵図より

211)そのころ・・・。
 団子坂の杉本道場と横道をへだてた板倉摂津守・下屋敷の土塀へ、ぴたりと身を寄せていた塗笠の侍が、じりじりと動き出した。
 穏田の戸羽休庵旧宅の門から出て、尾けて来たのである。
212)あたりは、大名の下屋敷だの寺院だの、それに木立も深い百姓地なのだ。
<迂回してきた又太郎が捕える>
 芳次郎が、曲者の面体をはじめてみて、驚きの声を発した。
214)「こ、こいつでございます。弁牽牛のお松の客の、お供なんでございます」
217)獅子頭のような顔を泪だらけにして啜りあげている。
218)「なんとか一つ、あの侍の頭を撲りつけることができたら、斬り殺されてもいいのです」

221)尾けて来た侍がやっと名乗った「岩本源蔵」

225)⑲根津権現・門前の岡場所にある〔福田屋〕
228)頭巾の侍が帰っていった。

228)そのころ・・・。
 おはるは、橋場の秋山大治郎宅に泊っていた。
230)雪は、まだ熄まなかった。
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第6話 一橋控屋敷

231)翌朝になると、名残りの雪は跡も留めていない。
 秋山小兵衛が、②橋場の大治郎宅へあらわれたのは、昼近い。
 粂太郎は、少し前に来ていた。がっかりするであろう、八ツ小路の暗殺の話をするつもりはない(緘口令も敷かれていた)
232)「ときに、粂太郎。どうしても、田沼様にお目通りをしたいのじゃ」
233)「いま、手紙を書くゆえ、急ぎ③屋敷へもどり、つたえてもらいたい」
 粂太郎は走り出た。
235)小兵衛は、おはるを伴い、橋場の船宿〔鯉屋〕へ行き、女あるじのお峰へ使いを頼んだ。
 一通は、鰻売りの又六。別の一通は品川・台町に道場を構える女武芸者の杉原秀。
236)一両小判をお峰へわたし、おはるの舟で➀隠宅へ向った。

236)・・・早くも飯田粂太郎が鯉屋の舟で大川をわたって来た。
 この二、三日、意次は、臥せていたので、このように早く返事が来たものであろう。
「いえ、もはや、御快方に向われまして、明日なら何時にてもとの、おおせでございます」
 粂太郎は、隠宅内の舟入場に待たせてあった鯉屋の舟で帰って行った。
238)間もなく、又六が駆けつけて来た。
「すまぬが又六、弥七のところへこの手紙を届けてくれぬか」
「急ぐゆえ、駕籠に乗って行っておくれ」
239)日もかたむきはじめている。
 上の堤の道で駕籠を乗り捨てた杉原秀が庭先へ入って来た。
240)「④団子坂の杉本又太郎宅へ曲者を一人、押込めてある、万一にも、逃げられでもすると、取り返しのつかぬことになってしまうのじゃ」
「はい、すぐさま団子坂にまいり、杉本どのより、御指図を受けまする」
241)「日が暮れぬうち、団子坂へ行ってくれるか?」
「はい、ではこれにて」

241)夕闇が濃くなりはじめたころ・・・。
242)穏田の⑤戸羽休庵屋敷を今日も見張っていた徳次郎は
「やれやれ、今日も出て来ねえ」
・いったん見張りからはなれた間、曲者が出て行ったのを見ていない。
・夜、徳次郎が帰ってから、曲者が⑤戸羽屋敷へ入った(見ていない)
・屋敷へもどった頭巾の侍が、今日の夜明前に出て行った姿も、見逃している。
 そして、今日の朝。またも徳次郎は見張りにあらわれ、日暮れまで凝と、見張っていたのである。
 そのとき、四谷の弥七があらわれた。
243)「徳、大変だよ、昨日の暮れ方、ハツ小路で田沼様の御家来が殺られた」
244)「ええっ」
「徳。あの屋敷から頭巾の侍は出て来なかったのか?」
「実は、親分」
245)徳次郎は弥七に、昨日の出来事を語りはじめた。
 そのころ・・・。
 杉原秀は、④団子坂の杉本道場に到着していた。
「では、捕らえた者の顔を見ておいていただきましょうかな」
「はい」
 岩森が喚いた。
246)「おれは・・・知れるかぎりのことを語った。もはや用はないはずだ」
「岩森どの。久しぶりですね」
247)岩森が、片膝を立て誰何した。
「きさまは、だれだ」
「杉原左内のむすめです」
247)岩森源蔵が、驚愕の声を発し、顔面蒼白となった。

247)四谷の弥七が傘屋の徳次郎を伴い、➀隠宅にあらわれたとき、(だいぶ遅い時刻)
248)昨日の日暮れ前、八ツ小路で田沼様の御家来が殺害(せつがい)・・弥七が報告
249)翌日の早朝。
 杉原秀が駆けつけて来た<岩森との因縁、会話の報告>
「秋山先生、これは天下の大事にございます」
254)この日の四ツに、秋山小兵衛は③神田橋御門内の田沼意次邸へ入って行った。
 四谷の弥七と徳次郎は、朝から⑤穏田の戸羽休庵邸を見張りに出たに違いない
257)小兵衛が、③田沼屋敷を出たのは、七ツごろであったろう。
258)途中で駕籠を拾い、➀隠宅へ帰って来たとき、あたりは明るかった。
260)<徳次郎があらわれた>
 頬骨の張った、異様に張り出ている額の下の細い目の、五十男の下男が戸羽屋敷から出て来た<尾行・行った先は⑥一橋控屋敷
264)⑥新堀川に面した⑥浅草田圃の一隅にある一橋家の控屋敷は、さして大きなものではない。

 ちょうどそのころ・・・。
 ⑥浅草田圃の一橋控屋敷へ駕籠が一艇、五人の共侍にまもられて入って来た。
 奥に入った侍と頭巾の侍(戸羽平九郎)との密談『小柄な老人は秋山小兵衛、今日田沼邸に入った』
 ⑤戸羽屋敷に来た小兵衛の姿と金王八幡宮(1/7)で狼藉者を懲らしめていた姿が重なる。岩森が戻らないことも気になる。
「浅野様・・・」
 戸羽平九郎は目の前の人物を、そうよんだ。
 浅野は、小判三百両を示し、江戸を離れよと言う。後一年の辛抱。秋山父子は斬れ。

270)五ツ半(9:00)になると、皆姿を消した。
271)昼すぎ。
272)秋山小兵衛は、⑦深川・島田町の又六の家で昼寝をむさぼっていたのである。
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第7話 老の鶯

273)四谷の弥七が、③鰻売りの又六の家へあらわれたのは、その日の夕暮れ。
「⑥浅草田圃の一橋様の控屋敷は、徳次郎が見張っております」
274)「大治郎のところに、変わりはなかったかえ?」
「大丈夫でございます」
 弥七は、➀大治郎宅を出てから、もう一度、⑥一橋屋敷へ立ち寄り、念のため、無人となった②隠宅を見まわった。
275)「竹藪の中に御宅を見張ってるやつが、いたもので」
「⑩亀島橋の彦太郎という御用聞き。⑨越中守様の屋敷のすぐ近くで」
 閃くものがあったので、彦太郎を見張ったところ、⑨越中守の屋敷へ。
276)二人の侍と彦太郎は、越中橋を渡って、南伝馬町三丁目の〔山田屋〕蕎麦

277)夜に入ってから、秋山小兵衛は弥七と共に⑥浅草田圃へ。
281)⑥一橋控屋敷の表の、傍門が内側から開き、提灯のあかりが外へ洩れた。
 戸羽平九郎ではなく逞しい体躯の侍であった。徳が尾行へ
「④駒形の元長で待っているぞ」
283)二人は〔元長〕へ。夜更けてから徳次郎があらわれた。
(件の侍は例の曲者ではなかった・・・)
284)「途中で酒を買いましてね。⑦中ノ郷の法恩寺の傍に⑦剣術の道場がありましてね、そこへ入って行きましたよ」
285)安永7年(1778)秋、秋山父子は、⑦中ノ郷の道場に巣喰っていた剣客・浪人どもを十数名斬って殪した。
「今は、⑦一刀流の佐田国蔵の道場でした」

 翌朝。三人がそろって④元長を出たのは、五ツ半(9:00)ごろであったろう。
 徳次郎は、永山同心へ連絡(つなぎ)をつけ、弥七と自分の家へ「心配するな」と告げて、
「あとは少し、躰をやすめておきねえ。夜になったら元長へ来てくれ」
と、弥七にいわれていた。

 徳次郎と別れた秋山小兵衛と弥七は、⑱大川を東へわたりきって、右と左へ別れた。
 弥七は、②鐘ヶ淵の隠宅の様子を見に行き、小兵衛は⑦中ノ郷の剣道道場

 小兵衛
285)⑦法恩寺という大寺もあることで、人通りは少くない。
289)「もしや、秋山先生ではございませんか」
 原田甚助ではないか。
 横川へ架かる⑦法恩寺橋をわたりつつ、小兵衛が
「ときに原田。お前の師匠は、一橋様と何ぞ関りがあるかえ?」
「そういえば、⑥一橋様控屋敷におられる人(じん)が、見えておりますが・・・」
 小兵衛は、⑦法恩寺、門前にある〔菱屋〕という料理屋の二階座敷へ。

 そのころ・・・。
 四谷の弥七は、②隠宅へ。土足の跡が屋内に隈なく付いていた。
 弥七は凝然と立ちつくした。

293)一方、秋山小兵衛は
293)「どうあっても、佐田先生に会っていただきたく」
 出て行った原田勘助が、佐田国蔵を案内してきた。
294)「門崎敬之進と申しまして、浅草の・・・」
295)「例の、ほれ、戸羽休庵先生の孫どのが、また⑥一橋屋敷に滞留して」
「何でも⑪寺嶋村(現・墨田区東向島)の、大むらという料理屋へおもむかれるとか」
 親しげな二人の会話を小兵衛は黙って聞いていた。
296)小兵衛は、⑧法恩寺橋を渡り返したところで二人と別れた。

出典:国会図書館デジタルコレクション 江戸切絵図・向島絵図(回転)

297)⑪諏訪明神の横道を東へ入ったあたりの、こんもりとした木立に囲まれた〔大むら〕という料理屋は、小兵衛も、見たことがある。
 小兵衛が④駒形の元長へもどると、弥七が待っていた。
298)「大先生。土足で汚したのは、何者でございましょう」
 夕暮れになって・・・。
 徳次郎が④元長へあらわれると、
「あ、徳。疲れているところをすまねえが、いっしょに来てくれ」
(⑪大むら探索)

299)翌朝も、暗いうちに・・・。
 秋山小兵衛は弥七をつれて、④元長を出た。
 徳次郎は、小兵衛が④元長に滞留していることを③大治郎宅へ告げに行き、そのあとは、④元長に待機。
 昨夜。弥七と徳次郎は、⑪大むらへ行き、戸羽半九郎が奥の離れ屋にいるとつきとめた。
300)④元長を出た秋山小兵衛と弥七は、⑱大川橋を東へわたりつつあるとき、⑪寺嶋村の大むらの、奥庭の離れ屋の戸が、内側から引き開けられ、戸羽半九郎が庭へおり立った。
301)庭づたいに歩み、ふわりと垣根を飛び越えて木立の中へ姿を消した。
301)それから、しばらくして・・・。
 弥七と小兵衛が奥庭に踏み込んできた。
302)「おらぬ」・・・「②鐘ヶ淵に行ってみよう」
303)ちょうどそのころ、戸羽半九郎は②鐘ヶ淵
「おらぬ」・・・「では、倅のほうを先にするか・・・」
304)一方、秋山小兵衛は、寺嶋新田の道を斜めに突っ切り、⑫法泉寺の横道から、大川端の堤の道へ出た。
 これは近道をしたわけだが、かえっていけなかった。
 はじめから、堤の道へ出て、大川沿いに北へすすめば、向こうからやって来る戸羽半九郎と出会ったはずである。
 小兵衛と弥七が⑫法泉寺の横手から堤の道へ出た、そのすこし前に、平九郎は⑫法泉寺門前を行きすぎていたのである・・・▲すれ違い

黒:平九郎。赤:小兵衛⑪「大むら」から、法泉寺前の田舎道を突っ切り堤防へ。
距離からすると、隠宅は、もう少し南だったかなぁ、と思う。

<戸羽平九郎の迷走>
306)戸羽平九郎は、⑱大川橋を西へわたり、いったんは⑬浅草寺の境内へ入り、橋場の方へ向かいかけたが、急に空を仰ぎ、晴れわたった朝空をながめ、舌打ちを洩らした。
306)戸羽半九郎は、⑬浅草寺から引き返して浅草の広小路へ出て、田原町をぬけ、上野山下へ歩みはじめた。
 それから約一刻後に、上野山内をぬけた平九郎が⑤団子坂へあらわれた。
307)団子坂道場から〔不二屋〕の芳次郎が豆腐を買いに出、みとがめた。(尾行)
 平九郎は団子坂をのぼりきって、本郷通りへ出て左へ折れ、⑭肴町の福巌寺という寺へ入って行った。

肴町は、左中。団子坂は右上。地図上に福巖寺は見当たらない。

308)平九郎は、⑭福巖寺に午後までとどまっていた。
 ⑭福巖寺を出た平九郎は、⑮千駄木の坂を下り、⑯根津権現社の境内をぬけ、門前町の遊所へ入った。(福田屋お松)
309)大門を出た芳次郎は、まっしぐらに杉本道場に駆け戻って行った。
310)そのとき、杉本秀が、秋山父子へ知らせるのは自分がよいといい出た。(福田屋の見張りは芳次郎)
 すぐさま、芳次郎とお秀が走り出て行った。

310)これより先・・・というのは、戸羽平九郎が⑯根津の福田屋へ入ったころであったか・・・。
 秋山小兵衛と弥七が、④駒形堂裏の元長へもどって来た。
 ちょうど、そのとき、浅草御門からますぐに浅草寺・門前町へ通じている大通りを駒形町へさしかかったのが、ほかならぬ亀島橋の彦太郎であった。
 彦太郎は、手先の吉松をつれ、これから、またしても②鐘ヶ淵の隠宅へ探りに行く途中らしい。
「すぐに後を尾けろ。おれはお前の後から行くぜ」
 二人は、小兵衛と弥七が元長へ入るのを見とどけてしまった。
「おれはこれから、⑨松平様の御屋敷へ知らせてくる」

314)お秀は、⑤団子坂をのぼったところの肴町にある駕籠屋から町駕籠をたのみ、鐘ヶ淵に駆けつけることにした。・・・隠宅にはだれもいない・・(若先生宅へ)。⑫法泉寺まで駕籠で行き、堤を下って渡し舟で大川をわたることにした。
 大治郎は
315)「父上は、④駒形堂裏の元長にいるはず」
316)➀橋場から今戸へ・・・今戸から山之宿へと大川沿いの道をまっしぐらに走る。

 そのころ・・・。
 亀嶋橋の彦太郎は、松平越中守の家来十名を案内し、浅草の御米蔵前の大通りを、駒形へ向かいつつあった。
 彼らより、一足先に杉原秀が④元長へ駆け込んだ。
317)(根津に向けて)弥七と徳次郎が飛び出す。
 松平家の士たちが当着したのは、その直後。
 元長から出て来た長次が、抜刀して迫って来る十人の侍を見て、悲鳴をあげて中へ。
 長次と入れ替わった秋山小兵衛。そのうしろへ出て来た杉本が
「ここは私に引受けさせていただきます」

321)⑯根津門前の福田屋へ町駕籠が着いた。
 平九郎を乗せた駕籠が、惣門の方へ向うと、福田屋の筋向いの〔杵屋〕という蕎麦屋の二階座敷から見張っていた不二家の芳次郎と傘屋の徳次郎が尾行にかかった。
322)戸羽平九郎を乗せた駕籠は宮永町をぬけて、鉤の手の道を曲がり七軒町をすぎ、不忍池のほとりの道へ出た。
 道の右手は大名屋敷の練塀が長く続き、その向うに、茅町の町屋の灯がちらちらと洩れた。
 秋山小兵衛があらわれた。
「戸羽平九郎。あわてずに出てまいれ」
 ★芳次郎も一太刀(触れもしなかったけど)

326)荷物を積んだ荷車が一つ、⑥浅草田圃の一橋・控屋敷の門前へ。

328)田沼意次は秋山小兵衛にこういった
「この後、あのような愚かなまねを一橋卿はなさるまい。表沙汰にいたせば、波紋はさらにひろがって、天下の大事となってしまう」
 ⑰田沼屋敷の奥庭の桜花は、すでに散りつくしている。どこかで鶯が鳴きはじめた。

終わりに

 やはり、本一冊は長くなりました。文字数一万九千。あらっ。小説の二万文字には届かないのね(脱線)。
 ここまで辿り着いていただき、ありがとうございます!

 今日もいいことがあなたの前にたくさん転がっていますように。

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