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剣客商売第11巻 第7話 小判二十両

 船宿〔鯉屋〕では、隠し部屋を作ったそうな。鯉屋のおかみ・おいねと小兵衛の会話。そのさなか、町人がむさ苦しい浪人と入って来た。浪人は、二十数年ぶりに見る小野田万蔵(辻平右衛門・門下)だった。
 隠し部屋のある座敷に案内させ、密談を聞き取った小兵衛。
 翌日、小兵衛は老舗の仏具屋へ。よもやま話をして戻ってきた。
 仏具屋〔藤方屋宗兵衛〕当主は、明日は目黒の長徳寺へ墓詣り、そのあと目黒不動に参詣するのだという。

 このサイトでは、「剣客商売」の地図を作っています。
 今まで作った地図は「目次」記事でチェックいただけると嬉しいです。   
 ではでは。机上ツアーにお付き合いいただけますよう。


地図(画像)

地図1 概要

 ⑦新寺町通・ここに〔藤方屋宗兵衛〕のお店(たな)があり、⑮の目黒不動までは、一日仕事だった。宗兵衛は、母・お順のために町駕籠を雇い、月命日に墓詣り(長徳寺)、目黒不動裏の伊勢虎で昼餉をするのが恒例だった。 ←狙われた・・お順の誘拐(千両)計画

地図2 小兵衛が宗兵衛を訪ねたルート

 おはるの舟で山之宿まで。弥七に召集(おはるにすぐに帰るよう頼む)
 花川戸から浅草広小路、東本願寺を抜けて新寺町通へ。

地図3 墓詣ルート(本文通りにマーカーを置いてみた)

 ⑨白金の通りから⑩六軒茶屋を経て、⑪行人坂を下る道筋は、⑮目黒不動への参道でもある。
 ⑪行人坂を下り、目黒川に架かる石造りの⑫太鼓橋をわたってから、道を左へ曲った。田地の中の道だが、⑭長徳寺へ行く近道なのだ。
※当時は、川がもう少し西にあったので、すぐに曲がったと思う。点線は、帰り道。

⑧の雉の宮は、曲者どもの集合場所。墓参ルートから微妙に外している。

 帰りは、⑬「伊勢虎で昼餉のあと、参道をまっすぐに行人坂へ」とあるが、下の地図の赤線(ルート)と思われる。襲撃地点は、上の地図の矢印のあたりか?長徳寺の屋根が見える、とあるので、坂を上がった場所、細い道のあたりか?

北は右

地図データ

本文抜書の『51)』等は、文庫本のページ数です。
切絵図はお借りしています。出典:国会図書館デジタルコレクション

船宿〔鯉屋〕

268)秋山小兵衛は、息・大治郎の家へ初孫の小太郎の顔を見に出かけた。
 夕暮れ近くなって、➀浅草・橋場の船宿〔鯉屋〕へあらわれた。
 おはるの舟は、まだ、小兵衛を迎えに来ていない。
269)「大先生・・・。うちにも、橋場の親分のすすめで隠し部屋をつくりましたのでございますよ」
270)「橋場の親分」と呼ばれている土地(ところ)の御用聞き、富次郎
271)「あの二人、隠し部屋のある座敷は通しておいておくれ」
 お峰が案内した後で店に出て来た秋山小兵衛が、古顔の女中へ、
272)「いまのは、なじみの客かえ」
「浪人さまのほうは、今日がはじめてでございます」
 小兵衛は浪人のほうを知っていた。二十数年ぶりに見る小野田万蔵であった。
275)「その、供をしている男を打ち倒し、気絶させればよいのだな」

二十数年前

277)小野田万蔵、15歳。辻平右衛門道場へ入門して来た。
 二百石の幕臣、小野田定七郎の次男
279)「私の父は、小野田定七郎ではなかったのです」
 品川宿で酒に酔い、土地のならず者を三人も斬り殺し、そのまま江戸から逃走したという。

翌朝・・・

284)寺嶋村の豆腐屋が毎朝の豆腐を届けに来た。
285)それから一刻ほど後に、小兵衛とおはるは小舟に乗って②隠宅を出た。
 舟を③浅草の山之宿へ着け、
「では、おはる。この手紙を弥七へと頼んで、家へ帰っていなさい」
286)二人は陸(おか)へ、小兵衛は④花川戸から⑤浅草の広小路の方へ向う。
 浅草の⑥東本願寺前から上野山下へ通じる道を、土地の人びとは⑦〔新寺町通り〕とよんでいる。この通りの両側にはびっしりと寺院がたちならんでい、したがって仏具屋も少なくない。
 その中でも、⑦〔藤方屋宗兵衛〕は七代のつづいている老舗
<小兵衛と藤方屋の関係は・・・>
 藤方屋の先祖は何でも武家だったそうな。その所為か代々の主人は一応、武道の心得があったとかで、先々代の当主は辻平右衛門の弟子であり、先代は小兵衛の許で五年ほど修行した。当代は牛堀九万之助門下。
289)「明日は先代の命日であったな」
「毎月の命日には墓詣りに出かけるのかえ」
「私も、ちかごろは、母の供をして寺へまいりますのが、たのしみになりましてございます」
「菩提所は、⑭目黒の長徳寺でございまして・・・⑮目黒の不動様へ参詣をいたし、裏門前の伊勢虎へ立ち寄り、昼餉をいただきますのを、母がその、大変によろこんでくれますもので・・・」

月に一度の墓詣り

292)四谷の弥七が傘屋の徳次郎をつれて隠宅へあらわれ・・・その夜は泊った。
293)藤方屋宗兵衛が、母のお順と共に⑦新寺町の家を出たのは五ツごろであったろう。町駕籠を二挺。
 四ツ半少し前に、二人を乗せた駕籠は目黒へさしかかった。
 ⑨白金の通りから⑩六軒茶屋を経て、⑪行人坂を下る道筋は、⑮目黒不動への参道でもある。
 行人坂を下り、目黒川に架かる石造りの⑫太鼓橋をわたってから、道を左へ曲った。田地の中の道だが、⑭長徳寺へ行く近道なのだ。
 そして、
295)⑭墓詣りと⑮目黒不動の参詣をすませ、名物の黒飴などを買い、⑬伊勢虎で昼餉をしたため、帰途につくときは、参道をまっすぐに⑪行人坂へでる。
294)田地の中を通っている道は、人びとがほどんど歩いていない。
 道は深い木立の中へ吸い込まれていた。
 その木立を抜けると、前方に⑭長徳寺の大屋根がのぞまれる。

襲撃

295)二人の駕籠舁きが打ち倒れた。
<闘>
 ・・小野田の腹帯を斬り、10両をすてさせ、小兵衛は20両入った腹帯を小野田に与えた
302)「心が落ち着いたなら、鐘ヶ淵のわしの家へ訪ねて来いよ」
304)⑧(品川台町の雉の宮の社の境内
 小兵衛は隠し部屋で襲撃の当日の待合せる場所 ↑ と時刻を知り、待機・尾行した。

 お順の実家は、赤坂・表伝馬町の印判師で宮下金兵衛方。

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