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酔いの口 その三 : 鍵

Yさんが専門学校時代の話。
ロック•ミュージシャンになる事を夢見て埼玉の実家を
離れ神奈川県の綱島で一人暮らしをしていたYさんは、
音楽の専門学校に通っていた。

住まいは8畳ほどの1DKの小綺麗な単身者用の
マンション。
各階の部屋数はさほど多くなく、たしか10階建て、
縦に長いマンションだったと筆者は記憶している。

さて、待望の一人暮らしと夢への第一歩ということで希望に満ち溢れていたYさんであったが、大概の学生がそうであるように彼もまた、初年度の夏を経て秋になる頃にはすっかり怠惰な生活を送るようになっていた。

授業をサボり始めるので楽器に触れる機会も自ずと少なくなる。その割にバンド仲間やサークルの飲み会には毎夜足繁く通い飲み歩き、マンションに帰らない日もしばしば
あった。
生活面も荒み始め、敷布団をベランダに干したまま1ヶ月ほど放置、付近からは「あそこの住人は死んでいるのでは?」と疑われたなんてこともあったそうだ。

「反抗」「パンク」といった、主張が強い傾向にあるアティテュードを持つ音楽を好んでいた当時のYさんは、所謂重力に逆らう行為こそが全ての正義と捉えていた。なので多少の破壊的行為は理解できたが、その事を踏まえても当時の彼の荒れた振る舞いの数々は、周辺の人々を困惑させることが多かった。

そんな彼でも、同じ学校に通うSさんという彼女が
出来た。飲み会などでもちらほらと顔を合わせる、
柔和な口元が印象的なおとなしく小柄な女性。
クラシックを専攻していてお淑やかな印象のSさんが
なぜYさんに心惹かれ、お付き合いをすることになったのかは、今となっては知る由もない。

そして、SさんはYさんに尽くしていた。
主人のいない部屋に足繁く通い、掃除や洗濯、食事の用意をして文句や小言ひとつ言わずに彼の帰りを待つ日々が半年以上続いた。

当のYさんはそんな事は露知らず、相変わらず遊び呆け、遂にはあろうことかSさんを鬱陶しく思うように
なる。
残酷ではあるが、まだまだ遊びたい盛りの青年にとっては、Sさんの好意は「無言の圧力」でしかなかった。

そこからは、それほど時間はかからなかった。
ある日酔って明け方に部屋に戻ってきたYさんは、まるで厄介者を露払いするかのようにSさんに一方的に別れを
告げ、部屋から追い出してしまった。
よくある男女の色恋沙汰の終わりのひとつであった。

それから一か月ほど経ったとある夏の夜。
日頃の遊び疲れからかこの日は珍しく外出せずに自宅にいたYさんは、夕食も取らずにウトウトし始めナイター中継の終盤頃にはそのまま深い眠りに着いていた。

……。

尿意を感じうっすらと目を覚ますと外は少し白み始めていた。数時間は寝ていたことになる。
なぜか部屋の電気とテレビは消えている。

「!」

Yさんは目を見開いた。仰向けに寝ていたYさんの枕元から、覗き込むように人が立っている。
立ち位置上、逆さまの顔が見えているので誰だかはわからないが、無表情の女であることは認識できた。
慌てて飛び起き、仰反り、後退り、その背中が壁に着くと同時に全身に悪寒が走り、その後に大量の汗が吹き出してきた。

Sさんだった。
柔和な口元はそのままに、ジッとYさんを見つめている。

「ど、どど、ど…」
Yさんは言葉がでない。

「鍵を、返しにきました。」

Sさんは徐にポーチからこの部屋の合い鍵を取り出し、
床に置くとそのままスッと部屋を出て行った。
朝日が昇り始めていた。


その日の夜、居酒屋で今朝の出来事を友人達に聞いてもらっていた。あの後、暫く茫然自失の状態であったが、この頃には冷静さを取り戻していたYさんは、酒の勢いもあってかその感情は夜更けと共に次第に怒りに変わっていった。

嫁さん気取りで家事をしていた事、そもそもなんで告白してきたんだ、俺は最初からあんまり好きじゃなかったんだ…

有ること無いことを酒の勢いに任せ友人にぶちまける。
そしてまた始まる何度目かのセリフ。
「そもそも何勝手に明け方に入ってきてんだよ!」

その時ひとりの友人が、何かに気付いたようにハッとしてYさんに問いかける。
「明け方に来たのは確かなの?」
「外が明るかったからね」
「でも寝てたんでしょ」
「うん」
「あの娘の性格からして朝の4時とか5時に人ん家におしかけて来ない気がするんだよなぁ」
「でも来たんだって!」
「じゃ、こうは考えられないかな…」
「!?」

Yさんの背中に何故か冷たい汗が流れ始めた。

「結構前に来ていて、Y君が寝てるから起きるのを待ってた。結構な時間、部屋で待ってた。そう考えるとさ…」

もうYさんは友人が次に何を言うか分かっていた。

「何時間お前を見下ろしていたんだろうな…」

その日から、Yさんはその部屋には戻らなかった。

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