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解釈の余地を残す

解釈の余地がない、明確な分かりやすい説明が絶対に正しいと思って生きてきましたが、実はそうではなかったのかもしれません。

解釈の余地が残されているが故に、好きになってしまうものもあります。

例えば、クリストファー・ノーランの映画『インセプション』は「最後のコマは回り続けたのか否か」を議論したくなります。

考えれば考えるほど、そのことが脳内を占める割合が大きくなり、いつの間にか自分の文脈に組み込まれて、自分のものになっている気がします。

そもそも、自分の言葉は自分を離れたら、相手の文脈に則り解釈されます。それなのに、相手にどのように解釈してほしいのかを一方的に願っても叶うわけがないものなのかもしれません。

あくまで自分は「解釈の提案者」であり、「解釈の提供者」ではないかもしれない。自分の言葉や考え方自体に意味や価値はなく、それらはすべて受け取り手の文脈次第で変化しうる。

想いや考えが伝わらないとガッカリする必要はなく、自分にできることは提案まで。提案できていたか否かを振り返る。

「絶対~だ」など、断定して話すことが多いので、もっと余裕をもって相手に解釈を委ねてみようと思います。

いや、絶対に気を付けたほうが良い(のかもしれない)

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