「今夜、世界からこの恋が消えても」と「TANG」観ました。
2022夏に同じ監督が3作品も全国上映するような映画を作るようになっている日本、どうなってんの!って思いまして、せめて映画の内容を見てから文句くらい書こうと思い、この2作品(普段なら絶対に見ることがないだろう)を見てきました。もちろんこれから公開される「アキラとあきら」もみますよ。
さて、早速映画の感想的なことなのですが、「TANG」のいいところはTANGがかわいいというところです。TANGと旅をする中で、引きこもりゲームニートだった春日井健(ニノ)が改心して、働くようになるお話なのですが、TANGの可愛さ以外に思いつくことがあまりないです。強いていうなら、春日井健のスマホに登録されていた嫁の名前がフルネームで"春日井絵美"だったのは少し違和感を感じた、くらいです。自分の嫁のスマホに登録するときフルネームで登録するんかな?そこの辺の感覚がよくわからなかったけれど、健が大して絵美のことを好きじゃなさそうだっていうのは伝わってきました(主演ニノですしね)。ろくでなし男感は星5評価です。
「今夜、世界からこの恋が消えても」(以下セカコイとします)ですが、僕はこの映画を見るまでは単なる一週間フレンズのパロディだと思っていたのですが、中身はかなり違っていて衝撃を受けました。
この映画は「1日ごとに記憶を無くしてしまう女の子」と「その女の子を好きになった男の子」と「記憶がリセットされることを利用して男の子を寝取ろうとする第3の女の子」の3人のお話で3人の視点が入り乱れています。(原作は読んでいないので、単に映画だけ見た感想です)原作がそうでなかったとしても、映画はそういうふうにできていました。物語の終わりは、男の子(神谷透)が死に、記憶がリセットされる女の子(日野真織)はその事実を知ってしまい、記録としてその事実をノートに書いた。その結果毎朝、記録のノートを読み返すと神谷透のことをだんだん好きになりノートの中で死んでいく。を繰り返し自暴自棄になるが、親友であった寝取り女(綿矢泉)がそのノートを消去することで日野真織の記録(記憶)を書き換えてしまいました。そして何日か過ぎた後、日野真織の記憶が戻り始めたことを聞かされた綿矢泉は、自分がノートの記録を書き換えたことを告白して終わる。透は死んでしまったが、真織の心の中で生き続けていく...映画は普通に見る分にはこんな感じの話だったと思うのですが、僕なんかが見ると少し歪んで見えました。この映画は最初に書いたように、神谷透と日野真織と綿矢泉のそれぞれの視点の3方向から描かれています。一般的に、1人称の語り口には現実を歪めて伝えることが多いですが、特に日野真織の視点(1日で記憶が消えてしまう自意識)のところの映像はほとんど嘘である(美化されている)と思っていいです。"ファイトクラブ"のような、不安定な自我を持つ1人称の語りは、その映画の映像の説得力の不安定さにもつながるということを、映画に時間を多少無駄遣いしている人なら気づくはずです。そうしてこの映画を振り返ってみると、真織のメンヘラっぽさ、綿矢泉の女としてのヤバさが浮き出て見えてきます。
綿矢泉は小説家の西川文乃=神谷早苗のことが好きだと、劇中で話している。西川文乃は神谷透の姉で、透と泉は互いに共通点が多い(演出はされている)など、ラブストーリーものだったらこの2人がくっついても不思議じゃないお似合いのカップルに見えます。けれど、泉は真織のことも大切だし結局は自分の欲望(透とつながりたい)を抑えて、泉のために親友として必死にサポートするという良いヤツを演じていましたし、それは実際に物語の中でも真実なのでしょう(多分ね)。けれど、真織と透がお揃いで買ったはずのペンギンのキーホルダーを泉がつけていたシーンとか、真夜中に真織のノートを盗み見して朗読する泉とか、寝取り願望がところどころ発散しかけていて、泉のヤバさが画面から伝わりまくってきました。まさか、セカコイなんてタイトルからは想像もつかなかったところからパンチを打たれた気分だったので、少しクラッとしました。良い。
それに加えて、"ノートを書き明日の自分がそれを読み、記録を記憶として刻むという行為"、"ノートを書き換えるという行為"それは虚構に対する態度とも受け取れます。ノートを書き換えるのを劇中では、嘘を書くのが仕事である小説家である神谷早苗がしていましたし、真織は物語の序盤で透と付き合う条件として「お互い本気で好きにならないこと」と言い、疑似カップルとして付き合うことを明言していました。それは製作者(または原作者)が「嘘」に対して自覚的にこの映画を作っていたということの宣言のようにも聞こえました。2人の視点、透と真織の視点から描かれたこの映画の特に真織視点からの描写の不安定さ、スクリーンに映し出されるシーンの全てが夢のお話で、本当は透と真織の間に何もなかったんじゃないか?という恐怖が僕にとっては心地よかったです。それは言いかえれば嘘の中の嘘が心地いいということです。単に騙されるだけでは人は快感ではなく怒りを覚えるけれど、手品のようにあらかじめ嘘だと思って見てそれでも騙された時に出てくる感情は、快感であることが多いはずです。
最後に、映像や小説は虚構の産物です。単におはなしの器というだけではないメディアです。"セカコイ"を見終わると、この2時間は全部嘘だったんじゃないか(映画なんてそもそも嘘だろ!わら)...とある種の虚無感におそわれました。大多数の、この映画に本当に感情移入して真織や透や泉に半ば同一化したり、役者の福本莉子や道枝駿佑や古川琴音を推して見ていた観客にとってはどうでもいいことなのかもしれません。ただ単に僕がおかしいだけなんだと思います。でも、映画というものが嘘の継ぎはぎで出来ていてそもそも不安定であるのにも関わらず、この映画は意図的にもっと不安定に作られていて、それが気になって仕方ない僕にとっての"セカコイ"という映画は、久々に孤独に嘘の快感に浸れた素敵な映画でした。
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