きっかけは、「自分への嫌悪感」

小学生の頃、周りの同級生たちに「ハッキリしろ」と何度言われたかわからない。

気の弱い私の周りには、気の強い同級生がたくさんいた。自分の主張が通らなければ気が済まない、自分の思うままに行動したいという人が運の悪いことに多かった。

「誰と遊びたいのか」「誰が好きで一緒にいたいのか」と、小学生ながらにこんなことを日々友人たち(友人と呼ぶべきなのか)に責め立てられていた。

周りの意見が上手く調和されることが一番で、自分の意見は後回しにしがち(これは今もかも)な私にとって、個人的な意見を求められるのは苦痛でしょうがなかった。そして大体にして友人たちの責めの言葉の裏には「私を選べ」という考えが透けて見えていた。

親や先生に助けを求めたこともあったが、子どもの揉め事としか扱われていなかったのか、自分で解決する力をつけてほしかったのか、具体的な救済措置はないまま時間だけが過ぎていた。

正直問い詰められたところで”どっちでもいい”気持ちでしかなくて、意見を言ったら言ったで噛みついてくるくせに何故私ばかり問い詰められてるのかわからなかった。

そんな反発心と同時に、”ハッキリしない私が悪い”という自責の念も、小学生ながらに沸々と湧いていたのかもしれない。

そんなこんなでしっかりと解決はしないまま中学生になった。

ちなみに田舎町で育ったので小学校・中学校・高校はほぼ周りの人間関係に大きな変化はなく、同じメンバーで18年間を過ごしていた。

13~14歳の頃は、やはり色々と多感で「自分と他人の差」を感じざるを得ない時期だと思う。私も例外ではなかった。勉強や運動、その他のことをしながら学校生活を過ごしていると、だんだんと「自分には周りと比べて優れているところなんてないのではないだろうか」と思うようになった。今から考えれば、”加点方式”ではなく、著しい”減点方式”で自分を見ていたのだと思う。

自分の長所は自分では見つけにくいと良く言うけれど、それはきっと他人から見れば”尊敬”に値する行為だとしても、自分の中では”当たり前”のようにする行為だからだろう。今から考えるとその頃の私には「人の長所を見抜く才能があった」のかもしれない。

でも当時は、人が自分にできない行動をすると「なぜあの人が当たり前のようにできることが、自分にはできないのだろう」という思考に変換してしまっていた。

人の良いところは”自分との違い”としてだけ見ればいいものを、”自分にはない”という部分ばかり残ってそんな自分自身を卑下・嫌悪するようになってしまった。こんな思考回路なばかりに、日常を過ごしているだけで自己肯定感・自尊心がすり減っていった。


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