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大工という生き方 vol.1

完全燃焼した記事から2ヶ月が経った。
そろそろ書こう笑


ふと
長野に移住してきた頃からずっと通っている珈琲屋へきた。



とある珈琲屋


誰1人知る人のいないこの地に来て
学校、バイト、車校、旅の間を縫っては
時給700円のバイト代からやりくりして
一杯400円の珈琲を飲みにきていた。

いや珈琲を飲みに来たというより
人と話す時間にお金を払っていた。


例えば
今隣に座っている女の子との初めて出逢った時の会話は

『サナダムシを飲んだけどウンコで出ちゃった話』や『地元の子どもたちが秘密基地を壊されたのに怒ってイノシシを谷へ落としていた話』だった。

今日は『上司が中国から輸入したウツボカズラの種を会社で育てはじめたけどどうも怪しい』と言う話をされた。

人脈0からはじまった長野暮らしも
ここに通い詰めるうちに行けば誰かいる場所、誰かと話す場所になった



そんな場所は僕にとっては

移住して来た時
学校へ通っていた時
大工の世界に興奮した時、感動した時
大工になることを決めた時
挫折した時
親方と出逢った時
弟子入りした時
大きな仕事を任せてもらえた時
失敗した時、怒られた時、悔しかった時
親方が破産した時、お別れの時、
独立した時、現実を知った時

全ての時間が
このカウンターと、珈琲と一緒だった。


いや変てこ不思議なマスターと、常連客たちと共にあった。

過去の自分と逢える特別なカウンター。




ここに座ったら蘇った記憶たちを記しておきたくて、
大工になった流れをここに書こうと思った。


(きっと何回かに分けるんだろうな…笑)



なぜ『大工』だったか


生い立ち編の続きの位置付けではじめる。


「村」を創ろうって思った時
「made in 友達の世界」を創ろうって思った時

『自分が楽しくやれるコト』と『誰かにありがとうと言ってもらえるコト』が重なるスキルを探した。

そんなことを想いながら
ヒッチハイクや野宿を繰り返す旅をして
各地でリノベーションやらDIYを手伝った。

その度に
もっと大工技術があれば、もっとみんなの力になれるのになーって度々思うようになって

…これだ!
「みんなより大工の技術のある人」になろうと思った。
「住」のことならはるがに聞けば頼ればなんとかなる!って人になりたくて。

村…集落…暮らし…衣食住…
そうだ、いつか村をつくった時に
「住」や「空間」を担当しよう。

小さい頃から木工やモノヅクリが大好きだったし、秘密基地もたくさんつくった。

その延長だ!



当時読んでいた本に
「やるべき事は子どもの頃の砂場の延長にある」的な事が書いてあったり

旅人の大先輩の友達は
「好きなことを信じないでいたらいづれやるべきことに出逢えるから」

と言われたし、もうこれしかない!と




長野の職業訓練校へ


そんな流れだったから
「生業」としての大工になりたいわけではなかった
また旅をするつもりだったから

「専門学校」や「大学」に行くのは時間とお金がもったいない気がして

自分のお金で行けて1年2年で終えられる「職業訓練校」にいくことにした。

軽い気持ちだったけれど、その1年や2年は本気で勉強したくて
地元だと遊んでしまうし、どうせなら木のとれる山のある地域で学びたい。
みたいなことがあって

くわえて前回記事に書いた、「移住した理由」の心の流れもあって

長野県にある職業訓練校にいくことにした。
絶対受かると思っていたから試験のついでにアパートも探した。
(試験帰りもヒッチハイクだったな)

当時未成年だったので、彼女の名義で契約して、親に長野いくことを伝えたのなんてかなり後だった気がする。
(全て事後報告style)

そうして職業訓練校へ通いはじめた。

入学式の後に書かされた「卒業後の進路希望」は

第一希望「旅人」
第二希望「フリーター」

だった。

この時までは。


軽い気持ちで覗いたこの世界が「泥沼」だったなんて知らなかったから。


あとがき

珈琲屋でエモったついでに
みんなに聞かれることを書いてみた。

「仕事」ってものの位置付けはみんなそれぞれでいいのだけれど

俺の場合は
ある意味熱くて
ある意味ドライな
そんな理由が伝わればと思う。

また長く書いてしまいそうだけれど読んでいただいた皆様、ありがとうございます

コメントやリプ、嬉しいです。好きです。

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