見出し画像

松屋に対しての所感を書く

 320円。資本主義が支配する現代において、これはいかほどの金額であろうか。

 大学二年生の春、私は筑波大学の宿舎を脱し(敢えて「脱し」という表現を用いさせていただく)、憧れのアパート生活が始まった。とはいえお金など常に足りない状態である。節約のため自炊をしようにも面倒だったり、課題、サークルがあったりと意外と忙しい。そんな中、道路を挟み私の家の斜め向かいにある「松屋」との付き合いは始まった。今回はそんな言わずと知れた定食チェーン店「松屋」、それは私にとって何なのか。思っていることを述べていきたい。

 松屋は「癒し」である。食券機で券を購入し、任意の席にさっと腰掛けると歓迎労いと言わんばかりのお冷orお茶が手渡される。「自分はここにいて良いのだ」日本のおもてなしの心が確かに息づいているのを感じる。そして待ち時間であるが、3分以上待つこと自体稀ではないかと思うほど注文~提供までの流れはシームレスで極めてストレスフリーだ。私の場合、大抵運ばれてくるのはホカホカと湯気をあげる出来立ての牛めし(並)と決まっている。威勢良くかき込むもよし、ゆっくり一口ごとに楽しむもまた一興、だ。そして目線をちらりとおぼんの斜め横にスライドさせると、我々はさらなる幸せを発見することだろう。320円で牛肉、白米に加えお味噌汁が楽しめるなんて誰が想像しただろうか。このように松屋には圧倒的な「はやさ、やすさ、(うまさ)」が存在する。課題、制作、サークルの練習終わりに、いつでも(24時間営業は大学生にとって強烈なアドバンテージである)私たちを迎えてくれる。例えば学校で9時過ぎまで作業してお腹をすかせて帰路に着いた時、ふと思い出す…「お米炊いてなかった」。依然として課題は終わっていない、徹夜覚悟の状況にも関わらず、十分なご飯が食べられないのは非常に良くない。空腹は瞬間的な病のようで、身体ではなく心まで弱らせる。そんな時にいつも目に浮かぶ、あのオレンジ色の看板よ…。

 また、深夜の店内で同じような境遇と思われる、同士と遭遇することもある。同級生、先輩、後輩…立場は違えど牛めしの前では皆平等である。実際のところいささか恥じらいを覚えつつも、目配せをして(相手に声をかけるべきかためらわれる状況にあるように見える場合もよくある)、相手の検討を祈る瞬間は胸が熱くなるものだ。松屋に集いまたそれぞれの道へと進んでいく、そんなつくばの26時は私にとってとてもエモーショナルで泥臭い、生を実感する瞬間である。

 私が主張したいのは、チェーン店であろうが何だろうが思い出に残る場所というのはその人自身のパーソナルな体験に拠るところが大きいということだ。つまり、外食産業に限らず個人経営店は減り、チェーン店がまちを席巻するようになった。均質かつ無機質なサービスと商品は我々に便利さをもたらしたが本当の心の充足、「あたたかさ」を失わせてしまったのでは云々…というよくある論調について私はある意味異を唱えたいのである。確かにその土地の馴染みの店に入って店主さんやお客さんと談笑したりするのはかけがえのない楽しさがあるし、失われては地域が間違いなく味気なくなるものだ。実際私もつくばに住んで3年目、そういう店が増えてきてとても嬉しい。しかしそれはそれとして、大変だったバイトの後の牛めしの一杯、ばったり会ってはにかみあった同級生とか、サークルの後に寄って同期とグダグダ話し込んだ日とか、ちょっと贅沢したい日のポテトサラダセットの美味しさ、お冷がお茶に変わり季節の移ろいを感じる…など、心を動かされた記憶というのはたくさんある。何となくだが十年後も松屋に入ったらこの大学生の時期のことを、カウンターに腰掛け牛めしに紅ショウガをのせた日のことを思い出すのではないかと思う。心地よさ、ノスタルジーを感じる場所は人それぞれにあり、我々の世代それは地域性というよりも個々の体験に左右されやすいのではなかろうか。

 冒頭の問い、320円の価値について。私にとっては、否、全ての「松屋」ラヴァーにとって320円とは牛めし一杯以上にかけがえのない時間を手に入れることができる金額なのだ。…書いてたらお腹減ってきたし昼は松屋にしようかなぁ。

2019/1/27 春

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?