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評価のまなざしを脱臼する


●  評価のまなざしが支配する社会


 無職や貧困、障害など、世の中から否定的に扱われる立場になると、自分の素性を隠したり、他者に受け入れ可能な語り方を迫られ、ビクビクしながら生きていくことになる。

 世の中が常に評価のまなざしで支配されていて、自分が何か話すにも世の中の価値体系に沿った表現でないと他者からも受け入れられにくい。それは窮屈で自分の言葉を奪われて操り人形にされてる感じでもある。かといって対抗するにもエネルギーがいる。そこで、世の中の価値体系に乗りつつも、自分のネガティブ性をテコに評価のまなざし自体を茶化すようなやり方もできないかと考えている。「負け」の立場を引き受け、評価のまなざし自体をうやむやにできないか。「アカンけどしゃあないやんか」という感じだ。受け入れられるか跳ねられるか、それとも諦められるか。ちょっとばかりハラハラする。

 否定されたりスルーされることも大半だけど、言ってみれば何ともないし、むしろ面白がられることもある。

 わたしたちはこの社会で生きる中で評価のまなざしに常にさらされていて、知らず知らずのうちにそれを内面化している。話すこともありのままのことや自分の言いたいことではなく、評価者の視点を踏まえて、評価に耐えられるかを基準に言葉や説明を先回り的に組み立てるクセがついている。評価のまなざしの中に身を置いていると、自分が他人から納得されるように、受け入れられるように言葉を選ぶクセがついてしまう。

 このクセは染み付いてしまうもので、子どもの時から学校などで規律つけさせられる。立派な人と比較させられ自分を追い立てるような評価のクセはずっとつきまとう。自分ができないことをできないままでは放っておかれず、反省や改善の言葉を求められる。遅刻したら先生に納得されるような理由を言い繕うのも、評価のまなざしをクリアするためだ。

 就活の面接などで顕著だと思うが、面接で言うことは常に評価のまなざしに耐えうることでないといけない。例えば面接で失敗経験を聞かれても、その失敗を通して自分はどのように成長したかなど、評価のまなざしに耐えられる失敗談を求めれる。面接官を納得させるようなエピソードを含んだ失敗談だったり、当たり障りのない失敗談である。お金を盗んで捕まったとかガチでアカン失敗談は話したら即アウトだろう。

 評価のまなざしが支配する社会では、自己を表現する時には、相手から受け入れ可能な生産性の文脈に沿う言葉を探したり組み立てるのにしばしば労力を使う。

●  評価のまなざしを脱臼する

 引きこもりやあまり働けない人などは、就労や社会復帰に向けて頑張っていることや、意欲あることを示さないといけない。それが、評価のまなざしに沿う「よい当事者」である。社会から受け入れられるためには生産性の文脈で自己を語ることを迫られてしまう。

 そういう生産性の文脈に追い込まれるのはゴメンだとなると、人と話すのも嫌になる。でも、わたしは人と話したいし、路上に出て面白い経験をしたりお金をもらいたい。あと、誰かと話す時に半引きこもりの立場に許しを乞うたり、思ってもいない弁明もしたくない。わがままである。笑

 そこで、自分の置かれた状況を無理に隠すのでもなく、反発するのでもなく、立場のネガティブ性を引き受けた上で、評価のまなざし(生産性)を揺らすような言葉をとっさに投げかけることもある。


 横浜の路上でおっちゃんから「あんた生活どうしてるんや?」と聞かれた時、「親のすねかじってます」と思い切って言ってみた。すると、「あんたの家はお金持ちやな」とちょっと突かれつつも、「人生いろんな道があるかもな」とええ加減な話になってしまった。

 路上で出会った会社員の方には、「働けなくても、何かしら人や社会との交流をもって生きられればそれでよいと思ってます」と言うと、とりあえず応援してますと投げ銭もらえたこともある。その人は本心ではどう思ってるかは分からないけど、自分の思いをその場で直接対面で言えた経験はちょっとすがすがしかった。

 あまり働けないことをネガティブに思われつつも、頭ごなしに否定してくる人は案外少ない。路上で訳の分からんことをしてるなんて面倒くさそうな人だと大抵の人はあまり話したがらないと思う。あえて、こちらを言いくるめようと生産性のない労力をかける人の方が逆に変な人なのかもしれない。

 この前、大阪の路上で会った生活保護のおっちゃんは、自分のネガティブな立場をむしろネタにしている感じだった。競馬で負けまくってると堂々と言っていた。周りからは「あんた、生活保護なのにいい暮らししてるな」となじられつつも、うまく地域でつながりがある感じだ。ニコニコしながら、廃棄物を拾ったらお金になると話してくれた。おっちゃんも自分のケシカランことを相手に言ってみて、否定されるか面白がられるか、乗るかそるかのゲーム(政治)をやってるのだろうなと思う。どんな反応をされるかは相手次第だ。そういう出たとこ勝負にかける必要もあるのだろう。

 相手がどんな反応するか一か八かだ。その場限りの相手なら、もう会うこともないかもしれないから言いやすいのではないか。自分の腹のうちを見せることで、話しかけてくれたり投げ銭をくれる人もいたりする。

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