鏡と花

 カネは一向に貯まる気配を見せない。親に一部負担してもらっているとはいえ、東京の家賃はワンルームでも決して安いものではない。その点、時間を貯めるのは実に簡単だ。何もせず放っておくだけで勝手に貯まってくれるのだから。9年も付き合っていれば、マンネリという言葉がちぐはぐに感じられるくらい彼女は俺にとって当たり前の存在になっている。そのままの距離感を心地よく感じる俺とは対照的に、彼女は10年の節目を跨いでしまう前に二人の関係に決定的な変化を持たせたいらしかった。それでも、カネは一向に貯まる気配を見せない。

 午前2時の無縁坂を東大方面へ向かって歩く。バイト先のコンビニからアパートまでは徒歩10分ほどの距離だ。都内とはいえ街灯も少なく薄暗いこの路地を深夜にさまようのは気味が悪い。汚いボロアパートへ急ぐ。汚くてもささやかであたたかい我が家へ。彼女との関係にとっての目的地もきっとそういった類のものなのだろう。ここらで、弛んだ腹を括るときなのかもしれない。

 鉄門の角を曲がった先で、小柄な女性が歩いているのを視界の恥に捉えた。このあたりでは見かけない後ろ姿だ。引っ越してきたばかりの若者だろうか。小さな背中に背負った大きなギターケースの向こうに黒く長い髪が揺れている。スマホに目を落としイヤホンで聴覚も遮っている彼女を見ていると、他人事ながらはらはらした。

 女の子は俺のアパートと同じ方向へ交差点を曲がった。一瞬カーブミラーに映った横顔から推測するにまだ20歳やそこらだろう。自分も交差点を曲がろうとした次の瞬間、視界に黒ずくめの男が侵入してきた。男は手にハンマーを持っている。死角にいる俺に男は気が付いていない。女の子も、スマホに夢中で男に気が付いていないようだ。男がハンマーを振り上げる。

 考えるよりも先に体が動いた。男が振り上げたハンマーは、ふたりの間に割って入った俺の肩を直撃した。悲鳴が深夜の寝ぼけた空気を切り裂く。男を追おうとするが体が動かない。女の子に支えられて顔を上げるとカーブミラーが目に映った。

 ミラーに映る自分は、痛みに顔を歪めているかと思いきや気味悪く口元を歪め笑顔を浮かべていた。通り魔から少女を救ったのだ。何一つ持っていない俺にだって、いざとなれば身を投げ出すことで何かを変えることができる。ミラーに映った自分の表情は、俺にそう語りかけていた。劇的に体裁を繕うことができてにやけている醜い自分の表情が、夜の闇のなか蒼白く不気味に浮かび上がっていた。



 翌日、俺は花を買って例の交差点に向かった。角に花をそっと置いて、ギターのピックをそばに添えた。カーブミラーを見上げると、肩から血を流して不気味に笑う自分が映っていた。アイコスに灯を煎れる。一体、いつまでそうやって突っ立ってにやにや笑っているつもりなんだろう。

 彼女からの着信が山のように溜まっているスマホをどぶに捨てた。

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