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この素晴らしき世界

 昔昔、とは言ってもそう遠くはないほどの昔。
 あるところに一人の偉大なる魔法使いがいた。
 魔法使いは古今東西のありとあらゆる魔法を修めていた。もっとも得意とするのは変化の術。猫でも、蛇でも、蝙蝠にでも、どんなものにでも姿を変えることができた。人の目には見えない小さな壁蝨にも、巨大極まる竜にさえも、およそ生き物であるならばどんな姿にでもだ。
 どんな姿になろうとも、突然現れた新入りを物珍しげに取り巻く彼らとは決して同胞ではない。そのことに少しの寂しさを覚えることはあれど、それでも心の赴くままに次次と姿を変えながら、魔法使いはたった一人で悠久の時を生きていた。

 それはよく晴れた日のことだった。鳥の姿で天高く羽ばたいていた魔法使いは、空の上で今まで見たことのない生き物に出会った。体は赤く形は海老に似ており、背には蜻蛉のような透明の翅が七対、並んでいる。頭から突き出た球体の眼は黒曜球のごとくつやめいて、陽光を映して輝いていた。
 その生き物は雲から雲へと跳ねるように飛び回っていた。反り返った背中の殻はいかにも楽しげに躍動し、虹色に輝く翅はあまりに美しい。魔法使いはいつしかうっとりと目を奪われ、その後を追っていた。そして、気がついたときにはすっかりそれと同じ姿になっていた。
 魔法使いは驚いた。なんとまあ、ついにおれはその名すらも知らぬ何かになってしまった。幾許かの心許なさはあったが、しかし空はどこまでも青く澄んでいて、びょうびょうと吹く風は心の澱をも吹き飛ばしてしまうようで、そんな風に乗って雲の上を跳ねるのは大層気持ちがよくて、翅の色を変えてみたりするのもなかなかに洒落ていて。魔法使いは夢中で跳ねた。くたびれるまで跳ねに跳ねて、ふと辺りを見回してみればそこはいつの間にか真夜中の深い森の中。
 魔法使いは急にそら恐ろしくなった。名も知らぬ森の中、名も知らぬ生き物の姿をしたおのれは一体何者なのか。そういえば、おれにも名があったろうか。誰かに呼ばれたことはなかっただろうか。親の記憶などとうにない。どれだけ生きたかもわからない。あらゆる生き物に変化していた記憶が等分にあって、偏るということをしていない。生まれた場所も、時代も、雌雄の別もわからない。記憶の底を漁ったが、かけらほども思い出せない。果たしておれは、本来どんな生き物であったのか。わからない。何も思い出せない。そうなるともう恐ろしくて、寂しくて、悲しくて。朽葉の匂いのする地面を這いずり回りながら、魔法使いはさめざめと泣いた。
 やがて涙を枯らした魔法使いは土を堀り、小さな穴に丸くなってすっぽりと収まった。自分の周りに固さと、重さと、湿り気とを伴ったものがあると少しだけ安心できた。
 そのうちに、魔法使いは一匹の土竜になった。だんだんじっとしてはいられなくなって、跳ね起きたかと思うとさらに深く穴を掘り始めた。休みもせずに掘り続け、そうしている間は寂しさを忘れられるような気がした。力の限り掘りに掘って、ついに再び地上に顔を出した。その時にはとっくに夜は明けていて、そこは海の見える高台だった。魔法使いは息を呑んだ。風のにおい。草のにおい。毛皮に埋もれた小さな目を大きく開く。
 晴れた空、澄んだ海、風にたなびく青々とした草……これは、なんという美しい景色!
 魔法使いは今までの寂しさ恐ろしさをころりと忘れた。そうして穴から飛び出したかと思うと、たちまちのうちに今度は人の姿になって、緩やかな斜面を一目散に駆け出していった。

 喜びに満ちて駆けてゆくその後ろ姿を、黒光りする二つの真球が空高くからじっと見つめていた。やがて魔法使いの姿が見えなくなると、海老とも蜻蛉ともつかぬそれは虹色の翅を羽ばたかせて雲の向こうのいずこかへと飛び去っていったのだった。

 それはそう遠くはない未来の話。
 何にでもなれる魔法使いは、今でも何者にもならぬまま。己のことなど何も知らず、思い出せもせず。しかし、それでも。
 ——それでも、魔法使いはこの世界のどこかで楽しく生きている。


以前に書いたものを少しだけ改稿。

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