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紅の海

 目に映える赤いワンピースが印象に残っていた。いつも見かける女の子――まだ小学生くらいだろう――図書館に入ってくると真っ先に小説のコーナーに向かい、本を手に取る。今日も、閲覧席の端っこに姿勢正しく座って、その世界に没頭していた。表紙を遠目に確認すると、倉橋由美子だった。――大人びているなあ。
 大人びているのはその容姿からも窺えた。切れ長の伏し目が聡明さをはらんでいて、それが肩まで伸ばした黒髪とよく合っていた。一方で、半ば開きかけた口元にはまだ幼さが残っている。それでも、そのくちびると瞳が奇跡的に調和していて、全体として目を引くようなかわいらしさだった。
 ワンピースから伸びる足は、純粋な透明感のある白。あどけない、汚れ知らずなその色に男心がくすぐられた。
 本を読みながら軽く腕をさすっている。冷房が効きすぎているだろうか、私は設定温度を上げた。

 ある日、思い切って声をかけてみることにした。村はずれの寂れた図書館、館内の空気までもが欠伸をもよおしそうな、まったりした午後だった。
 館内には、その女の子しかいない。司書も、カウンターには私一人。 私は立ち上げって、女の子のほうへ歩いていった。気まぐれを装って、ゆっくりと。
「こんにちは」
 声に応えてこちらを向いた顔に、驚きは含まれていなかった。近くだと、眼差しの聡明さはいっそう深まる。ひょっとしたら魂胆を見抜かれているかもしれない、と思い、ドキッとしたが、そんなことはないと打ち消した。
「きみ、いつも来てるよね? 本、好きなのかい?」
 目の端で手にしている本を捉える。尾崎翠。まじか。
「まあ」
 そっけない口調だったが、その瞳は私をじっと見つめていた。口元にかすかな笑みが浮かんでいる。しぐさまで大人びている。内心、たじろいだ。
「ここ、座ってもいいかな」
 向かいの席を指し示すと、「お好きにどうぞ」と返ってきた。
 今日も赤いワンピースだった。胸元に、小さな蝶々模様。
「私は、竹早という。ここの図書館の司書をしている者だよ」
「知ってます」
 幼さの残る口は小さく動く。声は落ち着きのあるアルト。ややもすると、話している相手を錯覚する。
「お名前は?」
「……広池クミ」
 クミ――久実かな。「クミちゃんか。どんな字を書くんだい?」
「くれないのうみ」
 くれないのうみ、でクミか。紅海。素敵な名前だ。
「いい名前だね」素直に感じたことを伝えた。
「ありがとう」
「赤が好きなのかい?」
 ワンピースに目を留めていうと、女の子は首を振った。
「好きじゃないのかい?」
「赤じゃない。あたしが好きなのは、紅の色。これは、紅色のワンピース」
 つと、女の子は立ち上がった。傍にあった本棚に手をかけて、秘め事を打ち明けるように語りだす。
「あたしは、本が好き」館内を見回した。「ここは、理想的な空間ね。静かで。読書を妨げるようなものは何もない」
 ユートピア、と呟いた。あたしの、ユートピア。
 静かな午後。柔らかな夕陽が窓から差し込む――

     *     *

「――ごら、ロリコンじじい。いつまで女の子に見惚れてんだよ。警察に突き出すぞ」
 十歳下の同僚に、後頭部をはたかれた。振り返ったときには、同僚は返却された本を棚に戻しに行っていた。
 ふう。はたかれた頭をさすりながら、ため息をついた。暇すぎる。欠伸をもよおし、口元にぐっと力をこめてこらえた。変な顔になっていたかもしれない。気にするものか。
 館内には、紅い――赤いワンピースを着た女の子一人、だけではないけれど、数えるほどしかいない。女の子が読んでいるのは、倉橋由美子でも尾崎翠でもなくて、松原秀行の「パスワードシリーズ」。なつかしい。
「帰るわよー」
 入口のほうから、控えめに呼びかける声がした。声に反応した女の子の顔が、パッと輝いた。あどけない、歳相応の表情。
「ママー」
 女の子が母親に駆け寄っていった。抱き上げて、大人しくしてた、と囁く。うん、してたよ。そっか、じゃあ本戻して、帰ろっか。はーい。
 作業の傍ら、母娘が出て行くまで眺めていた。去り際の女の子の背中に、誰にも聞こえないように呟いた。
 さようなら、紅海ちゃん。

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