教師と一般会社員との相違

私は(私の頃からも)変わらない教育、学校のあり方に厭悪し、故にこそ教員になった。「私が変えてやる」と。
 理想主義は児戯的に捉えられやすいが、教育は理想主義を放棄してはならない特殊なものだと解する。
 だが、青二才の理想は粉砕されるのみならず、酷薄な"虐待"(あれはパワハラの域を超える)にも、理不尽な管理職による退職勧奨にもあった。
 私は意識的には対象化して綴っているつもりだ。1人の教師が理想を求めんとすると、体制や他の教員の、これは事実だが、"嫉妬"がその教師の心身を破砕する。
 これが私の過去から現在の輪郭であり、今なお、呪詛師の如く私は現在な学校を、そこに住む多くの醜悪な「教育者」を呪っている。

「教師は学生からすぐ教員になる(注:場合が多い。)ため社会を知らず、為に考えが幼い(注:「幼い」の箇所には否定的語が入る。)」
この一般的意見に対して
「他の民間企業等も新卒で"他の社会"を知らないではないか。」
と教員側は反駁する。この意見も教師の間では一般的に通用している。

 この二つの意見に対して、私自身の考えを述べるなら、教員は社会を知らないと言える。
 その理由は「社会」の解釈にある。「社会を知らない」とは、「社会の何たるか、つまり構成を知らない」という事だが、社会の構成員、その大部分は"大人"に依存している。
 つまり、たとえ一つの会社しか知らなくとも、社会を構成するその一部たる会社において、社員は"大人"の世界のなかで、大人の論理をもって、大人たちとのコミュニティーにおいて仕事が成立される。
 一方で教員は"子ども"を相手にする仕事であり、学校はそのような空間として社会のなかに屹立している。確かに、教育の大義が為に職員会議や渉外、保護者対応等あるが、それはあくまで子どもの教育の手段としてあり、前述した、大人の社員たちによって形成される「大人の論理」ではない。
 大人だけの世界で大人の論理とコミュニティにより社会を構成していく民間企業等と、子どもの教育という名目で大人が論理を教え込む学校とを比較すれば、「教師は社会を知らず幼い」、この言説は正しいと私は考える次第である。

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