空白

ありのままに、いつも、詩、エゴイスト、追い込んで、頑張って、気が狂い、クラナド、苦悩、結局、困難、最近、しかし、既に、精神的、その後、耐え難く、躊躇、罪、手に付かなく、時、なぜ、人間、抜き差し、念願、能力、罰、否定、ひぐらしの、復活、変化、ポジティブ、また、未来、無垢、メッセージ、もう、闇、友情、ようやく、られる、理想、ルフテン、冷酷、ロマンチスト、わけわからない、をこそ、ン。

 平田教授の声が響き渡る西校舎517教室で彼はぼんやりとスマートフォンのボタンを押しては出てくる予測変換の言葉をみていた。
 学生達は十人十色の様をみせている。ある者は後部座席で談笑し、ある者は迫る公務員試験の勉強に精を出している。教室の端を眺めてみるとその一隅では、成仏出来ない首無しの幽鬼が現世におとないを告げにきた如く、誰もが首をしなだらせては見事なまでの首無し像を成している。
 「成程これは合理的だ。どれ、僕も午後の飲み会に備えて惰眠をむさぼるとしよう。」
最後の一瞥を教壇にくれようと前方を眺めれば、取り巻き連が鹿爪らしく教授先生の託宣を一言一句たり漏らすまいとノート作成に余念無い。
「成程、これこそが大学という英知の場か。ここにおいてツァラトゥストラは昂然たる存在となりヘーゲルの思弁哲学に議論を上下し、ロールズの正義は社会的解決をみるようだ。」
「イギリス功利主義や社会契約論等に基づいた現代的自由論解釈については、思想家ですとベンサム、ミル、ルソー、バークリなどをこの講義では取り上げます。」平田教授の講義が熱を帯びる。
 「ちなみにデカルトですが、彼はコギトを方法的懐疑によって導き出し、それを知識の源泉としました。しかし、精神を身体と分離させ世界と隔離されたものとみなしたところに彼の理論の問題があります。コギトとは『疑っているこの私』、つまり私自身の思惟を意味します。有名な『われ思うゆえにわれあり』というやつですね。
 次にロックですが、彼は経験に知識の源泉を求めました。経験が観念となり、それを組み合わせて思惟が獲得されると彼は考えたのです。そして経験される事物には一次性質と二次性質があり、事物そのものに属する一次性質にロックは知識の絶対性を付与しました。しかしロックのこの考えはその後のバークリなどにより事物は分類できないものとして批判されるに至ります。」
退屈極まりない。彼は既に教授が何を言っているのか皆目わからなかった。わかろうとしなかったのかもしれない。
 「えー、ここでデカルト、スピノザ、ライプニッツの自然観の違いを把握することは重要です。
 デカルトは精神の属性を『思惟』、物体、身体の属性を『延長』とに分類し、延長としての物質的事物の総体として自然全体をくまなく延長と捉えました。つまり、デカルトにとって自然はただの物質に過ぎずそれは一つの機械でしかないのです。これが彼の機械論的自然観といわれるものです。スピノザは自然のうちに神を認める『神即自然』の汎神論的自然観を確立しました。神である自然の絶対無限の力能を自己の本質としてのコナトゥスを通して表現することによって、人間を含めた万物の自己保存と活動の関係を説明したのです。ライプニッツは全存在が各々のモナドの力によって存在しつつ、その表現作用の段階によって階層的秩序を形成するという階層的自然観を確立させました。」
彼はいい加減に教室を出て本屋にでも行こうとした。堪らない。堪らない!無意味だ‼︎そんな想念が彼を駆り立てていた。
 「えー、次に先週の講義で生徒諸君から質問があったカントの認識論の特徴と意義に関して説明します。カント認識論の特徴としては、所謂『コペルニクス的転回』が挙げられます。これは従来の、認識が対象に従うという発想から、対象が認識に従う、とした彼独自の発想であります。カントは感性と悟性という認識における二つの幹を設定し、感性による直観と悟性による思惟によって認識が可能になると述べます。感性には空間、時間の形式が、悟性にはカテゴリーが備わり、この二つのものによって対象は現象として現われるのです。ここには認識の外側に在る「物自体」が前提されており、この「現象」と「物自体」という区別に認識の外に在る形而上的な問題を提起させたところに彼の認識論の意義があるといえます。」
 うんざりしながら、彼はノートや筆箱をバッグにつっこむ。すると、前方に位置取っていたあの取り巻き連が平田教授を満足させようと質問を投げ掛ける。
 「先生、近代的自然観及び人間観は如何なる事態を齎し、そしてその事態を哲学者たちはどのようにして乗り越えようとしたのでしょうか?」
「知るもんかっっ‼︎」
彼は苛立ちを抑えきれず放言した。僅かなざわめきが大教室の天蓋まで上がったが、冷淡な空気(この空気がまた堪らないんだ!)は天井に充満しつつあった人間性の胚珠を雲散霧消させた。
「これだ。これが中也が『生と歌』で言っていた『心そのものよりも、その心が如何見られるかといふことに念を置いて生きてる者等ばかりとなつた』ってやつだ。」
「…、えー、ではお答えしましょう。近代の自然観は自己保存、これはコナトゥスのことで  
すね、それを絶対視するために全体主義に陥ってしまいます。これを乗り越えるためには、対象性の倫理から非対称の倫理へと移行し『コナトゥスの彼方へ』脱出する必要があると例えばレヴィナスなどは言っております。さらにネスは自然と文明の宥和、自然と人間及び人間と人間の支配なき関係というユートピアへの希求によって近代的自然観を乗り越えようとしました。」
取り巻き連は充実した気色を滲ませ「うんうん」と雷同しながら、莞爾と笑い頷いては平田教授御礼を述べた。

 〈馬鹿馬鹿しいっ!!教授先生達はデカルトやらカントやらコナトゥスやらがなきゃならないんだっ!!そうしなきゃ自分達のパンがなくなるからな!彼等は自分の『研究』を、殊更に深刻ぶって、何かまるでとてつもない大事業を成し遂げた者が演説するかの様に語るんだ。語り尽すんだ。そうして「論文」なるもので衆目を幻惑している。くだらない!ああ、くだらない!なにもかもがくだらないんだっ!!〉

教室を出ると夕刻になっていた。逢う魔が時などと言うが、彼は夕暮れのなんともいえぬ色彩が好きだった。殊、晩秋から冬にかけて、沈みゆく西陽とともに暗闇が空を鈍色に染めゆく、あの空の感じに陶然とした倒錯的寂寥を覚える。それは確かに寂しさの同化なのであるが、彼をしてうっとりと酔わせるのである。魔がいるとするなら、この色と気配ではないだろうかと彼はいつも感じる。
 ふと、どこかの商店が活気に満ちた声でもって冬の空気を裂いていた。彼ははっとして街を眺めた。街は年末の顔をみせていた。あのどこか非日常的な雰囲気を醸す師走の終わり頃だ。彼はこの時まで、今が正にそういう節なのだと気が付かなかった。まるで実感を持つことがなかったのだ。そうして、彼はこの賑わいに自分独り取り残されているような感覚を覚えた。
 書店に着いた。彼の目的は本を物色することであった。
 〈ところで、人は苦悩し続けられる存在であろうか。〉彼は最早癖になりつつある観念に耽けた。〈人は、苦悩し続けられる程には強く創られてはいないのではないか。耐え難き憂苦に苛まれていても、そこにはどうしたって苦しみが途切れる間隙がある。その隙間に煩悩が入り込むんだ。故に、涅槃を志す者は、その空白を端然として満たそうとするわけであるが、俗世の人間にとってその空白は無聊である。退屈は苦しみである。だから、あたかも苦しみが際限なく連続しているように感じられるんだ。
 暇という名の苦しみは当座自分を悩ませているものとは切り離されており全体との連関をもたない。容易に解消可能であるし、解消すべきであろうとする。それは、飲食であったり、遊興であったり、はたまた芸術や読書であったりする。〉
 大学の帰りに立ち寄る馴染みの本屋に入れば彼のルートは既に決まっている。入り口正面に平積みされている文庫とハードカバー類の書をチェックしてから、そのまま真っ直ぐ、右手に文庫コーナー、左手に新刊本や雑誌が並べられている道を進む。そうして、文学や哲学なんかの思想書が陳列されている一角へと移動する。
その時、彼に違和感が生じた。
 ところで、彼にとって思想書は幼少期から非常に馴染み深いものであり、必然、彼の人格形成に大きく影響したものである。しかし今、彼は文学や哲学といった思索の豊饒の海にこの身を浸すことを自身に肯んじることが出来なかった。「拒否しろ」そんな心の叫びが脳髄に反響して彼に疼痛を与えていた。
 この体験は彼を愕然とさせた。これは決して「今はそういう気分ではない」といった種のものではなく、「失ってはならない何か大切なものを喪失してしまったのではないか」、そんな感傷を付与させる事件であったのである。
 くだらない…。何もかもくだらない。虚しい。虚無が彼に去来していた。

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