苦悩の本態

芥川龍之介の年齢と自死を思い

 定職の難儀なるは人生の平穏を剥奪せしむ。日月はぼんやりとした不安に輪郭を見せては、斯く観念が観念非ざるを通告す。そいつは僕の意識に固着し私を苦悶させんと、呻吟させんと、而しては発狂させんと獅子身中の虫となり、扁桃体に蠢く。
 これが僕の人生を支配している絶望感。毎日毎日、何日も、何ヶ月も、何年も、僕はその事ばかり考える。自分の行く末を考える。そうしては激烈なる動悸を覚えのたうちまわり気が狂いそうになる。それは自殺衝動にまで連続されていく。故に、入院しても、病院をかえても、服薬しても、居住空間をどうこうしても解決することは決してない。たとえ生活保護や精神障害者年金などが給付され「生存」を許されても、引きこもっては段々と堕落し醜くなっていく醜悪な自分を甘受することは絶対にできない。僕はそれを肯んじない。
 萩原朔太郎は『老年と人生』において次のように述べる。

  老いて人生が楽しいということは、別の側から観察して、老年のやるせない寂しさを説明している。世の中年者らが、茶屋遊びの雰囲気を楽しむというのも、所詮して彼らが、喪失した青春の日の情熱と悦びを、寂しく紛らすための遊戯に過ぎない。老いて何よりも悲しいことは、かつて青年時代に得られなかった、充分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から、情慾の強烈な快楽に飽満できないという寂しさである。だがそれにも増してなお悲しいのは、真の純潔な恋愛を、異性から求められないということである。八十歳になったゲーテが、十八歳の娘に求婚して断られた時、彼はファウストの老博士を想念し、天を仰いで悪魔の来降を泣き呼ばった。名遂げ功成った一代の英雄や成功者が、老後に幾人の妾を持っても、おそらくその心境には、常に充ちない蕭条たるものがあるであろう。百万石の殿様から恋をされ、富貴を捨てて若い貧乏の職人に情立てした江戸の遊女は、常識的の意味で悲劇人であった。だがそれを悲しみ怒って、愛する女を斬った中年の殿様は、もっと哲学的の意味で悲劇人であった。

 この年齢、この境地に至り、僕は人生をこう結論した。これは感性鋭敏で自負強く利発な美青年、ラスコルニコフの如き人間における真実だと思っている。
 青年期、壮年期、そうした年齢区分の狭間に揺曳する者において、地位や経済的安定ある者は孤独のうちに希望を見出すことができよう。
 愛し合う者は、地位や経済的不如意のうちに希望を見出すことができよう。ラスコルニコフとソーニャのように。然らずんばゲーテの慟哭をみるのみ。Mehr Licht!

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