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無理筋を通すのは意地ですね

昨日の続きです、そちらをご覧になってからお読みいただければ幸いです。


昨日、外野の僕が勝手に絶望していたら青識亜論氏が記事を書かれていましたので、所感を。

この状況を最も怒り悲しむではずの人が石川優実氏を称え、これからも対話を模索する宣言をされたことに矜持を感じました。
僕には到底できないことであり、その姿勢にまずは敬意を表します。

それを承知の上で申し上げると、引き続きの対話はかなり困難であると考えています。
彼女の支持者の中で苦言を呈する人を殆ど発見できなかったからです。
彼女一人でなく、周辺の人間もこの振る舞いを当然のこととして捨て置いていると思わざるをえません。
となれば、万一、次に機会があった時に同じことが起きないと想像するのはどうしても難しい。
これでは、誰もやろうとは思わないでしょう、何の意味もないのですから。
無論、彼女を支持しないから言及をしていないフェミニストの方もいるはずではあります。
ですから、現段階では不可能であるとは言い切らないことにします。
さらに僕は今回の当事者でもありません、その人間が断を下すのはおこがましいかと思いますので、あくまでも一意見にすぎません。

その上で、対話の道を開くとしたら?ということに考えを寄せてみました。
僕が思いついたのは対話の種目を複数作ることです。
対話といっても、お互いの譲れない持論があるのですから、「仲良くお話しました」では済まないでしょう、ぶつかり合わなければなりません。

ただ、現状では対話することのハードルが高いのです。
今の選択肢は青識亜論氏とのボクシングだけです。
ボクシングである以上、厳しいトレーニングが必要ですし、殴り合えば傷つくでしょう。さらに、たった一人でリングに上がるのは勇気が必要です。
(だから彼はあくまで専門家や現実に影響力のある論者に対して挑発しているのではないかと推察していますが)

でも、例えばラグビーであったら?
チームで戦い、ぶつかり合うことならできる人がいるかもしれません。
草野球であったら?
練習をしなくても良い訳はないですが、敷居は下がりますし、へぼピッチャーのデッドボールくらいの怪我なら覚悟できるかもしれません。

これなら、対話できるっていう人が現れないでしょうか。
これで対話が実現したとしても、勿論レベルが低すぎて良い結論は導かれないかもしれません、いや殆どがそうなるはずです。
皆が引き受けられる妥協案などでてこないでしょう。

それでも対話という過程こそが重要だと考えるのであれば、こういう考え方もなかろうかと思うのです。
かと言って「こうすべき」とは思いませんし、ましてや青識亜論氏が取り組むべきとも思っていません。
(そもそも彼はたとえ話の中で言えば、生粋のボクサーであり他の事もこなせるような器用な人ではないと思っていますし、難しいでしょう。)
なので、あくまで、僕だったら、ここにテコ入れするかなあ、という仮想の上でのたとえ話だと思っていただければ幸いです。

昨日以上に直感的に書いており、論旨が隙だらけな気がしますが、ご容赦のほどお願いいたします。

これから投稿しようかというところで追記。
石川優実氏が200人を差別主義者と断じたのかどうか、という話が出てますね。
これが正鵠を得ているかは細々と追っていない以上コメントできません。
ただ、スポーツのたとえをしたので流れで改めて今回の件を見てみるとしましょうか。
彼女の行為はノーサイドになった後に、あの試合は仕組まれていた、無効だ、私は認めないという主張と同じです。
その目線で言えば、どちらのサポーターであろうと試合を見に来てくれた人を馬鹿にしていることには変わりないです。
既に述べたように聴衆を愚弄したのです。
差別主義と言い立てなければ問題ないことですか?許されるのですか?ということを改めて投げかけたいです。

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