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頼まれごとのその先は

おはようございます☀️🌈

【頼まれごとのその先は】というタイトル。

いつだったかの私の投稿で

頼まれごとは試されごと

って書いてたけど…

待って、今、私は猛烈に、いや、鼻水が雪崩の如く止まらないという笑える冗談の風邪を半年ぶりに引いている。語彙力がないのはご愛嬌。

このご時世、コ〇ナだと疑われてしまうし、私自身もほんの0.0001%は「まさかねぇ」と思い患ったりしたのは本音。笑

とりあえず病院では風邪ってことで診断されたし、私もこれは久々の風邪だなと自覚している記憶がある。何とも人騒がせな通常の風邪。早く治ります。えぇ、はよ寝て治したい所ですが、頼まれごとがちょっと手こずっていて、何度もやり直して一日半かかっている。ずっとPCの前に座るのも別に苦じゃないが、さすがに身体は凝る。これが22歳くらいのピチピチなかわい子ちゃんだった頃(分かってる、でも言わせて)の私なら、PCの前に30分と座ってはいられない程、もっと動いて働きたいと願っていた頃だろう。勤労所得しか知らなかった頃だ。

時は経ち、30代半ばを越え、シングルマザーで息子と毎日爆笑して暮らす日々の中、私は自分で稼ぐことの大変さを目の当たりにする。それは勤労所得の方が明らかにラクだからだ。(個人差はある。笑)

勤労所得は働いたら働いた分、自分の給料が確定される。でも、それを手放し自分で、自分の力で私と息子が豊かに暮らしていけるように選んだ。そして、私は望んだビジョンを次々と叶え、そしてたくさんの「ありがとう」「ツイてる」などの天国言葉を言い、誰の機嫌でもない自分の機嫌を良くして笑顔でいることの大切さを実感する。

その内、頼まれごとが舞い込むようになった。

私の夢叶うノートには【月収200万の収益を得ることができるようになり感謝しています】と、書いており、予祝。これはとても大切。先に未来を祝ってしまえばよい。そしてありがとうをただひたすらに書き綴る。ググるとこの話はたくさんあるんじゃないかと思う。そしてそれを私は実践中である。自分で試してみたいと思った。潜在意識に刷り込ませる。毎晩寝る前に、「ミニ クロスオーバーでアイランドブルーのボディーカラーの車が欲しい」とか「私が設計した、海が見えてアトリエと広いガレージ、中庭がある夏には花火ができるリフォームハウスで暮らす」とか「こんな人に会って大型の仕事の依頼を受けるようになり素敵な笑顔で喜んで貰えた」とか、細かいビジョンをもう既に叶っているという色つきの妄想をして、そうなった喜びの感情まで、その香りまでをも味わう。こうなったらこうなって、ああなって…と思い込む。思い込め。もうね、飼い猫が飼い主の足にスリスリ( *ΦωΦ))´ω`)スリスリする以上のマーキング効果を発揮させよ。

さて、頼まれごとのその先は

それが自分の使命だと感じることが多くなる

です。

頼まれごとをこなしてくと、私のできることが増えるから楽しくて仕方ない。知らなかったことはGoogle先生に聞いたら大概答えてくれる。それでも見つからなきゃ誰かにアポ取って直接聞くのが早い。正し、その聞きたいことは簡潔に。アポ取ってくれた人の時間を無駄にしてはいけない。だけど、自分の時間も大切だから、両者にとって良いように、こちらも感謝の気持ちをギブする。いただいたご縁とご恩に感謝を返すのは必須だから。

話が、逸れたか。久しぶりの長文。SNSもブログもTwitterとかもログインはするがすぐに閉じる。その時間すら勿体ないからだ。それでもやっぱりたまにこうして書くのもアウトプットで好き。

自分軸で、周りの幸せを祈り生きていれば、心が惑うこともない。自分の大切にしたい人、モノ、事、これの価値序列をしっかりと。

そして自分を愛し、人を愛せる。

この2ヶ月の間、私の中で変わってきたある事がある。それはイライラや怒り、不安などがほぼないことだ。特に息子に対して。恥ずかしながら以前の私は怒ることが多い人だった。自分の中での未消化な出来事にイライラしたり不安を抱き、その反動で息子に対してガヤガヤと怒ったりしていた時もあった。でもそれがもうなくなった。それはきっと、

正しさより優しさ

という教えを聞いていたからに他ならない。伊木ヒロシ師匠始め、小林正観さん、斎藤一人さん等の共通の言葉には『愛』がある。それは、普段からそれを心掛けていなければ出てこないであろう言葉なのだ。つまりは、教育という立場では、親も先生もだいたいは正しさを教えがちである。それも間違っちゃいないと思う。だけど優しさが伴わないならその人の考え方の自己主張だ。それが正しいんだ!という押し付け。一方、優しさの言葉は、間違えてるな〜とか、そこ違うな〜と思っても、その人に対して「どうしてこの人はこう考えたんだろう」とかそういう相手目線に立とうとする。例えそれが相容れなくても、「そうなんだぁ」って受け入れるというか、受け流すというか。まぁ、自分軸があれば、他人の考えに左右されないなと。だからこそ否定的、正しさの押し付けをしても解決などないのだ。自分の子供に対しても同じ。自分の息子だからと私の子供なんだから出来て当然とか、あの子ができてなんでうちの子は出来ないのかとか、そんなのは子供を1人の人間として見ていない。むしろ、可能性を信じてない。子供を信じて愛してあげることが、いっっちばん大切。幼少期から抑え付けられた価値観や言葉によって、子供の潜在意識はそうなんだと思い込んでしまう。それは親にとって都合の良いマリオネットだ。信じて見守る。放任ではない。そしてそれは私自身が実践して体験している変化だからからこそ言える。環境によっては子供も変わる。変わらないのはなんだ?愛だ。優しさだ。目には見えない。でも脳や心には一生刻まれている。愛がなければ始まらない。息子を呼ぶ時「○○君、○○さん」と呼ぶようにしている。それは息子を尊敬しているからだ。私は息子に感謝している。私を母として選んでお腹にきて、元気いっぱいで幸せをくれるこの子を、心から尊敬している。私にたくさんの教えや気付きや愛を与えてくれた。息子と一緒にいるこの幼少期の大切さは今しかない。たくさん一緒に笑おう。たくさんのことを一緒に経験しよう。そして大人になった時、愛する人を大切にしているだろう。

私は頼まれごとのその先に、たくさんのビジョンを描く。それが実現すると知っているから。息子を褒めて褒めて認めてあげる。ある意味息子からの頼まれごとが1番の幸せなのかもしれない。仕事も同じくらい幸せだけど。さて、昨夜から打ってるこのロングな文章も終わりを迎えます。また頼まれごとの続きをやります。いつの間にやらこんな時間。

これをここまで読む人がいるのか分からないけど、最後まで読んでくれたら感謝です。文字だけで写真すら入れてないのにね。感謝です。ありがとうございます。

皆さんに全ての良きことが雪崩の如く起きます。By 斎藤一人

それではまた!Ciao!

私ってほんとツイてるわぁ〜笑笑







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