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「スナック」をファッションとして扱う奴らが鼻につく件

Voicyで、自称スナックのママという方が登場していた。
週一回、「昼スナック」というものを都内で営業しているという。

別にそれはご本人のやりたいことだし、他人が口を出すことでもないし、
好きな人は行けばいいじゃないか、というただそれだけのこと。
この方に限らず、新しい視点からカルチャーとしてスナックという名称を付けて、人が集まる場を作るムーブメント的な動きがここ10年くらい前から良く見受けられる。

「○○スナック」はじめてみましたぁ〜みんな来てね♪ 的な軽いノリだ。

気持ちは分からなくもない。
これまで若者に程、縁遠かったスナックという存在を、
若者が新たに捉え直し、新しいスナックの形を模索しているのかもしれない。

しかし、そういう人たちは(むしろ輩と呼びたい)元来のスナックを知らないのだ。そもそも、スナックに通うような人たちではないのだ。
一度も行ったことがない人も多いだろう。

私はスナック評論家ではないし、スナックに通い詰めるような男でもない。
だから、そんなに偉そうなことは言えない。
しかし、昨今のスナックという名称をファッション的な軽いノリで使う人たちを目にする度に、「お前らスナックの何を知ってるの?」と問いたくなる。

元来、スナックは中高年、いやむしろ爺さん婆さんたちが集まる
哀愁と喪失感が漂う場末の酒場なはずだ。

この哀愁と喪失感をスナックという空間で体感した若者ってどれだけいる?
だって、哀愁と喪失感を体験したいと思う若者なんてそもそもいないからね。いたら、精神がおかしい。

だから、これまでずっとスナックは中高年たちがお互いの傷を舐め合い、
家庭や職場では口にできない人生の愚痴を吐露できる唯一の避難所だったのだ。
スナックに漂う店の空気なんて本当にじめじめと湿っぽいし、
まともな人はそもそも行く場所じゃない。行ってはいけない。
いわんや私もこれまで一度もスナックで若者を見たことはない。

私がスナックデビューしたのは19歳だった。
アルバイト先だった寿司屋の職人さんに連れて行かれたのがきっかけだった。その職人さんには何年も頻繁にスナックに連れて行ってもらった。

だから、まともな人間からしたらスナックなんて何も面白い場所じゃないのだ。しかし当時、19歳の私にはその中高年たちの場末感は異様な世界だったし、そこでは大人の人情劇を見れたし、人生の紆余曲折を外野から眺めることができた。

だから、「スナック」という名称を「カフェ」と同じ感覚で使っている
最近の人たちを見ると、ミーハーな偽物としか見えない。

元来のスナックを知っているおっさんたちは、
絶対に気軽に「スナック」という名称は使わないのを感覚的に知っているからだ。

では、なぜここまで「スナック」が新しいカルチャーとして世に浸透してきたのか?

その功績者を私はこのお二人以外には知らない。

玉袋筋太郎(浅草キッド)
都築響一 (編集者)


玉袋さんは、スナックをメインストリームに押し上げたスナック愛好家の功労者だし、都築さんは日本のスナックを文化として捉え、コンテンツに昇華した人だ。

玉袋さんのTV番組「ナイトスナッカーズ」は最高に面白かったし、自身もスナック経営しているのは有名。
都築さんもスナックにまつわる書籍やDOMMUNEの「スナック芸術丸」は毎月、足を運ぶほど好きだったイベントだ。

このお二人がこれまで陰気のイメージだったスナックに光を当てて、最近の「スナック」という名称のイメージを変えた張本人だと思う。

だから、敢えて言いたいのは、表層だけ「スナック」を捉えて使っている人たちはすぐに分かってしまうのだ。

カフェブームがきたように、ここ10年で「スナック」ブームがきている。
しかし、それは本来のスナックとは似て非なるものだということを忘れてはならない。

だから、名称だけのスナックなんて、バーとなんら変わらない。
いくら名称だけスナックにしたところで、まともな人間たちだけではスナックがつくるあの独特な場末感の漂う空気はつくれない。
(つくる必要もないけどね)

結局、スナックとは店の従業員とお客たちとのハーモニーなんだろうね。

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