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梅雨明けが待ち遠しい日に


人は何を糧にして生きているのだろう。

普段、病と闘い懸命に生きる人たちの側で働くわたしにとっても、突然の訃報は精神的ダメージが大きい。それがたとえテレビの向こう側の人であっても、だ。

自ら命を断つ。どうしてと思う反面、わたしも就職して本当につらかったとき、電車のホームで、"ここで一歩踏み出したら明日仕事に行かなくていいんだなあ"なんてぼんやり考えたことがある。
明確に死にたいと思わなくたって、明日が来なければいいのにと思うことは誰にだってあるのではないだろうか。


わたしたちはときに、人生に意味を見出そうと悩んだり、自分の存在意義を見失ったり、誰かに必要とされたくてもがいたりする。
どれほど誰かと一緒にいようと人はどこまでも孤独で、不安に押し潰されそうな夜だって独りで耐え抜き朝を迎える。

意識しないだけで普段から死はわたしたちの隣にひっそりと佇んでいるけれど、何かの拍子にその輪郭がはっきりとするような瞬間はたしかにあって。


わたしは今楽しくしあわせに過ごしているから、ここで人生を終えるのはもったいないと思えるけれど、そんなものは単にわたしの今現在の基準であって、誰にも人の選択をとやかく言う権利はない。
全く違う場所や環境やコミュニティで生き、同じものを見ていたって何一つ色も形も同じような感想なんて持たない一人一人の集合体なんだから。
"人は分かり合えないという一点でのみ分かり合える"のだ。


側にいる人は、救えなかったと自分を責めるのかもしれないけれど、その思いが決して自死してしまったその人の選択を否定し苦しめるものでなければいいなと思う。



就職して半年ほど経ってから、大学時代の友人が自死で亡くなっていたと知った。そもそも心の病を抱えていたなんて想像にも及ばないような、明るく穏やかな人柄の持ち主だった。

卒業式で「またね」と言った、その"また"はこなかった。

みんな笑顔の裏に無数の傷を隠して生きている。
笑っているから傷ついていないわけじゃない、つらいと言わないから大丈夫なわけじゃない。
助けてと言えなくても助けを求めている人はきっといる。


"その死を無駄にしない"というような考えが偽善者のようで違和感を感じたりしながら、彼女の死にどう向き合うべきなのかずっとわからなかった。

けれど、自分なりに生と死に向き合ってきて、わたしはこれからの生涯をかけて、目の前の大切な人に「どんなあなたもわたしにとって大切で、あなたがあなたでいてくれるだけでいい」と、言葉と態度で伝えて生きていくと決めたのだった。

その全ては、例えばもしわたしが明日いなくなるとしても、未来を生きる大切な人たちを支えるお守りになるはずだと信じている。


わたしはわたしの両手に収まるほどの大切な人しか全力で思うことはできないけれど、みんなができる範囲でそうしていって、ゆるく、でもつよく、繋がっていけたらいい。



頭で考えすぎたときに思い出す言葉を、最後に、何度でも。

"人生は考え抜くものじゃなく、生きるものなのよ"




2020.7.24