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凋叶棕『Q』の理解と解釈のお話

物語性のある音楽作品を作り続けている東方同人音楽サークル【凋叶棕】の第二十回博麗神社例大祭頒布作品である『Q』。
そのテーマは「???」。

本記事は、この『Q』を手にし、そこにある物語の謎に触れたひと向けのものである。作品内容を全く知らない、あるいはこれから知ろうと思っているひとは、是非まず何よりも先に作品そのものを手に取ってほしい。全国のメロンブックス店頭、あるいは通販で絶賛頒布中である。


無論、作品を聞く前にこの記事を読む、という選択をしてもよい。小説をあとがきから読む人がいるように、感想から読む人だっているのだろう。作品にどのように触れるかは、その人の自由だ。

以上を踏まえて。
……あなたは、どうするべきなのか。






開封しにくいシュリンク(※私が手にしたものは開けやすかった)を剥き、CDのケースを開くと、モノクロの盤面と【アガサクリスQ】の横顔が現れる。
恒例である盤面の英文は、今回は2つ、いや3つに分けて記されている。中央にあるのはいつもの序文。そして外周にある"is"からはじまる2通りの文章だ。
主語が抜け落ちた文章。あなたはこの段階でこれを訳してもいいし、訳さなくてもいい。

CDを再生装置のトレイに入れ、ブックレットを取り出す。
ブックレットは、表紙となるカードと本体である冊子とで構成されている。表紙の裏側、奥付にあたるページには、幼き日の本居小鈴と稗田阿求とおぼしき二人の姿。
これは一体、この『Q』という物語のどの部分に相当する場面なのだろうかと、想像と期待が膨らんでいく。

ブックレットの表裏には、それぞれ【アガサクリスQ】と【稗田阿求】の肖像。白と黒を基調としたデザインは、CDの帯もあいまってチェスをイメージさせる。
便宜上、表紙になるのは【稗田阿求】の側であるようだ。

早速ブックレットを開き、まずあらわれるのは、RD氏のTwitter告知で聴きおぼえのある「まえがき」だ。
【アガサクリスQ】の足跡は、なぜ忽然と途絶えてしまったのか。未発表作品群を入手した「わたし」とは何者なのか。
既に、謎に満ちた物語は始まっている。CDの再生を始めよう。


「まえがき」と「迷Qの旋律」を経て、いよいよ幕が上がる。語られる事件について、はじめは、誰が、何について、どのような思いでうたっているのかすら、よく分からないという印象を受けるだろう。
しかし少しずつ、言葉を拾い、ページを進め、挿絵をながめているうちに、この作品群がどのようなものなのか、見えるようになってくる。

これらは全て、【Q】が何者かに殺される、という物語ミステリーなのだ。

「咲き損ないの花」では、並々ならぬ狂気に突き動かされた使用人(たち)によって。使用人が犯人というのは、いかにも定番中の定番である。

「星空に消ゆ」では、妖怪の山を仕切る大天狗・飯綱丸龍によって。あるいは、天狗という組織によって、としてもよいだろう。彼女は、何を知ってしまったのか。

「霧の中の怪異」では、妖精たちに迷わされて。現実では行方不明は7年の歳月をもって死んだものと見做されるが、幻想郷においてはどのような解釈がなされるのだろうか。

「weary monster」では、役割に疲弊した神獣、いや、上白沢慧音の手によって。あるいは、本当の神獣であったのならばそのようなことにはならなかったのかもしれない。しかし彼女の半分は、人であったのだ。

「Murdered by M」では、巫女?によって。これ以外の殺人では、犯人の動機というものに思考をめぐらせることもできるのだが、こればかりはわけがわからない…と、幻想郷の読者ならば面食らうに違いない。だが我々は、これに連なる物語を識っている。

「まぼろしの友達」では、まぼろしを信じる友人とともに。世界に、たった二人だけ。であるならば、その片割れがいなくなるときは、もう片方も道連れに。至極単純で、つまらない結末。

そうして、それら全ての目撃者たる存在。挿絵によれば、いずれの殺人現場においても?霧雨魔理沙が見ているように描かれている。これが、何を意味するのか。

物語の余韻に浸る間もなく、「哀Qの旋律」、そして「あとがき」が語られる。頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
ここで一度立ち止まり、物語と示された謎について、じっくり整理して考えてみるのもいいだろう。あるいは、これみよがしに配されたQRコードの先へ、脇目も振らず飛び込んでいくのもよい。



そして『Q』の舞台は、円盤と冊子の上から電子の海へと。
扉をくぐったそこは、編纂室。机上のあまり上等でない紙に記されているのは、【Q】の遺稿たる6篇のタイトル。

そのひとつひとつでは、編纂者たる「わたし」による各篇の解釈が簡潔に語られる。ここまで何が何やらちんぷんかんぷんであった人でも、この答え合わせがあるので安心だ。謎解きを始める、スタートラインに立つことができる。謎に向き合うことができる。

「わたし」の独白は続く。曰く、謎に包まれた存在である【Q】の正体を知っており、それを世に明かすべきか否かについて悩んでいるという。

その正体を明かさないこと。
────即ち、〝Qを愛する〟べきか。

それとも、正体を明かすこと。
────即ち、〝Qを殺す〟べきか。

「わたし」こと【本居小鈴】の出した答え。

【Q】の正体という謎を、謎のままとすること。
【Q】によって皆の心に植えられた数多の謎という名の種は、いつしか幻想という名の花を咲かせるだろう。それを尊び、護ることを是とする。その結果、自分が生涯苦しむことになろうとも。謎を謎として、ただ、愛する。
「私の愛したQ」 ────それは『Q』のひとつの結末。

【Q】の正体が【稗田阿求】であると明かすこと。
その選択が、謎の作家【アガサクリスQ】の存在を消滅させることになろうとも。大切な友人である【稗田阿求】という少女が生きた証。それを世界に知られないことこそが、何よりも許し難いから。その名を忘れさせまいとするエゴを以て、【Q】を殺す。
「SeleQtion」 ────それが『Q』のもうひとつの結末。

そのどちらの結末も、我々は知ることができる。

『Q』は、幻想の種である。
黒い表紙で綴じられた、その本が掲ぐは【謎】。

『Q』は、ひとつの帰結である。
白い表紙で綴じられた、その本が掲ぐは【選択】。

我々の手にしたCDの形をした『Q』は、その二つの可能性が重なり合ったものだ。あなたはこれを、そのどちらかとも、あるいはそのどちらであるとも解釈することができる。
どちらか好きな方を選ぶこと。あるいは、選ばないこともできる。それは我々の自由である。

何故なら、我々は「わたし」ではないから。
物語の全てを客観視でき、登場人物では認識の及ばない部分にまで思考を巡せられ、あまつさえ、選び取らなかったものの行方まで観測することが出来る立場。我々の見ているそれは、俗に神の視点と呼ばれるものである。
自分が選択の当事者ではない。選んだ先の結果が予めわかっている。どちらか選んだとしても、選び直しも効く。そんな物語の選択を、たとえ心に決めたとしても、本当の意味でいずれか一つに決めることなど、出来やしない。

もし出来るとするなら、それはそうならざるをえないときだけである。
選び直すことはできない。当然、選んだ結果どうなるかはわからない。そしてその選択が、自分自身の今後に深く関わってくる。
選択肢に戻って、やり直すことのできない物語。
それは、人生と呼ばれるものだろう。

決断の時は、いずれ訪れる。
それは遠い未来かもしれないし、今日かもしれない。
そのときになって後悔しないために。

我々は、何をしておくべきなのか。



──斯くして、【凋叶棕】の第二十回博麗神社例大祭頒布作品である『Q』とは、このような物語でしたとさ。

どっとはらい。

















……果たして、それでいいのだろうか。

二つの結末にたどり着いて、いい話だったね、あきゅすず尊いね、エモいね、泣いちゃった、選択について考えされられたね、で終わりだろうか。

この物語の中身そのものに対して、何か、言いたいことはないだろうか。

私にはある。

ここからは全て、蛇足である。



この『Q』は、徹頭徹尾、本居小鈴の身勝手さで出来ている。
我々が相手にさえしなければだが、彼女の独り相撲であると言ってもいい。
エゴを行使する【選択】をするもなにも、そのはじまりからエゴまみれではないか。

稗田阿求は、御阿礼の子である。記憶を受け継ぎ、死後百年以上を経て新たに生まれ変われる「転生の術」を行使する家系の人間であり、死ぬと決まった日の何年も前からその準備をせねばならず、普通の人間としての生活は殆ど送れないという。ましてや、覆面作家としての活動など言わずもがなだ。
であるならば、稗田阿求が死ぬそのずっと前に、アガサクリスQはもう筆を置いているのではないだろうか。そして出版してほしい原稿があるのなら、とっくに小鈴に渡しているのではないか。
そうではなく、この『Q』の原稿が、阿求の死後に何らかの形で発見され、何故か小鈴の手に渡ったものなのであれば。
それをどうして「世に出版するべきだと考え」られようか。
たとえ小鈴が【判読眼】を持っているとして、著者の想いまで読み取れているとは到底思えない。

そして、そのように身勝手に出版されたものであるという疑いが晴れない以上、この『Q』の内容が、小鈴の手によって都合のいいように編纂され、歪められていないということを証明できない。
この挿絵は、元の原稿にあったものなのだろうか?
赤い文字は、元の原稿から赤く書かれていたのだろうか?
我々には、アガサクリスQの遺稿そのものを読むことは叶わない。
だから、それがどんなものであろうとも、目の前にあるこれを信じる他にないのだが、如何ともし難い不信は拭い去れない。

しかし一方で、その手段や経緯を問わず、世界的に有名といえる作家の未公開作品が何故か自分の手元にあったとして。果たして、それを未公開のままにしておくことを選べるだろうか。
故人の遺志が分からない以上、公開しないという選択をしたとして、即ちそれは作品を不当に独占する行為ではないか、という悩みが一生付きまとうだろう。よしんば手元に隠し続けられたとして、今度は自分が死んだ後、身内あるいは無関係の第三者の手にそれが渡ったとき、結局は公開されてしまうのではないかという想像も容易にできる。
生前にそれが公開されていなかったという事実を最大限に尊重するのであれば、その未公開作品は、燃やしてしまうのが正解である。

だがそれは、シンプルに勿体ない行為だ。読めるものを読まない道理がどこにある。作品を読みたい、読んでほしい、作者のことをもっと知ってほしい……という欲に抗ってまでそのような高潔な行いが出来る人間など、果たしてどれだけいるだろうか。
もし自分がその立場だったとして、悩むことなくその選択肢をとれるとは、到底思えない。
そこに思いを馳せると、小鈴の行動は外野から一方的に非難できるものではないのだろうという結論に到れる。いずれにせよ、身勝手であることには変わりはないのだが。

それらを踏まえて、小鈴が身勝手な行動を取るであろうというその程度のこと、阿求にはとっくにお見通しだったのではないか。
Q6「まぼろしの友達」に、概ねそのように書いてある。この話が「【Q】を道連れにする友人の独白」であり、友人=小鈴が明らかであるならば、それを「阿求は小鈴がこのようなことをする(しかねない)と考えている」と読み解くことが出来るからだ。

遺稿を出版するか否か。
そして〝Qを愛する〟のか〝Qを殺す〟のか。
それを「何をしてしまってもいいの」と阿求が考えていたのだとすると、それはつまり、どちらを選んでも本質は同じであると思われていたいうことに他ならないのではないだろうか。


〝Qを愛する〟という選択は、【Q】を謎のままにする=生かすということと同時に、【阿求】と心中するということ。
〝Qを殺す〟という選択は、【阿求】を忘れさせない=生かすということと同時に、【Q】の後を追うということ。

【稗田阿求】を見殺しにしたことを胸に、死ぬのか。
【アガサクリスQ】を殺したことを胸に、死ぬのか。

そのどちらの選択も、等しく、子供じみた思想に囚われ、選択肢を自ら減らし、思い込みに満ちた狭隘で狂愛な思考に入り込んだ結果の、袋小路の、どん詰まりの、自己満足でしかないのだ。


小鈴が〝Qを愛する〟選択をしたところで、Qの秘密を守り通すことはおそらく出来ず、いずれ謎は明かされてしまう。
少なくとも、我々が確認できるだけでも二ツ岩マミゾウ、射命丸文の2名が【Q】の正体を知っている。阿求が自分から言っていないというだけで、稗田の家の者たちにもその生涯の間ずっと隠しおおせていたのか怪しいものだ。【Q】の熱心なファンから、憶測の域を越えてその正体を断言しはじめる者が現れ、それが事実のように広まっていくというのも有り得ない話ではない。
結局のところ、そこに残るのは、自分はそういう選択をしたのだというエゴだけだ。たとえ誤った情報が事実同然に語られるようになって、結果として【Q】が殺されてしまったとしても、今更それを正すことすらできない。実に愚かな選択である。

〝Qを殺す〟選択は更に愚かである。「こんな小説で小遣い稼ぎしているように見られたら恥ずかしい」という遺志を踏みにじっているばかりか、殺したとして【Q】は死なず、人々の心に変わらず生き続けるからだ。
正体不明の作家としての【アガサクリスQ】は、死ぬ。しかし、名家の少女【稗田阿求】が正体を隠し演じ続けた作家として生き続ける。未知や無知は、人々を掻き立てる。
彼女は何者なのか。何故、正体を隠していたのか。そうして、何がしたかったのか。その作品を以て、何かを伝えたかったのか。その死は、本当に予定されたものだったのか。また生まれ変わることなど、本当にあるのだろうか。
一つの謎に連なる無数の謎が死に、そして、一つの事実からまた新たに無数の謎が生まれ、人々の心で育まれ、【Q】を愛し続ける。
だから、その選択もまた、小鈴の中でのみ完結するものであるのだろう。小鈴はありもしない死体を抱き、誰も居ない場所へ逝く。

何をしても愚かなのなら、愚かあればあるほど良い。
人間のエゴというものは、斯くも美しいものなのか。




最後に、もし殺しても殺せないのであれば、ならば謎というものは一体いつ死ぬものなのか、考えてみよう。
とは言ったものの、その答えは実に簡単だ。

謎について誰も考えなくなったときに、謎は死ぬ。

謎とは、人の心に根付くもの。人が考えるからこそ謎は生まれ、育ち、いずれ花を咲かせ、また新たな謎の種を作る。
人が考えなければ、謎は生きていられない。ただそこにあるというだけでは、謎は謎たりえないのだ。

人に忘れられたとき、謎は死ぬ。
それは、一つの真実。
そして、真実は一つだけではない。

人に忘れられたものが辿り着く【楽園】。
その名前を、我々は知っている。

そうしていつか《物語》は死に。
《彼女》は永遠の存在となる。

永遠に辿り着くまでの、須臾にも似た束の間の時。
謎を楽しみ、謎に苦むことができるのは、その短い間だけ。

【アガサクリスQ】が遺した数多の謎に、想いを巡らせよう。
【稗田阿求】が示した不確かな意図を、考察し続けよう。

我々に出来ることは、それだけなのだ。
独りで黙々と考え続けるもよし。誰かと相談、あるいは議論をするもよし。考えをまとめ、記事や偽書として発表し、新たな種を蒔こうとするのもよし。

どのような方法でも、構わない。
その営みが続く限り、【彼女】は生き続ける。


だから、我々は。

『Q』を《愛し/殺し》続ける。


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