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"現場が全てではない"の狭間にいるぼく。

2年前の11月。市役所1年目のぼくは以下のようなやるせない想いを胸にたくさん抱えていました。

もっと大学時代に勉強しておけばよかった。
何で分からないことだらけで、利用者さんの選択肢を狭めてしまっているのか。
何でいつも失敗を恐れて、ビクビクして、無感情になって仕事をしているのか。
"何で"ということばかりの毎日。
結局、現場が全て正しいなんて、ただのおとぎ話だったのだと気付かされた。
足りないものが見える度に、自分に悲しくなって、怒りっぽくなって、無感情な表情でいて、人を引きつけないというか、何とかいうかわからない表情をしている。

2年前のつぶやきを懐かしく思いながら、"現場が全てではない"という狭間で感じる違和感や葛藤を少しは言葉にできそうなので、ここに綴っていこうと思います。

***

経験値が重視されがち。

医療介護福祉分野の現場や、特に自治体職員という立場は、未だに年功序列の体制を持つところが多い。

ぼくが社会福祉士(自治体職員でいう主事)の立場で、「これは違う。」だとか「こうした方が良いのでは。」と言ったところで、その上に係長や課長補佐・課長といった上司がいる限りは、専門職として押さえるべきポイントを蔑ろにされてしまうケースが多々ある。

もちろん、理解を示してくれる上司は少なからずいるが、だからといって専門職が持つ理念と言った固有の考え方をその上司が持っているとはいえないのが実情だ。

社会福祉士をはじめとした、医療介護福祉分野の専門職が、最低でも係長以上はいないと、自治体の専門性はどんどん薄れていくだろうし、専門職の存在意義を見失いかねないと考える。

こういった年功序列制が現場で何をもたらしているのか。

それは、経験値を重視する姿勢だ。それを象徴する言葉を、ぼくは言われたことがある。

あちらの先輩(事務職で、福祉畑が長い係長)はあなた(入庁3年目の社会福祉士・はりや)と違って300例以上は虐待事案を取り扱ってる。
だから、先輩に任せとけばいいの。

事案の対応の際に、経験値では測れない、座学で学ぶ知識(専門職として大事にすべき理論知)が置き去りにされてしまうのだ。

現場は忙しいすぎるのだよ。という言い訳が生まれる。

僻地や離島のような、いわゆる過疎地域は、医療介護福祉分野の専門職が少ない。

それゆえに、福祉畑の年数と経験が豊富なベテラン職員が重用されるし、一方で現場で困難事案が起きると対応に苦慮する場面が目立つ。

その中で生まれる意識が、「現場は忙しいすぎるのだよ。」という言い訳だ。

目の前の事案を対応するのに精一杯。その結果、理論知(ここでは制度の中身や対応への身構え方を指す)を見落とすことにつながり、終いには大火事になってしまうこともある。

先ほど書いた経験値を重視する姿勢は、現場の多忙さや現場ありきで迅速に動く際には必須品かもしれないけれど、1人のソーシャルワーカーとしては決して見逃せない事態なのだ。

そして、このような姿勢を、市民の生きる権利を守る事案に向き合う自治体職員が持つことが、結果的に人を豊かにもするし不幸にもするのだ。

つまり、地方自治体が児童虐待死や介護殺人を食い止められない1つの要因になっているのではないかと考えてしまうのである。

1人のソーシャルワーカーと行政職員の溝は深いし、広いものだ。

「この相談案件、近くに家族がいるんだから大丈夫でしょ。」
「まあ、こちらから制度を進められないし。窓口に申請に来てもらわんとね。」

行政機関にいると、上記のような言葉を聞くことなあるのだが、これがソーシャルワーカーが抱える葛藤を生み出している。

これまで述べた、経験値への傾倒と多忙さという名の言い訳を並べると、安易に業務量を増やしたくないという思惑が見えてくる。

しかし、ソーシャルワーカーの腕前が最も輝くのは目の前の人の生活に触れた時ではないだろうか。

つまり、お役所の窓口やデスクにいることだけにとどまらず、それぞれの地域に点在する現場に出て行くスタンスが大事だということだ。

なぜ、現代社会でアウトリーチが求められるのか。

行政職員の立場上は私的生活領域への安易な介入は避けなければならないのだが、相談援助職自らがそれらの領域に介入しなければ救えない命や生活があるからだ。

特に、虐待等の権利擁護事案への介入には行政職員として葛藤を抱く。必要以上に介入してしまうと、地方自治体の窓口や相談機関への不信や相談者・支援の対象者の依存度を高めることにつながるからだ。

それでも、ぼくは一人の行政職員としても、一人のソーシャルワーカーとしても思う。

申請主義とも言う、窓口に来てもらうスタンスや定形的家族思想とでも言う、家族といった血縁関係への依存を、支援を始める前提に捉えるのだけはもう辞めようよ。

これからも、いかにして行政職員とソーシャルワーカーの間にある深い溝を埋めていくのか、考えていくのだろう。

「行政ソーシャルワーカーは役に立たない。」と本当に言われてしまう。

地方自治体に所属するソーシャルワーカー。

一市民の権利擁護のために、法的権限を行使する立場に置かれ、最後の砦に立たされる最後に頼れるソーシャルワーカーのはずだ。

しかし、ソーシャルワーカーの研修等に顔を出すと、中には「行政にソーシャルワーカーって役に立たないよね。」とか「ほんとソーシャルワーカーとして質が低すぎる。」といった批判的な見解を耳にする。

これらの批判的な見解を生む要因は、虐待死を防げなかった数々の事案や相談を受けるだけでソーシャルアクションできないワーカーの存在がステレオタイプになっているからだと思う。

さらに、行政ソーシャルワーカーが、地方自治体を担う主要な組織の中で評価されない・専門性を軽視されがちな側面があるがゆえに、ソーシャルワーカーらしいフットワーク軽いアクションを起こしにくかったり、迅速な対応がしづらいのだろう。

ぼく自身も、行政ソーシャルワーカーの立場を数年間経験してきたが、これらの事実は個人としても行政機関に属する身としても、非常に重く受け止めている。

そして、行政ソーシャルワーカーは本当に組織内外の多方面から攻められることが多いと感じている。だからこそ、本音を言うと、相談援助職としての矛盾だらけに向き合わざるを得ないから、本当に辛いのだよ。

きっと、誰もが、市民の生活を豊かにしたいと思っているはず。

それでも、ぼくは行政ソーシャルワーカーの可能性を感じている。

その可能性を感じさせてくれるのは、行政職員(公務員)という仕事柄だ。

公務員は公の人間で、市民のためにひたすら汗を流す役割を担う。その時に、「市民の生活を豊かにしたい。」と思って必死にもがく公務員はたくさんいる。

その思いは、ソーシャルワーカーも同じ。「目の前の誰かのために。」という思いは公務員の人たちと同じなんだ。

そのため、目の前の市民に向き合う仕事を遂行する上で欠かせない要素が、対人援助技術だ。クレームをこぼす市民への対応、1つの地域住民の声をまとめる力、声を出せない市民の思いを代弁する方法などなど。

ソーシャルワーカーの専門性と位置付ける、目の前の人への向き合い方や巻き込み方は行政職員にも大事な要素ではないだろうか。

それに、やっと3年目を過ごす中で、ぼく自身気づけたのかもしれないし、行政職員として誇りを持って働くことができている原動力になっている気がするのだ。

***

何度も読んで、何度も書き直して、やっとここまでの長文にたどりつきました。

単なる愚痴にはならないように書いたつもりです。地方自治体に属するソーシャルワーカーとして、新たな一歩を踏み出す・再度立ち位置を見直す機会になればと思っています。

ソーシャルワーカーにとって、現場での経験は専門職としての自己研鑽に重要なモノですが、一方で現場でおかしいと気づく感覚やそれに対するアクションも大事になってきます。

これからも、行政職員とソーシャルワーカー両方の立場を抱える身としての葛藤にお役所内外の現場で向き合っていきます。

そこで、お役所内の日々の業務の中で、まずはぼくの周りにいる方々に向けて、ソーシャルワーカーの存在意義や役割を語りかけていきたいです。

「はりーは、社会福祉士なんだね。」
「社会福祉士って、どんなお仕事しているの?」
「社会福祉士は良いお仕事しているね。」

そんな言葉をお役所内外で周りに言ってもらえるように、これからもソーシャルワーカーらしいフットワーク軽いアクションを起こしていきます。

いずれは、専門職としてのキャリアや処遇等の雇用環境に対する改善も訴えていきたいと思いますので、温かい目で見守ってください!

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