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【試し読み】『ハンティング』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)

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   プロローグ

 結婚して四十年になるが、ジュディスは夫のすべてを知っているとはいえないような気がしている。四十年間、ヘンリーの食事を作り、シャツにアイロンをかけ、ベッドをともにしてきたが、いまだによくわからないところがある。だからこそ、ほとんど――いや、まったく不満に思わずに彼の世話をつづけられるのかもしれない。いろいろな面があるから、四十年も一緒にいてもなお飽きないのだろう。
 ジュディスは車の窓をあけ、春らしいひんやりとした空気を取りこんだ。アトランタのダウンタウンまで車でたった三十分ほどなのに、このコンヤーズには未開発の土地が残っていて、小さな農場もある。のどかな地域で、アトランタまでは、静寂はいいものだと思える程度のほどよい距離だ。それでも、遠くの空に摩天楼のシルエットが垣間見(かいまみ)えると、ああ帰ってきたと、ほっとする。
 いまではアトランタがふるさとだと思っていることが、自分でも意外だった。最近までずっと郊外で暮らしていたのだから、なおさらだ。田舎暮らしだったと言ってもいい。都会のコンクリートの歩道より広々とした空間のほうが好きだけれど、その気になれば角の店やカフェに歩いていける便利な場所に住むことには、たしかに利点がある。
 アトランタでは、何日も車に乗らないこともある。十年前には夢にも思わなかった生活だ。ヘンリーも同じように感じているようだ。いま、田舎の狭い道でビュイックを走らせている彼の両肩は耳のあたりまで持ちあがり、凝り固まっている。国内のインターステートや幹線道路を何十年も走りまわっていたヘンリーは、裏道や迂回路(うかいろ)、近道がなんとなくわかるのだ。
 ジュディスは、ヘンリーなら安全に家まで連れ帰ってくれると信じていた。座席にゆったりと背中をあずけ、窓の外を眺める。道路沿いの木々がこんもりとした森に見えるほど、視界がぼやけている。コンヤーズには週に一度は出かけているが、そのたびに新しいなにかを見つけるような気がする――それまで目にとまらなかった小さな住宅や、とくに気にかけることもなく何度も渡った橋。まるで人生のようだ。少しスピードを落として周囲に目を凝らしてみなければ、過ぎ去っていくものは見えない。
 ふたりは息子のトムが開いてくれた結婚記念日のパーティから帰宅するところだった。いや、トムの妻が開いてくれた、と言うべきか。トムの妻は、秘書と家政婦、子守、料理長、そして――たぶん――愛人の役割をすべてひっくるめてひとりで担い、彼の生活を支えている。トムが生まれたことは、ジュディスにとって思いがけないよろこびだった。子どもは産めないだろうと、何人もの医師に言われていたからだ。ジュディスはトムを一目見て夢中になり、この贈り物を全身全霊でいつくしまなければと思った。トムのためにできることをなんでもしてきた。トムはとうに三十路(みそじ)を越えたけれど、だれかに世話をしてもらう必要がある。もしかしたら、ジュディスは妻としてはごく普通だが、母親としては過保護だったかもしれない。そのせいで、息子はなんでもしてくれる妻を必要とする男に――妻になんでもしてもらわなければならない男に育ってしまったのかもしれない。
 ジュディス自身は、奴隷のように夫に仕えてきたわけではない。結婚した一九六九年当時、女性も完璧なポットローストのレシピやカーペットの染み抜きのコツだけでなく、さまざまなことに興味を持てるようになっていた。ジュディスも結婚当初からできるだけおもしろい人生を過ごしたいと考えていた。トムの学校ではPTAの役員をした。地元のホームレスのシェルターでボランティアをしたり、近所の人たちと不用品リサイクルのグループを立ちあげたりもした。トムが大きくなってからは、近くの会社で帳簿をつける仕事につき、教会のジョギングチームに入ってマラソンの練習に参加した。あちこち飛びまわる毎日は、ジュディスの母親の生き方とは正反対だった。九人の子どもを育てながら農家の嫁として肉体労働に励まねばならなかった母親は、晩年は疲れ果て、口をきくこともできないほど鬱屈する日もあった。
 とはいえ、昔の自分も当時よくいたタイプの娘だったと認めなければならない。恥ずかしいことだが、ジュディスも御多分に漏れず、結婚相手を見つけるために大学へ進んだ。生まれ育ったのは、ペンシルヴァニア州のスクラントンという地図にも載っていないような小さな町だった。出会う若者は農家の息子ばかりで、ジュディスには関心を寄せてくれなかった。ジュディスは仕方がないと思っていた。鏡は嘘をつかないものだ。ジュディスはややぽっちゃりしすぎで、やや出っ歯で、ほかにもやや収まりの悪いところがあり、スクラントンの若者が妻にしたがるような娘ではなかった。そのうえ父親は恐ろしく気むずかしい人間だった。普通の若者なら、あの父を義理の父にしてまで、出っ歯で洋梨体型、おまけに農家の仕事に向いていない娘と一緒になりたいなどとは思わなかっただろう。
 実際のところ、ジュディスは子どものころから家族のなかでもはみ出し者で浮いていた。本を読んでばかりいたし、農家の仕事が嫌いだった。幼いころから家畜に興味がなく、家畜の世話や餌やりの仕事を避けた。姉妹や兄弟は、ひとりも高等教育を受けていない。兄弟のうちふたりは九年生で中退し、姉のひとりはずいぶん若くして結婚し、その七カ月後にひとり目の子を産んだ。月足らずだとわざわざ言いたてる者などいなかったが、現実を認めたくない母親は、初孫は生まれたときから大柄だったと死ぬまで言っていた。幸い、父親はまんなかの娘の行く末を見通していた。ほんとうは地元の若者と結婚することが望ましいが、その見込みはない。娘は結婚相手として少しも望ましくないのだから。そんなわけで、聖書神学校への進学が、娘に残された最後の――そして唯一の――可能性だと、彼は考えた。
 ジュディスは六歳のとき、トラクターのあとを追いかけていて、飛んできた小石に目を直撃された。それ以来、ずっと眼鏡をかけている。眼鏡のせいで賢いと思われていたが、じつはそれほどでもなかった。たしかに本を読むのは好きだったが、文学作品よりもくだらない三文小説のほうが好みだった。それなのに、インテリのレッテルを貼られた。みんなはなんと言っていたか? 「眼鏡をかけた女に言い寄る男はいない」、そう言っていたのだ。だから、ジュディスは驚いた――もっと言えば、衝撃を受けた。神学校のはじめての授業で、助手を務めていた先輩学生がウィンクしてきたときは。
 目にごみでも入ったのかとジュディスは思ったが、授業のあと、ヘンリー・コールドフィールドに呼ばれ、ドラッグストアへソーダを飲みにいかないかと誘われるに至り、彼の意図に気づいた。ところが、ヘンリーが積極性を見せたのは、そのウィンクが最初で最後だった。彼はとても内気な男だった。不思議なことだ。のちに、飲料販売会社のトップセールスマンになったのだから。退職して三年たったいまでも、くだらない仕事だったと毛嫌いしているのだが。
 集団のなかに溶けこむヘンリーの才能は、陸軍大佐の息子として国内を転々として育ったことで培われたのではないかと、ジュディスは考えている。長くても二、三年で次の基地に異動するのを繰り返していたそうだ。ジュディスのほうは、ヘンリーに情熱的な一目惚(ひとめぼ)れをしたわけではない――愛情はあとからついてきた。当初、ジュディスはヘンリーが自分に惹ひかれているという事実にうっとりした。スクラントン出身の田舎娘には新鮮な体験だったのだ。もっとも、ジュディスはマルクスの哲学――カールではなく、コメディアンのグルーチョのほうだ――とは対極の価値観のなかで生きてきた。つまり、“わたしを入れたがるクラブには入りたくない”ではなく“わたしを入れてくれるクラブならどこでもよろこんで入る”というわけだ。
 ヘンリーという人間そのものが、ひとつのクラブだった。ハンサムではないが不細工でもなく、図々(ずうずう)しくはないが控えめでもない。きっちりとわけた髪と平板なアクセント。平均的、という言葉がぴったりだった。現に、ジュディスは姉に送る手紙にそう書いた。姉のローザの返事は“あんたに望めるのはせいぜいその程度の相手でしょ”とかなんとか、そのようなものだった。ローザは当時、三人目の子を妊娠中で、ふたり目はまだおむつをつけているという大変な状況だった。それでもやはり、ジュディスは姉が侮辱したことを許していない――自分ではなく、ヘンリーを侮辱したことを。ローザがヘンリーのよさをわからなかったのは、自分の書き方が悪かっただけで、彼は紙に文字であらわせるほど単純な男ではないのだ。まあ、結果オーライかもしれない。ローザの辛辣な言葉が理由となって、家族とは距離を置き、内気なくせに突然ウィンクをよこすような赤の他人を大切に思うようになったのだから。
 長年の観察でわかったのだが、内気なわりにいざとなったら押しが強いところのほかにも、ヘンリーは二面性のある男だった。たとえば、高所を恐れるくせに、十代でアマチュアパイロットの免許を取った。元来ひとところにとどまるのが好きなたちなのに、軍の命令で国内を転々とした子ども時代と同様に、成人してからも会社で昇進するたびに北西部から中西部へと移動した。どうやら、彼の人生は本人の望むようにはならなかったようだ。それでも、ヘンリーはジュディスがそばにいるとほんとうに楽しいと、何度となく言ってくれた。
 驚くことの多い四十年だった。
 残念なことに、ジュディスの見たところ、息子は妻をそれほど驚かすことはなさそうだ。トムが子どものころ、ヘンリーは一カ月のうち三週間は出張で留守にしていたし、父親としては厳しく、優しいところがどうしても隠れてしまっていた。その結果、トムは子どものころに見ていた父親像をそっくり受け継いだ。つまり、厳格で頑固で一本気だ。
 そうなった原因はほかにもある。セールスの仕事を好きでやっていたのではなく、家族に対する義務としてこなしていたからなのか、それとも家庭にとどまっていられない生活にうんざりしていたからなのか、理由は定かではないが、ヘンリーは息子に接するときに、いつも言外にプレッシャーをかけていたように見えた。おれと同じまちがいを犯すんじゃないぞ。やりたくもない仕事に囚(とら)われるなよ。食(く)い扶持(ぶち)を稼ぐために自分の信念を曲げるな。唯一、ヘンリーがトムにすすめたのは、妻にするのは善良な女にしろということだった。もっと詳しく話してくれればよかったのに。もう少し優しくしてくれればよかったのに。
 なぜ男は息子に対して厳しく接するのだろう? ジュディスが思うに、息子には自分より成功してほしいからではないだろうか。ジュディスは妊娠に気づいたころ、娘ができるかもしれないと思ったとたんに体じゅうがじんわりと温かくなり、つづいてさっと冷たくなったのを覚えている。この世の中では、ジュディスと同類の若い娘は母親を否定し、世界を否定するではないか。そう気づくと、トムにはもっともっと成功してほしい、望む以上のものを手に入れてほしいというヘンリーの願いが理解できた。
 トムは仕事では成功しているが、さえない嫁は期待はずれだった。ジュディスは義理の娘に会うたびに、背筋をのばしなさい、はっきりしゃべりなさい、まったくもう、しゃんとしなさい、と言ってやりたくてむずむずする。先週、教会のボランティアのひとりが、男は自分の母親に似た女と結婚すると断言していた。ジュディスとしては、その意見自体は否定しなかったが、あの嫁と自分に似たところがあるなどと言われたら、そんなことはないときっぱり返すつもりだ。孫と一緒に過ごす時間はほしいが、嫁に会えなくても、まったく不満はない。
 そもそも、ジュディスとヘンリーがアトランタに引っ越してきたのは、ひとえに孫のためだった。アリゾナで隠退生活を送っていたのに、三千二百キロ離れた熱暑とスモッグ警報とギャング同士の殺しあいの街へ移ってきたのは、アパラチア山脈からこちら側でもっとも甘やかされた恩知らずのちびふたりのそばにいたかったからなのだ。
 ジュディスは、ハンドルを小刻みにたたいて調子はずれの鼻歌を歌いながら運転しているヘンリーをちらりと見やった。孫の話をするときは、ふたりともほめ言葉しか使わない。たぶん、ぽろっと本音をこぼそうものなら、それほど孫が好きではないことが露呈するからだろう――そうしたらどうなる? グルテンを含まない食事と厳密に決まった時間帯の昼寝を課せられ、親同士で日にちを取り決めて“目標を共有し、似たような考え方をする子どもたち”としか遊ばない小さな子どもふたりのために、夫婦の生活を根底から変えたというのに。
 ジュディスの見るかぎり、孫たちの目標とは注目を浴びることだけのようだ。似たような自己中心的な子どもなど、そのへんにいくらでもいるのではないかとジュディスは思うが、嫁が言うには、ほとんどいないらしい。幼児とは、なべて自己中心的なのではないのか? それを躾(しつけ)で矯正するのが親の仕事ではないのか? 祖父母の仕事ではないことは、関係者全員がわかっているはずだが。
 幼いマークが低温殺菌されていないジュースをヘンリーのズボンにこぼしたときも、先月シェルターで覚醒剤の禁断症状を起こして失禁してしまったホームレスの女のように、リリーがジュディスのバッグからハーシーのキスチョコを盗んでむさぼり食ったときも、夫婦はほほえんだだけだった――くすくす笑ってみせたくらいだ。こんなことは愉快な失敗にすぎず、すぐに卒業すると言わんばかりに。
 ところが、すぐに卒業とはいかなかった。そのうちふたりとも礼儀正しく思いやりのある少年少女になり、いきなり大人の会話に割りこむ癖はなおるだろう、家じゅうを走りまわって、ふたつむこうの郡の獣たちが遠吠(とおぼ)えを返してきそうな金切り声をあげるのもやめるだろうという望みは、孫がそれぞれ七歳と九歳になったいまでは失われつつある。ジュディスにとって唯一の慰めは、トムがふたりを毎週日曜日に欠かさず教会へ連れていくことだった。もちろんキリストの生き方にも触れてほしかったが、それよりも日曜学校で聖書の教訓を学んでほしかった。汝(なんじ)の父母を敬え。おのれの欲するところを人に施せ。いますぐ学校を中退しておじいちゃんおばあちゃんの家に転がりこもうとか、人生を棒に振るようなことは考えるな。
「おいこら!」ヘンリーが大声をあげた。対向車がすれすれに走り過ぎていき、ビュイックがガタガタと揺れた。「ガキめ」ハンドルをきつく握りしめながら、ヘンリーがうなった。
 七十歳に近くなるにつれて、ヘンリーはますます偏屈な老人の役割を嬉々(きき)として引き受けるようになったようだ。それがほほえましく映るときもある。ただ、世界で起きる問題のすべてを“ガキ”のせいにして拳を振りまわしはじめるまで、そう遠くはないかもしれないと思えるときもある。どうやらガキには四歳から四十歳までが含まれるらしく、以前は自分にもできたのにいまではできなくなったことを若い者がしていると、急激に腹が立つようだった。遅かれ早かれパイロットの免許を返納しなければならなくなるだろうが、ジュディスはその日が来るのを恐れている。このあいだの心臓の定期検診で、主治医に不整脈があると言われたのだ。もともとアリゾナで隠居することを決めた理由のひとつが、ヘンリーの心臓病だった。あそこでは、雪かきだの芝生の手入れだのをせずにすむ。
 ジュディスは言った。「雨が降りそうね」
 ヘンリーは首をのばして雲を見あげた。
「あの本を読みはじめるのにうってつけの晩だわ」
 ヘンリーの口角があがって笑みになった。今日の記念に、ヘンリーはジュディスに分厚いヒストリカルロマンスの本をプレゼントしてくれた。ジュディスはゴルフコースへ持っていくための新しいクーラーボックスを贈った。
 ジュディスは眉根を寄せて前方の道路を見据えながら、また視力を検査してもらわなければと思った。自分も七十歳になるまであと何年もないし、年々目が悪くなっているような気がする。とくに黄昏(たそがれ)時はひどく、遠くのものがぼやけて見えがちだ。だから、いま見えているものがほんとうにそこにあるのか、何度かまばたきしなければならず、なにかいるとヘンリーに教えようとしたときには、すでにその獣が目の前にいた。
「わぁっ!」ヘンリーは叫び、片方の腕をジュディスの胸の前にさっと出しながらハンドルを左に切り、かわいそうな獣をよけようとした。どういうわけか、ジュディスは、映画のとおりだわと考えていた。すべてがゆっくりと動き、時間が止まったかのように、一秒一秒がなかなか進まない。ヘンリーのこわばった腕が胸の前に飛び出てきて、シートベルトが腰骨に食いこんだ。車が急に路肩へそれた反動で、頭をぐいと引っぱられてドアにたたきつけられた。獣ははねあげられてフロントガラスにひびを入れ、屋根にぶつかり、トランクへ転がり落ちた。車が路上で百八十度回転し、揺れながらようやく停止したとき、ジュディスもようやくいまの音がなんだったのか理解した。ピシッ、ドスン、ドスン。それに重なっていた甲高い悲鳴は、ジュディス自身の口が発しているものだった。ジュディスはショックで取り乱していたにちがいない。ヘンリーに何度も「ジュディス! ジュディス!」と呼びかけられ、やっと口をつぐんだ。
 ヘンリーに腕をきつく握られ、ずきずきとした痛みが肩まで走った。ジュディスは彼の手の甲をさすった。「わたしは大丈夫。大丈夫だから」眼鏡が傾き、視界がぼやけていた。頭の脇に触れると、べとついている。手を離して目の前に持ってくると、血がついているのがわかった。
「鹿かなにかが……」ヘンリーはつぶやき終える前に、手で口をふさいだ。一見、落ち着いているようだが、肩を激しく上下させて息を継ごうとしている。エアバッグが作動していた。ヘンリーの顔は、白い粉に覆われている。
 ジュディスは前方に目をやり、とたんに息を止めた。赤いにわか雨が降ったかのように、フロントガラスに血が飛び散っている。
 ヘンリーはドアをあけたものの、外に出ようとしなかった。ジュディスは眼鏡をはずして目をぬぐった。遠近両用のレンズはどちらもひびが入り、右側の下半分は割れてなくなっていた。眼鏡が震えているのを見て、自分の手が震えていることに気づいた。ヘンリーが車を降りたので、ジュディスも眼鏡をかけて外に出た。
 路上に倒れている獣の脚が動いていた。ドアにぶつけた頭の脇が痛んだ。目に血が入った。そのせいだとしか思えない。その動物の――きっと鹿だ――脚が、白くすらりとした人間の女の脚に見えるのは。
「なんてこった」ヘンリーがかすれた声でつぶやいた。「あれは……ジュディス……あれは……」
 背後から車が走ってくる音が聞こえた。タイヤがアスファルトをすべり、キーッと音をたてた。ドアがあき、閉まる。男がふたり出てきて、そのうちひとりが獣に駆け寄った。
 彼は「九一一に電話してください!」と叫びながら、獣の脇にひざまずいた。ジュディスはそちらへ近づき、いったん立ち止まり、また少し歩いた。ふたたび獣の脚が動いた。いや、どこからどう見ても、人間の女の脚だ。女は全裸だった。太ももの内側が黒ずんでいる――痣(あざ)だ。古い痣。乾いた血が両脚にこびりついている。胴体はワイン色の膜に包まれているように見え、脇腹が裂けて白い骨が覗(のぞ)いている。ジュディスは女の顔に目をやった。鼻が曲がっている。まぶたは腫れ、唇はひび割れている。血にまみれた黒っぽい髪が、後光のように顔のまわりに広がっていた。
 ジュディスは我慢できずにふらふらと歩み寄った――それまでずっと慎(つつ)ましく目をそらしていたのに、急に見たくなったのだ。ジュディスの足元でガラスがパキッと音をたてたとたん、女の目が恐怖に見ひらかれた。生気のないどんよりとした瞳が、ジュディスではなく別のなにかを見つめた。そしてまた女のまぶたが震えながら閉じた。ジュディスは全身に戦慄が走るのを抑えきれなかった。自分の墓の上をだれかが歩いた、とはまさにこういうことだ。
「おお」ヘンリーが祈るようにつぶやいた。ジュディスが振り返ると、夫は胸をつかんでいた。拳の関節が白い。ヘンリーはいまにも嘔吐(おうと)しそうな顔で女を見つめている。「どうしてこんなことに」恐怖に顔をゆがめてささやく。「いったいどうしてこんなことになったんだ?」


第一部  一日目

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 サラ・リントンは椅子の背にもたれ、携帯電話に向かって「ええ、お母さん」と低く応えた。これがなんでもないことに思える日がまた来るのだろうかと、つかのま考えた。以前のように、母親からの電話にほっとするようになるのだろうか。胸から心臓の一部をつかみ出されるような気持ちになるのではなく。
「ベイビー」キャシーがなだめるように言った。「大丈夫よ。あなたはちゃんとやってる。お父さんもわたしも、それだけわかっていればいいの」
 鼻の奥がツンとした。グレイディ病院の医師休憩室で涙をこぼすのは、これがはじめてではないけれど、泣くのもいいかげんに飽きた――ほんとうに、こんな気持ちにはうんざり。そもそも二年前に家族と過去を捨ててジョージア州の片田舎からアトランタへ出てきたのは、こうなるのを避けたかったからではなかったか? 四六時中あのときのことを思い出すのが嫌になったからでは?
「来週はがんばって教会へ行くって約束して」
 サラは約束らしく聞こえるような言葉をぼそぼそと返した。母親のキャシーもばかではないから、今度のイースターの日曜日にサラが教会の信徒席にいる確率は低いと承知している。それでも、無理強いはしなかった。
 サラは目の前のカルテの束を見やった。そろそろシフトが終わるので、申し送りにいかなければならない。「お母さん、悪いけどもう行かなくちゃ」
 来週はあなたから電話しなさいよという言葉のあとに、電話は切れた。サラはしばらく携帯電話を握ったまま、数字のかすれたボタンを見つめていた。親指が七、五とたどり、なじみのある番号を打ちこんだが、発信ボタンは押さなかった。ポケットに携帯電話をしまったとき、手の甲に手紙が触れた。
 手紙。サラは、物体としての手紙を思い浮かべた。
 普段、届いた郵便物は一日中持ち運ばずにすむように、仕事から帰ってきたときに確認する。それなのに、あの朝はなぜか出かけるときに見てしまった。簡素な白い封筒に書かれた差出人の名前を読んだとたん、冷や汗が噴き出てきた。昼休憩のときに読むつもりで、封筒をあけずに白衣のポケットに突っこみ、仕事に出かけた。昼休憩の時間になっても手紙は封筒から出されることなく、そのまま家に持ち帰られ、翌日もまた職場へ運ばれた。数カ月が過ぎたが、手紙はあいかわらずコートのポケットやバッグのなかにおさまって、スーパーマーケットやちょっとした用事など、どこにでもついてくる。いまではお守りになっていて、サラはしばしばポケットに手を入れて手紙に触れ、それがそこにあることを思い出す。
 いつのまにか封筒の角は折れ曲がり、グラント郡の消印は薄れてきた。日がたつにつれてますます封を切ることが難しくなり、サラの夫を死なせた女がなにを言いたくて手紙を送ってきたのかわからないままだ。
「リントン先生?」ドアをノックしたのは、看護師のメアリー・シュローダーだった。彼女はERの隠語で話しはじめた。「POPTAの女性が来ました。三十三歳、衰弱して、脈拍も弱まってる」
 サラはカルテの束を見てから、腕時計に目をやった。意識を失って来院した(パスト・アウト・プライア・トウ・アドミッション)三十三歳の女性とは、時間がかかりそうな難題だ。いまは午後七時前。あと十分でシフトが終わる。「クラカウアー先生は?」
「クラカウアー先生には診てもらった」メアリーは言った。「心臓の検査をオーダーして、例の新米とコーヒーを飲みに行っちゃった」クラカウアー医師に腹を立てているらしい。「患者は警官なんだけど」
 メアリーの夫も警官だ。二十年近くグレイディ病院のERに勤務していれば、警官と結婚するのは当然のなりゆきだ。ただ、そのことを抜きにしても、警察関係者には迅速に最良の治療を施さなければならないというのが、世界中の病院の共通した認識ではないだろうか。オットー・クラカウアーはわかっていないようだが。
 サラは折れた。「どのくらい意識を失っていたの?」
「本人が言うには、一分くらいだって」メアリーはかぶりを振った。自分の体について正直に申告してくれる患者にはとても見えなかったからだ。「見た感じ、あまりよくないね」
 最後の部分は、椅子から立ちあがりながら聞いた。グレイディ病院は、この地域で唯一の最高レベルの外傷センターであると同時に、ジョージア州でも数カ所しか残っていない公立病院のひとつだ。勤務する看護師は、交通事故だけでなく、銃創やナイフの刺し傷や麻薬の過剰摂取など、人道に反する犯罪の被害者を毎日のように目の当たりにしている。だから、深刻な問題に気づく鋭い目を持っている。そしてもちろん、たいていの警官は死にかけていないかぎりみずから病院へ来たりしない。
 サラはERへ向かいながら患者のカルテに目を通した。オットー・クラカウアーは患者に病歴を尋ね、通常の血液検査をオーダーしただけだった。つまり、すぐには診断がつかないということだ。フェイス・ミッチェルは、三十三歳の女性としては健康で、いままでとくに大きな病気をしたことはなく、最近けがもしていない。検査の結果が出ればなにかわかるだろう。
 廊下に並んだストレッチャーにぶつかり、サラは小声で謝った。いつものようにERは患者であふれかえり、廊下まで混みあっている。ストレッチャーに横たわっている者もいれば、車椅子に座っている者もいるが、みな一様に到着したときよりもぐったりとしているのではないかと思われた。患者のほとんどは、日給をもらわなければやっていけないので、仕事が終わってからすぐにここへ来たはずだ。サラは、白衣を見るや声をかけてくる患者たちにいちいち応じることなく、カルテを読みつづけた。
 メアリーが言った。「わたしも一緒に行く。患者は三番診察室よ」ところが、彼女はストレッチャーに乗った老女に引き止められた。
 サラは三番診察室の開いたドアをノックした――ここは個室であり、これもまた警官の特典だ。小柄なブロンドが服を着たまま、いらだちをあらわにしてベッドの端に腰かけている。メアリーは有能な看護師だが、たとえ目の見えない人間でもフェイス・ミッチェルが病気であることはわかるにちがいない。顔色がベッドのシーツと同じ色だ。遠くからでも肌が脂汗で光っているのがわかる。
 彼女の夫はなすすべもない様子で、診察室のなかを行ったり来たりしている。なかなか見栄えのする男だ。身長は優に百八十センチを超え、砂色の髪は短く刈りこんでいる。耳の下からあごにかけてぎざぎざの傷跡がある。子どものころに自転車で転んでアスファルトですりむいたか、ホームベースにすべりこんだときに固く締まった土でけがでもしたのだろう。ジョギングを習慣にしているのか、体つきは引き締まっている。三(み)つ揃(ぞろ)いのスーツに包まれた胸板と広い肩は、ジムで長時間を過ごしている男のものだ。
 男は足を止め、サラと妻を交互に見やった。「さっきの先生は来ないんですか?」
「緊急で呼ばれました」サラはシンクへ行って手を洗った。「わたしは医師のリントンです。倒れたときの状況を教えてください。どうしました?」


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