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【試し読み】『贖いのリミット』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)

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彼女は初めて、自分の娘をその手で抱いていた。
 遠い昔、“赤ちゃんを抱っこする?”と病院で看護師に訊(き)かれたときは首を横に振った。娘に名前をつけることは拒否した。娘を手放すための法的書類に署名はしなかった。安全策を取ってきた。いつもそうしてきたから。病院を抜け出すとき、ジーンズをぐいと引っ張りあげたことを思い出した。ジーンズは、破水したせいでまだ濡(ぬ)れていた。きつかったウェストがぶかぶかになっていて、彼女は余った生地をつかんで裏の階段をおり、角を曲がったところに止めた車で待っている男に会うために駆けていった。
 彼女を待っている男は常にいた。彼女になにかを求め、彼女に恋い焦がれ、彼女を憎んだ男たち。記憶にあるかぎりの昔からそうだった。十歳:口でしてくれれば食べ物をやると言った母親のポン引き。十五歳:切るのが好きだった養父。二十三歳:彼女の体に宣戦布告した兵士。二十四歳:これはレイプではないと断言した警官。三十七歳:永遠に愛してくれると彼女に思わせたもうひとりの警官。
 永遠は、人が思うほど長くない。
 彼女は娘の顔に触れた。さっきとは違い、今度は優しい手つきで。
 なんて美しい。
 娘の肌は柔らかくて、なめらかだった。目は閉じられていたが、まぶたの下が震えている。胸の中で空気が音をたてていた。
 彼女はゆっくりと娘の髪をかきあげ、耳にかけた。遠い昔に病院でこうしてやればよかった。不安そうな額を撫(な)で、小さな十本の手の指にキスをし、小さな十本の足の指に触れればよかった。
 いまその指にはマニキュアが塗られている。長い足の指は何年ものバレエのレッスンや、遅くまで踊り続けた夜や、母親のいない人生を満たしてきたあらゆる出来事のせいで傷んでいる。
 娘の唇に指で触れた。冷たい。あまりに多くの血を失っている。胸から突き出したナイフの柄が、ときにはメトロノームのように、ときには止まりかかった時計の秒針のように、心臓の鼓動に合わせて揺れている。
 遠い昔。
 病院で娘を抱きしめるべきだった。一度だけでも。娘に触れた記憶を刻みつけておくべきだった。そうすれば、いまみたいに彼女が触れたときに娘がぎくりとすることはなかったかもしれない。見知らぬ他人の手から逃げるように、彼女から逃げることはなかったかもしれない。
 ふたりは見知らぬ他人同士だ。
 彼女は首を振った。いまはウサギの穴に落ちていくように、失ったもののことやその理由を考えているときではない。自分が生き延びてきたことを、自分がどれほど強いのかを考えなくてはいけない。カミソリの刃の上を走るような人生を送ってきた。たいていの人がそちらに向かって駆けていくものから全速力で逃げてきた――子供、夫、家、人生。
 幸せ。充足感。愛。
 そうやって逃げてきた過去が、この暗い部屋に一直線につながっていたことがいまとなればわかる。彼女の腕の中で血を流して息絶えようとしている娘を、初めて、そして最後に抱きしめている、出口のないこの暗い場所に。
 閉じたドアの外からこすれるような音がした。ドアの下の隙間から漏れる光の中に、ずるずると近づいてくるふたつの足の影が見えた。
 娘を殺そうとする奴(やつ)?
 彼女を殺そうとしている奴?
 金属の枠の中で、木のドアががたがたと揺れた。ノブがあったところからは、四角い光が差しこんでいる。
 武器はないかと考えた。通りを走りながら脱ぎ捨てたハイヒールの金属の芯。娘の胸から突き出しているナイフ。
 娘はまだ息をしていた。ナイフの柄はなにか重大な臓器を圧迫していて、血が噴き出すのを防いでいる。そのせいで死がゆっくりとした、苦しみを伴うものになっているのだ。
 彼女はほんの一瞬ナイフに触れたが、ゆっくりとその手を引いた。
 ドアがまたがたがた揺れた。なにかをこする音がする。金属が金属に当たる音。ねじまわしが穴に押しこまれると、四角い光が小さくなり、やがて消えた。
 カチリ、カチリ、カチリ。弾が入っていない銃の引き金を引くような音だった。
 彼女は娘の頭をゆっくりと床におろした。膝立ちになった。あばらを鋭い痛みに切り裂かれ、唇を噛(か)んだ。脇腹の傷口が開いたのがわかった。脚を血が伝う。筋肉が痙攣(けいれん)を始めた。
 膝に食いこむおが屑(くず)の固い粒や金属の削りかす、あばらの下の刺すような痛み、止まらない血は無視して暗い部屋の中を這(は)いずった。手に当たるねじや釘(くぎ)の中に、冷たくて丸い金属のなにかがあった。それを手に取った。あたりは暗かったが、手にしたものの正体を指が教えてくれた。壊れたドアノブ。しっかりしている。重たい。十センチの金属の軸がアイスピックのように突き出ている。
 最後にもう一度カチリという音がして、ラッチがはずれた。ねじまわしが音をたててコンクリートの床に落ちた。ドアがきしみながら開いた。
 差しこむ光に、彼女は目を細くした。これまでの人生で傷つけてきた男たちのことを考えた。一度は銃で。一度は針で。こぶしを使ったことは数え切れないほどある。口で。歯で。心で。
 ドアがさらに数センチ、そろそろと開いた。その隙間から銃の先がのぞいた。
 彼女は指のあいだから金属の軸が突き出るようにドアノブを握り、男が入ってくるのを待った。

月曜日

   1


 ウィルは犬が心配だった。ベティは歯の掃除をしてもらっている。ペットにそんなお金をかけるなんてばかげていると思ったが、口内を不衛生なままにしていた動物の身に起きるあらゆる恐ろしい事態を獣医から聞かされたあとでは、飼い犬に数年の貴重な時間を与えられるなら家を売ってもいいような気になっていた。
 アトランタには、人間よりもペットの健康管理にお金をかける愚か者が彼以外にも大勢いるようだ。ウィルは、〈ダッチ・バレー動物病院〉の入り口で行列を作っている人々を眺めた。
 中に入るまいと抵抗しているグレートデンが入り口をふさいでいて、猫の飼い主数人が顔を見合わせている。ウィルは通りに戻った。この汗が八月後半の厳しい暑さのせいなのか、あるいは自分が正しい決断をしたのかどうか確信が持てずにパニックを起こしているせいなのかわからないまま、首の汗をぬぐった。これまで犬を飼ったことはない。動物の健康と幸せがすべて自分ひとりの肩にかかっているというのは、初めての経験だった。胸に手を当てた。獣医の助手に預けたとき、タンバリンのように激しく打っていたベティの心臓の鼓動をいまもまだありありと感じることができる。
 戻って、ベティを助け出すべきだろうか?
 けたたましいクラクションの音がウィルを現実に引き戻した。視界を横切った赤いものは、フェイス・ミッチェルが運転するミニだ。彼女は車を大きくUターンさせると、ウィルの横に止めた。ウィルがドアノブに手を伸ばしたときには、フェイスがすでに身を乗り出してドアを開けていた。
「急いで」北極並みにきかせているエアコンの音に負けじとフェイスは声を張りあげた。「あなたはどこにいるんだって、もう二度もアマンダからメールが来たのよ」
 ウィルは、その小さな車に乗るのをためらった。フェイスの官給車のサバーバンは修理中だ。この車の後部座席にはベビーシートが取りつけられているので、ウィルが百九十センチの体躯(たいく)を押しこむべき助手席の空間は八十センチほどしかない。
 フェイスの携帯電話が新たなメールを受信した。「アマンダよ」たいていの人と同じように、彼女は呪いの言葉のようにその名を口にした。ジョージア州捜査局(GBI)副長官のアマンダ・ワグナーはふたりの上司だが、忍耐強いとは言いがたい。
 ウィルは後部座席にスーツの上着を放りこむと、ブリトーのようにその身を折りたたんで車に乗りこんだ。首を傾けて、閉じたサンルーフの下にできた数センチの隙間に頭を収めた。グローブボックスが向こうずねに食いこむ。膝が顔に当たりそうだ。これで事故にでもなれば、検死官は頭蓋骨から鼻を掘り出さなくてはならないだろう。
「殺人」フェイスはウィルがドアを閉めるのを待たずに、ブレーキから足を離した。「男性、五十八歳」
「いいね」警官は人の死を楽しむ特権があると言わんばかりに、ウィルがつぶやいた。弁明するわけではないが、彼もフェイスもこの七カ月ほどは大変な思いをさせられてきたのだ。フェイスはアトランタの公立学校にまつわる不正行為の特別捜査に駆り出されていたし、ウィルは世間の注目を集めているレイプ事件の捜査にかかりきりだった。
「朝五時頃に、九一一に通報があったの」フェイスはどこか興奮しているような口調で説明した。「チャタフーチの使われていない倉庫近くに死体があるって、男性が匿名で電話してきた。大量の血。凶器は見つかっていない」信号が赤になり、フェイスはスピードを落とした。「無線では死因を言っていないから、きっとかなりひどいわね」
 車の中のなにかが警告音をたてた。ウィルは反射的に、シートベルトに手を伸ばした。「どうしてぼくたちが呼ばれるんだ?」GBIは捜査に勝手に首を突っこむことはできない。知事に命じられるか、もしくは地元の警察からの要請が必要だ。アトランタ警察(APD)は毎週のように殺人事件の捜査をしているが、普段は支援を求めてきたりはしない。とりわけ、州に対しては。
「被害者はアトランタの警官だったの」フェイスはウィルのシートベルトをつかむと、子供にするように留めてやった。「一級刑事のデール・ハーディング。引退している。聞いたことある?」
 ウィルは首を振った。「きみは?」
「母が知っていた。いっしょに仕事をしたことはないらしいけど。知能犯罪の担当だったの。体を悪くして早期に退職したあと、民間警備の仕事を始めたのよ。もっぱら原始的なやり方をしていたみたいだけれどね」フェイスはウィルとパートナーを組む前は、APDに十五年籍を置いていた。彼女の母親は、引退する前は警部だった。ふたりにかかれば、警察の中に知らない人間はいないだろう。「ハーディングの評判を考えれば、怒らせちゃいけないポン引きを怒らせたか、胴元への支払いが遅れたかで、頭をバットで殴られたんだろうって母は言っている」
 信号が青に変わり、車が急発進した。ウィルは、グロックがぐっとあばらに食いこむのを感じた。体重を移し替えようとした。エアコンがきんきんにきいているにもかかわらず、汗ばんだシャツはすでに座席に貼りついていたから、絆創膏(ばんそうこう)のように皮膚がはがれた。ダッシュボードの時計は七時三十八分を示している。正午にはどれほど暑くなっているのか、想像したくもなかった。
 フェイスの携帯電話がまた鳴った。さらにもう一度。そしてもう一度。「アマンダよ」フェイスはうめいた。「どうしてばらばらに送ってくるわけ? 三つの文を三つのメールで送ってくるんだから。全部大文字で。いいかげんにしてほしいわ」フェイスは片手でハンドルを操作しながら、もう一方の手でメールに返信した。危険だし違法だが、フェイスは自分以外の人間にしか違反を適用しない警官のひとりだった。「あと五分くらいよね?」
「この車の量だと十分近くかかるだろう」ウィルは車が歩道に突っこむことのないように、手を伸ばしてハンドルを支えた。「その倉庫の住所は?」
 フェイスはメールをスクロールした。「倉庫群近くの建設現場ね。ビーコン三八〇番地」
 ウィルは首に鋭い痛みが走るほど強く、奥歯を噛みしめた。「マーカス・リッピーのナイトクラブだ」
 フェイスは驚いたように彼を見た。「冗談でしょう?」
 ウィルは首を振った。マーカス・リッピーのことで冗談を言うつもりは毛頭ない。彼はプロのバスケットボール選手で、大学生にクスリを飲ませてレイプしたと訴えられていた。ウィルは七カ月かけて、この嘘つきのろくでなしの容疑をしっかりと固めたのだが、リッピーは何百万ドルという金をかけて弁護士や専門家や評論家を雇い、おかげで事件は立件されることなく終わった。
「死んだ元警官はマーカス・リッピーのクラブでなにをしていたわけ? リッピーがレイプ容疑の立件を免れてから二週間もたっていないのに」
「ぼくたちが着く頃には、リッピーの弁護士たちがもっともな説明を用意しているだろうね」
「まったく」フェイスはカップホルダーに電話をしまうと、両手でハンドルを握った。しばらく黙っていたのは、これがふたりにどういう影響を与えるのかをあれこれと考えていたからだろう。デール・ハーディングは警官だった。だが悪徳警官だ。受け入れがたい現実ではあるが、大きな都市で起きる殺人事件では、被害者が正直な市民であることはまずない。被害者を責めるわけではないが、彼らはたいがい、最後には殺されることになっても無理はないと思えるようななにか――たとえばヒモを怒らせるとか、胴元に金を払わないとか――に関わっているものだ。
 だがマーカス・リッピーが関わっているとなると、話は変わってくる。
 車の流れが粘りつくペーストのように重たくなって、フェイスはスピードを落とした。「つぶされた事件の話はしたくないってあなたは言ってたけれど、話してもらわなきゃいけなくなったみたい」


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