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【試し読み】『グッド・ドーター』(カリン・スローター/ ノンシリーズ)

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一九八九年三月十六日 木曜日

サマンサの身に起きたこと

 サマンサ・クインは千匹のスズメバチに内側から脚を刺されているような気分で、手入れの行き届いていない私道を母屋に向けて走っていた。スニーカーが土を踏む音が激しい鼓動を伴奏し、汗に濡れて太いロープのようになったポニーテールがぴしぴしと肩を打つ。足首の細い骨がいまにも折れそうな気がした。
 サマンサはさらにスピードをあげた。乾いた空気をかろうじて吸いこみ、痛みのなかへと突進していく。
 前方では、妹のシャーロットが母親の影のなかに立っていた。ふたりは常に母親の影のなかにいた。ガンマ・クインは圧倒的な存在感のある女性だった。聡明そうな青い目、短く切った黒い髪、封筒のように白い肌、そして触れられたくないまさにその場所に小さいけれど鋭い傷を与える辛辣な物言い。この距離からでも、手のなかのストップウォッチを見つめるガンマの唇が不満そうにきつく結ばれているのがわかった。
 サマンサの頭のなかで、秒針が時を刻む音が響いた。もっと速く走ろうとした。脚の腱が悲鳴をあげる。スズメバチが肺に移動してきた。手のなかのプラスチック製のバトンが滑った。
 あと二十メートル。十五メートル。十。
 シャーロットがサマンサに背を向けてスタートの体勢を取ったかと思うと、走り出した。右手をうしろに伸ばし、手のひらにバトンが押しつけられるのを待つ。
 相手を見ないで受け取るブラインドパスだ。信頼と協調が必要なバトンパス。だがこの一時間ずっとそうだったように、今回もうまくいかなかった。シャーロットはためらい、振り返った。サマンサが前につんのめる。ここまでの二十回と同じで、プラスチックのバトンはシャーロットの手首を引っ掻いて、肌に赤い筋を残した。
 シャーロットは悲鳴をあげた。サマンサはよろめいた。バトンが落ちた。ガンマは悪態をついた。
「もうおしまい」ガンマはストップウォッチをオーバーオールの胸ポケットにしまうと、家に向かって歩きだした。土がむき出しになっているせいで、裸足の足の裏が赤くなっているのが見えた。
 シャーロットは手首を撫でながら言った。「ばか」
「間抜け」サマンサは痛む肺に空気を吸いこもうとした。「振り向いちゃだめじゃん」
「なんであたしの腕を引っ掻くわけ?」
 キッチンのドアが音をたてて閉まった。ふたりはそろって築百年の農家を見あげた。なんの規則性もないでたらめな建物は、建築許可や建築基準法以前の時代の記念物だ。沈みつつある太陽もその不格好さを補うことはできずにいたし、それを言うなら繰り返し塗りたくられてきた白いペンキも同様だ。筋のついた窓ガラスにはよれよれのレースのカーテンがかけられ、玄関のドアは北ジョージアの朝日を百年以上も浴び続けたおかげで、流木のような灰色に色あせていた。屋根がくぼんで見えるのは、クイン一家が越してきたことでこの家が背負うことになった重みのせいなのかもしれない。
 キッチンのドアが音をたてて閉まった。ふたりはそろって築百年の農家を見あげた。なんの規則性もないでたらめな建物は、建築許可や建築基準法以前の時代の記念物だ。沈みつつある太陽もその不格好さを補うことはできずにいたし、それを言うなら繰り返し塗りたくられてきた白いペンキも同だ。筋のついた窓ガラスにはよれよれのレースのカーテンがかけられ、玄関のドアは北ジョージアの朝日を百年以上も浴び続けたおかげで、流木のような灰色に色あせていた。屋根がくぼんで見えるのは、クイン一家が越してきたことでこの家が背負うことになった重みのせいなのかもしれない。
 十三歳になる妹とは小さいころから喧嘩ばかりだが、少なくともいまは同じことを考えているとサマンサにはわかっていた。家に帰りたい。
 町の近くにある赤いレンガのランチハウスが、彼女たちの家だった。シャーロットの部屋にはポスターやステッカーがペタペタ貼られ、緑色のフェルトペンの落書きがあった。あそこには、きれいに刈りこんだ芝生の前庭があった。鶏の爪痕が残る、なにも生えていないただの土の区画ではなくて。ここの私道は七十メートルもあって、だれが来てもすぐにわかった。
 赤いレンガの家にやってきた人間を見ていた者はいなかった。
 彼女たちの人生がめちゃめちゃになってからわずか日しかたっていなかったが、遠い昔のことのように思えた。あの夜、ガンマとサマンサとシャーロットは陸上競技会に行くために徒歩で学校に向かった。父親のラスティはいつものごとく仕事で留守だった。
 見慣れない黒い車がゆっくりと通りを走っていたことをあとになって隣人が思い出したが、赤いレンガの家の出窓に飛びこむ火炎瓶を目撃した者はいなかった。ひさしから吹き出す煙や屋根をなめる炎に気づいた者はいなかった。警報が鳴ったときには、赤いレンガの家はすでにくすぶる黒い穴と化していた。
 服。ポスター。日記。ぬいぐるみ。宿題。本。二匹の金魚。乳歯。誕生日にもらったお金。盗んだ口紅。隠しておいた煙草。結婚式の写真。赤ん坊のころの写真。男物の革のジャケット。その持ち主からもらったラブレター。音楽のテープ。CDにコンピューターにテレビに家。
「チャーリー!」勝手口の外のポーチに立ったガンマが、腰に手を当てて叫んだ。「テーブルの支度をしてちょうだい」
 シャーロットは「一件落着!」とサマンサに言い残すと、家へと駆け出していった。
「ばか」サマンサはぼそりとつぶやいた。〝一件落着〟と言っただけでは、なにも落着しない。
 サマンサは疲れきった脚でゆっくりと歩いた。あたしは、うしろに手を伸ばしてバトンが渡されるのをじっと待つこともできない能なしじゃないんだから。どうしてシャーロットはあんな簡単なバトンパスができないのか、サマンサにはさっぱりわからなかった。
 靴と靴下を脱いで、勝手口のポーチに置かれていたシャーロットのものの隣に置いた。家のなかの空気はじっとりとよどんでいた。ドアをくぐったサマンサの脳裏に浮かんだのは、〝愛されていない〟という言葉だった。以前ここに住んでいた九十六歳の独身男は、去年、下の階の寝室で死んだ。保険会社とのことが片付くまでのあいだ、彼女たちの父親の友人がここを貸してくれたのだ─ことが片付くときが来るとしたらの話だが。父親の行為が放火を誘発したのではないかという声があるからだ。
 世論という法廷では判決はすでにくだっていて、先週、一家が滞在していたモーテルのオーナーに別のところを見つけてくれと言われたのは、おそらくそれが理由だろう。
 サマンサはキッチンのドアを音をたてて閉めた。そうしないときちんと閉まらないからだ。オリーブグリーンのコンロに水を入れた鍋がのっている。ラミネート加工の茶色いカウンターの上にはスパゲッティの箱。キッチンはじめじめしていて息苦しく、家のなかでいちばん愛されていない場所だった。ここにあるものはなにひとつ調和していない。年代物の冷蔵庫は開けるたびに音をたてたし、シンクの下のバケツは勝手に揺れた。ぐらぐらする合板のテーブルのまわりには不ぞろいの椅子が並んでいる。歪んだしっくいの壁は、以前写真が飾られていた箇所がところどころ白くなっていた。
 シャーロットはテーブルに紙皿を並べながら、舌を出した。サマンサはプラスチックのフォークを一本手に取ると、妹の顔に向かって投げた。
 シャーロットが息を呑んだのは、怒ったからではなかった。「わお、すごい!」フォークは空中で優雅に一回転し、シャーロットの唇のあいだに見事に収まっていた。サマンサにそのフォークを突き返しながら、シャーロットは言った。「二回続けて同じことができたら、お皿洗いはあたしがやってもいいよ」
 サマンサは言い返した。「あんたがあたしの口にちゃんと投げられたら、一週間あたしが洗う」
 シャーロットは片目をつぶり、狙いをつけた。サマンサが、自分の顔にフォークを投げるように妹をそそのかしたばかさかげんを考えないようにしていると、ガンマが大きな段ボール箱を持って入ってきた。
「チャーリー、お姉ちゃんにフォークを投げないの。サム、このあいだ買ったフライパンを捜すのを手伝って」ガンマは箱をテーブルに置いた。箱の外側には〝すべて1ドル〟と記されている。家じゅうのあちこちに半分開いた数十の箱が置かれていて、部屋や廊下は迷路のようになっていた。どれにも、ガンマがリサイクルショップで格安で手に入れた物がいっぱいに詰まっている。
「これでいくら節約できたと思う?」ガンマは〝Well, Isn’t That SPE-CIAL〟と書かれたチャーチレディの色あせた紫色のTシャツを両手で広げてみせたものだ。
 少なくともサマンサにはそう書いてあるように見えたが、人の服を着せられることが恥ずかしくてたまらず、シャーロットとふたりで部屋の隅に隠れていたのではっきりとはわからない。人の靴下。さらには人の下着まで着せようとしたが、幸いにもそれだけは父親が断固として反対した。
「いいかげんにしろ」ラスティはガンマを怒鳴りつけた。「それくらいなら、みんなにずた袋でも着せておいたらどうだ?」
 ガンマは憤然として言い返した。「わたしにお裁縫しろって言うの?」
 言い争いをするおなじみのものがなくなってしまったので、ふたりは新しいものについて言い争いをするようになった。ラスティが集めていたパイプ。帽子。家じゅうに散乱していたほこりをかぶった法律書。赤線や丸印や書きこみのあるガンマのジャーナルや研究論文。玄関で脱ぎ捨てたケッズのスニーカー。シャーロットの凧。サマンサのヘアクリップ。ラスティの母親のフライパンはなくなった。ガンマとラスティが結婚祝いとしてもらった緑色の電気鍋はなくなった。焦げ臭いにおいのするオーブントースターはなくなった。目が出たり引っこんだりするフクロウの形をしたキッチンの時計。ジャケットをかけていたフック。そのフックが取りつけられていた壁。ガンマのステーションワゴンは、かつてはガレージだった黒い穴のなかで恐竜の化石のようになっていた。
 農家には、独身男の遺品を処分したときに売れ残ったぐらぐらする椅子が五脚とアンティークと呼ぶにはあまりに安っぽい古いテーブルがあって、トム・ロビンソンにお金を払って壊してもらわなければならないとガンマが言う大きなシフォローブ(洋服ダンスと引き出しが合体した家具)が、小さなクローゼットに押しこまれていた。
 シフォローブにはなにも吊るされていなかった。引き出しは空だったし、食料品庫の棚にもなにも置かれていなかった。
 一家がここに越してきたのは二日前だが、箱はまだほとんど手つかずのままだ。キッチンの先の廊下は間違ったラベルが貼られた箱や染みのついた茶色い紙袋の迷路と化していて、キャビネットがきれいになるまではそれらをしまうことができず、ガンマに命じられた娘たちが取りかからないかぎり、キャビネットがきれいになることはない。マットレスは二階の部屋で床に直接置かれていた。さかさまにした木箱の上に置いたひびの入ったランプの脇で読む本は、彼女たちの所有物ではなくパイクビル公立図書館から借りてきたものだった。
 サマンサとシャーロットは毎晩、ランニングパンツとスポーツブラと靴下とレディ・レベルズ・トラック・アンド・フィールドのTシャツを手洗いした。炎の犠牲にならなかった数少ない貴重な持ち物だった。
「サム」ガンマが窓に取りつけられたエアコンを指さした。「空気を動かしたいから、それのスイッチを入れて」
 サマンサは大きな金属の箱をじっと眺め、ようやくスイッチを見つけた。モーターがうなる。湿ったフライドチキンのにおいがかすかにする冷たい空気が吹き出てきた。サマンサは窓越しに側庭を眺めた。錆びついたトラクターが壊れかけの納屋の脇に止められ、半分地面に埋まったなにかの農機具がその隣に転がっている。父親の車のシェベットは泥まみれだが、少なくとも母親のステーションワゴンのようにガレージの床に溶けて貼りついてはいない。
 ガンマに尋ねた。「何時にパパを迎えに行くの?」
「裁判所からだれかに送ってもらうことになってる」ガンマは、機嫌よさそうに口笛を吹きながら紙皿で紙飛行機を作ろうとしているシャーロットをちらりと眺めた。「あの事件を担当しているの」
 あの事件。
 サマンサの頭のなかで、その言葉が反響した。父が担当する事件には、父を憎む人々が必ずつきまとった。ジョージア州パイクビルには、ラスティ・クインが代理人を務めたごろつきが大勢いる。麻薬の売人。性的暴行犯。殺人者。強盗。車泥棒。小児性愛者。誘拐犯。銀行強盗。その事件簿は、必ずいやな結末を迎える三文小説のようだ。町の人々はラスティを呪われた者の弁護士と呼んだ。クラレンス・ダロウも同じように呼ばれていたが、サマンサの知るかぎり、殺人犯を死刑囚監房から救い出したからといって彼の家に火炎瓶を投げこんだ人間はいない。
 あの火事はそれが理由だった。
 灯油入りの火炎瓶がクイン家の出窓から投げこまれたのは、白人女性殺害の容疑で逮捕されていたエゼキエル・ウィタカーという黒人男性が、釈放されたその日だった。それだけではメッセージが不充分だと考えたのか、放火犯はご丁寧にも私道の入り口に〝黒んぼの味方〟とスプレーの落書きを残していた。
 そしていまラスティは、十九歳の少女を誘拐し、強姦したとされている男の弁護をしている。今回はどちらも白人だが、男は育ちが悪く、少女はいい家の生まれだったから、人々の風当たりは強かった。ラスティとガンマが表立って事件の話をすることはなかったが、事件がセンセーショナルなものだったため、町でささやかれる噂話はドアの間や換気口を通じてクイン家のなかにまで入りこみ、眠りにつこうとする一家の耳の奥に届いた。
 異物の挿入。
 違法監禁。
 自然に逆らう犯罪。
 ラスティのファイルには、好奇心旺盛なシャーロットでさえ、のぞき見しようとはしない写真があった。そのなかに、自宅の納屋で首を吊っている少女の写真があったからだ。男にされたことはあまりにもおぞましすぎて少女はとても生きていくことができずに、自らの命を絶っていた。
 その少女の弟がサマンサと同じ学校だった。二歳年上だが、ほかのみんなが知っているように、彼はもちろんサマンサの父親がだれであるかを知っていた。ロッカーが並ぶ学校の廊下を歩くのは、炎に皮膚を焼かれながら赤いレンガの家のなかを歩くのも同然だった。
 火事が奪ったのは、サマンサの寝室や服や盗んだ口紅だけではなかった。サマンサは革のジャケットの持ち主である少年も、パーティーや映画やお泊まり会に呼んでくれていた友人も失った。六年生のころから教えてくれていた大好きだった陸上競技のコーチさえ、これ以上彼女を教えられない理由を並べるようになった。
 ガンマは荷物の整理を手伝わせたいので、娘たちをしばらく学校にも陸上競技の練習にも行かせないと校長に告げたが、本当は火事以来、シャーロットが毎日泣きながら学校から帰ってきていたせいであることをサマンサは知っていた。
「ああ、もう」ガンマはフライパンを捜すのをあきらめたらしく、段ボール箱を閉じた。
「今夜はベジタリアンになってもらうけれど、いいわね」
 なにが変わるわけでもなかったから、ふたりに異存はなかった。ガンマはとんでもなく料理が下手だ。レシピを嫌い、スパイスには敵意を抱いている。ガンマはまるで野良猫のように、飼い慣らされることを断固として拒否した。
 ハリエット・クインがガンマと呼ばれているのは、幼い子供が〝ママ〟と発音できなかったからではなく、ふたつの博士号を持っているからだ。ひとつは物理、もうひとつはサマンサにはどうしても覚えられないのだが、同じくらい難しいなにかで、おそらくはガンマ線に関わることだった。NASAで働いていたガンマはシカゴのフェルミ国立加速器研究所に移り、その後危篤状態の両親の面倒を見るために、パイクビルに戻ってきた。将来を約束されていた科学者としてのキャリアを捨てて小さな町の弁護士と結婚するにあたり、なにかロマンチックな物語があったのかもしれないが、サマンサは聞いたことがなかった。
「ママ」シャーロットが食卓の前で頭を抱えて座りこんだ。「お腹が痛い」
 ガンマが訊いた。「宿題があるんじゃないの?」
「化学」顔をあげて尋ねる。「手伝ってくれる?」
「ロケット科学じゃなければね」ガンマはコンロの上の水の入った鍋にスパゲッティを放りこんだ。つまみをまわしてガスを出す。
 シャーロットは腕を組んでつめよった。「それって、ロケット科学じゃないなら、あたしが自分でできるってことなのか、それともママはロケット科学のことしかわからないから、ロケット科学じゃなかったら教えられないっていう意味なのか、どっちなの?」
「もう少し、すっきりした言葉遣いをしなさい」ガンマはマッチをすった。ボッという音がしてガスに火がついた。「手を洗ってきなさい」
「答えてもらってないけど」
「早く」
 シャーロットはわざとらしくうなり声をあげながら立ちあがると、長い廊下を駆けていった。ドアの開く音がして、閉まる音がして、さらにまた別のドアを開閉する音が聞こえた。
「ファッジ!」シャーロットが怒鳴っている。
 長い廊下に並ぶ五つのドアは、どれひとつとして道理にかなったものがない。ひとつは薄気味悪い地下室に通じていて、ひとつを開けるとそこはシフォローブだ。真ん中のドアのひとつはどういうわけか、独身男がそこで息を引き取った小さな寝室につながっている。もうひとつのドアは食料品庫のもので、残ったひとつがバスルームだ。この家に来て二日がたつが、いまだにだれひとりとしてどのドアがどれなのかを長期記憶にとどめておくことができずにいた。
「見つけた!」まるでガンマたちが息を詰めて待っていたかのように、シャーロットが大声で報告した。
「文法はさておき、あの子はいつかいい弁護士になるかもね。なるといいけれど。討論で稼げなければ、ほかで稼げるとは思えないもの」
 がさつでだらしのない妹がブレザーを着てブリーフケースをさげているところを想像して、サマンサは笑った。「あたしはなにになればいい?」
「なんでもいいのよ。ここ以外の場所でなら」
 進路のことが最近、しばしば話題にのぼった。ガンマはサマンサがこの町を出ていき、なんでもいいから、この町の女性たちがする以外のことをしてほしいと願っていた。
 ラスティの仕事のせいでのけ者にされる以前から、ガンマはパイクビルの母親たちとはうまくいっていなかった。隣人も教師も通りを行きかう人たちも、だれもがガンマ・クインについては意見があって、それはたいていが否定的なものだった。彼女は頭がよすぎる。彼女は難しい女性だ。彼女は余計なことを言いすぎる。彼女はここになじもうとしない。
 サマンサが幼いころ、ガンマはランニングをしていた。ブームになる前から運動熱心で、週末はマラソンをし、テレビの前でジェーン・フォンダのワークアウトをしていた。ガンマの優れた運動能力だけが、人々の反感を買ったわけではない。チェスでもボードゲームのトリビアル・パスートでもモノポリーでも、彼女に勝てる者はいなかった。彼女はクイズ番組の『ジェパディ』の答えをすべて知っていた。Who とwhom を使い分けることができた。デマを看過することができなかった。組織宗教を軽蔑していた。人の集まるところでは、わけのわからないことを滔々とまくし立てるという妙な癖があった。
 パンダの手根骨は肥大化しているって知っていました?ホタテ貝は外套膜に沿っていくつもの目が並んでいるって知っていました?
ニューヨークのグランドセントラル駅のなかの花崗岩は、原子力発電所で許容されている以上の放射線を出しているって知っていました?
 ガンマが幸せなのか、人生を楽しんでいるのか、子供たちに満足しているのか、夫を愛しているのか、といったことは、彼女というパズルのどこにはまるのかわからない千ものピースの一部だった。
「あの子は、なにをぐずぐずしているの?」
 サマンサは椅子の背にもたれ、廊下を眺めた。五つのドアはすべて閉まっている。「自分をトイレに流しちゃったんじゃない?」
「箱のどれかに、吸引具(プランジャー)が入っているわよ」
 電話が鳴った。壁に取りつけられた年代物のダイヤル式電話の独特の音だ。赤いレンガの家にはコードレス電話があって、かかってきた電話はすべて留守番電話が応答するようになっていた。サマンサが〝ファック〟という言葉を初めて聞いたのが、その留守番電話だ。友人のゲイルといっしょだった。玄関を入ったときには電話が鳴っていたが、受話器を取るには遅すぎた。
「ラスティ・クイン、おまえをぶっ殺してやる。(ファック・ユー・アップ)聞こえたか?おまえを殺して、おまえの女房に突っこんで、鹿を切り分けるみたいにおまえの娘たちの皮をはいでやる。このくそったれの慈善家野郎め」
四回目の呼び出し音が鳴った。そして五回目。
「サム」ガンマの声は険しかった。「チャーリーに出させないで」
 サマンサは〝あたしならいいわけ?〟と無言で訴えながら、テーブルを離れた。受話器を取り、耳に当てる。無意識のうちに衝撃に備えて、顎を引き、奥歯を噛みしめていた。
「もしもし?」
「やあ、サミー・サム。ママに代わってくれないか」
「パパ」サマンサはほっと息を吐きながら言った。ガンマが首を振るのが見えた。「いま、上でお風呂に入ってる」何時間か前にも同じ言い訳をしたことを思い出したが、手遅れだった。「あとでかけるように言う?」
「ガンマはここ最近、衛生状態をひどく気にしているみたいだな」
「家が焼けて以来っていう意味?」気づいたときには、その言葉が口からこぼれていた。火事の責任がラスティ・クインにあると考えているのは、パイクビル損害保険の代理店だけではない。
 ラスティはくすくす笑った。「いままでそれを言わずにいてくれて感謝するよ」ライターの音が聞こえた。煙草はやめると聖書に誓ったことをきれいに忘れているらしい。「いいかい、サム、ガンマがバスタブから出たら、だれかにそっちの様子を見に行かせるように保安官に頼むつもりだと伝えてくれ」
「保安官?」サマンサはうろたえて視線を向けたが、ガンマは背中を向けたままだった。
「なにがあったの?」
「なにもないよ、サム。ただ家を燃やした悪党がまだ捕まっていなくて、今日また無実の男が自由の身になったから、気に入らない人間がいるかもしれないと思ってね」
「自殺した女の子をレイプした男のこと?」
「あの娘の身になにがあったのかを知っているのは、本人と真犯人と神さまだけだ。わたしはそのどれでもないし、おまえにもそんなふうに考えてほしくない」
 田舎の弁護士が議論を終わりにするときの口調が、サマンサは大嫌いだった。「パパ、あの子は納屋で首を吊った。それは間違いのない事実なんだよ」
「なんだってわたしのまわりは、ひねくれ者の女性ばかりなんだろうな?」ラスティは受話器を手で覆い、ほかのだれかと話をしている。女性のしゃがれた笑い声が聞こえた。父の秘書のレノーラだ。ガンマは以前から彼女を嫌っている。
「さてと」ラスティが電話に戻ってきた。「まだそこにいるのか?」
「ほかのどこに行くっていうの?」
 ガンマが言った。「電話を切りなさい」
「ベイビー」ラスティが煙を吐く息遣いが聞こえた。「わたしがなにをすればいいのか教えてくれないか。そうしたら、すぐにそのとおりにするから」
 弁護士がよく使う手法だ。自分以外の人間に問題を解決させようとする。「パパ、あたしは─」
 ガンマがフックを指で押さえて、電話を切った。「ママ、まだ話してたのに」
 ガンマの指はフックから離れなかった。理由を説明する代わりに、彼女は言った。
「電話を切る(ハング・アップ)という言葉の語源を考えてみて」サマンサの手から受話器を取り、フックにかける。「〝受話器を持ちあげる〟とか〝フックからはずす〟と言えば、意味が通る。フックがレバーであることはわかるでしょう? 押すことで回路が開いて、電話を受けることができるようになるのよ」
「保安官の部下が様子を見に来るんだって」サマンサは言った。「っていうか、パパがそうするように頼むって」
 ガンマは疑わしそうな表情になった。保安官はクイン家の支持者とは言えない。「食事の前に手を洗っていらっしゃい」
 これ以上話を続けようとしても無駄であることはわかっていた。そんなことをしようものなら、ガンマはねじまわしを持ち出して電話を分解し、回路の説明を始めようとするだろう。これまでにも同じようなことは幾度となくあった。あのブロックの住人で車のオイルを自分で交換する女性はガンマだけだった。
 一家はもうあのブロックには住んでいないけれど。
サマンサは廊下の箱につまずいた。そうすれば痛みを追い払えるとでもいうように、爪先をしばらくつかんでいたが、やがて足を引きずりながらバスルームに向かった。途中ですれ違ったシャーロットはサマンサの腕にパンチを食らわせていった。シャーロットはそういうことをする子だ。
 シャーロットはドアを閉めていて、サマンサは一度でバスルームを捜し当てることができなかった。人々の身長がいまよりも低かったころに設置された便座は低い位置にあり、シャワーはプラスチックのコーナーユニットだ。内側の継ぎ目はカビで黒ずんでいる。シンクの内側には丸頭ハンマーが置かれていて、黒い鋳鉄にはハンマーで繰り返し叩かれたらしい跡が残っている。その謎を解いたのはガンマだ。蛇口が古くなって錆びつき、取っ手を叩かなければ水を止めることができなくなっていた。
「週末に直すから」ガンマは言った。大変なものになるだろう一週間の終わりにもらえる、自分への褒美というわけだ。
 例によって、シャーロットが使ったあとのバスルームは散々な有様だった。床には水たまりができていたし、鏡には水しぶきが飛んでいる。便座まで濡れていた。壁に吊るされているペーパータオルに手を伸ばしたところで、気が変わった。最初からこの家は仮住まいのつもりだったが、父は保安官をよこすと言った。つまりここも前の家と同じように、火炎瓶を投げつけられるかもしれないということで、きれいにするのは時間の無駄だ。
「食事よ!」ガンマがキッチンから叫んだ。
 サマンサは顔を洗った。髪がじゃりじゃりしている。泥と汗が混じったものが、ふくらはぎと腕に赤い筋を作っている。熱い風呂に入りたかったが、この家にバスタブはひとつしかない。以前の持ち主が肌にこびりついた泥を何十年ものあいだそのなかで落としていたせいで、鉤爪足のバスタブには濃い錆色の輪ができていた。多少のことは気にしないシャーロットですら、あのバスタブには入ろうとしない。
「ここはひどすぎる」バスルームからのろのろとうしろ向きに出てきたシャーロットは、そう言ったものだ。
 シャーロットが動揺したのはバスタブだけではなかった。じめじめした、薄気味悪い地下室。蝙蝠がいっぱいの不気味な屋根裏。クローゼットのきしむドア。独身男が死んだ寝室。
 シフォローブのいちばん下の引き出しに、その独身男の写真が入っていた。今朝、掃除をしているふりをしているときに見つけたのだが、ふたりとも触ろうとはしなかった。トラクターやラバといっしょに写した、大恐慌時代の農家のよくある写真だったにもかかわらず、なにか不吉なものに呑みこまれそうな気がして、丸顔の孤独な独身男をただ見つめることしかできなかった。サマンサは彼の黄色い歯から目を離せなかった。白黒写真でどうして黄色いとわかったのかは、謎だったが。
「サム?」ガンマがバスルームの入り口に立ち、鏡に映るふたりの顔を見つめていた。
 姉妹と間違われたことはないものの、母と娘であることはひと目でわかる。しっかりした下顎と高い頬骨、たいていの人が傲慢と受け取る眉の形がよく似ている。ガンマは美しくはなかったが、ほとんど黒に近い髪と、なにか面白かったりばかばかしかったりするものを見るとうれしそうに輝く淡い青色の目は人目を引いた。サマンサはそれなりの年齢になっていたから、母親が人生を真剣に受けとめていないときにはそうとわかった。
「水がもったいないでしょう」ガンマが言った。
 サマンサは蛇口を叩いて水を止めてから、シンクのなかに小さなハンマーを戻した。私道に車が止まる音が聞こえた。保安官が部下をよこしたのだろう。ラスティはめったに自分の言葉を守ることはなかったから、意外だった。
 ガンマはサマンサの隣に立った。「まだピーターのことを悲しんでいるの?」
 火事で燃えてしまった革のジャケットの持ち主のことだ。サマンサにラブレターを送ってきたのに、いまは学校の廊下ですれ違っても目を合わそうとすらしない。
「あなたはきれいよ。わかっている?」ガンマが言った。
鏡に映る自分の顔が赤く染まったのがわかった。
「わたしが若かったころよりずっときれい」ガンマは指の背でサマンサの髪を撫でた。
「母さんがあなたを見られるくらい、長生きしてくれればよかったのに」
サマンサは祖父母の話をほとんど聞いたことがなかった。わかっているのは、大学に行くために家を出た娘を最後まで許さなかったことくらいだ。「おばあちゃんって、どんな人だったの?」
 ガンマは笑みを浮かべたが、唇の動きはぎこちなかった。「母さんは、チャーリーみたいにかわいらしかった。とても頭がよかった。いつだって幸せだった。いつもなにかで忙しそうだった。だれもが好きにならずにいられないような人だった」ガンマは首を振った。あれだけの学位を持っていても、いまだに好感度という科学を解明することができずにいるらしい。「三十歳になる前から白髪があった。頭を使いすぎたからだって母さんは言っていたけれど、髪は元々白いってもちろんあなたも知っているでしょう? メラニン細胞っていう特殊な細胞がメラニンを産生して、毛嚢に色素を送りこむの」
 サマンサは母親の胸に背中を預けて目を閉じ、聞き慣れた音楽のようなその声に耳を傾けた。
「ストレスとホルモンが色素形成を阻害することがあるけれど、でも当時の母さんの暮らしはそれほど大変じゃなかった。母親と妻と日曜学校の先生をしていただけだったもの。だから白髪になったのは遺伝的なものだと推測できる。つまり、あなたかチャーリー、もしくはふたりとも同じようになる可能性があるってことね」
 サマンサは目を開けた。「ママの髪は白くないけど」
「月に一度、美容院に行っているからよ」ガンマの笑い声は不自然なほどすぐに消えた。
「どんなときもチャーリーの面倒を見るって約束してちょうだい」
「シャーロットは自分の面倒は自分で見られるよ」
「真面目な話なの、サム」
 母親の断固とした口調を聞いて、サマンサは不安を覚えた。「どうして?」
「あなたはお姉ちゃんで、それがあなたのするべきことだから」ガンマはサマンサの両方の手を握った。鏡を見つめるその視線は揺るがない。「わたしたちはひどい目に遭った。なにもかもよくなるなんて、嘘をつくつもりはないわ。あなたという頼れる存在がいることをチャーリーに覚えておいてほしいの。あの子がどこにいようと、しっかりとあの子の手にバトンを渡してほしい。あなたがあの子を見つけるのよ。あの子があなたを見つけるのを待たないで」
 サマンサは喉が絞めつけられるのを感じた。ガンマはなにかを告げようとしている。リレーよりもっと深刻ななにかを。「ママはどこかに行くの?」
「まさか」ガンマは顔をしかめた。「あなたは役に立つ人間にならなきゃいけないって言っているだけ。ばかみたいなティーンエージャーの段階はもう卒業したと思っているから」
「あたしはまだ─」
「ママ!」シャーロットが叫んだ。
 ガンマはサマンサを自分のほうに向けると、硬い手の平で顔をはさんだ。「わたしはどこにも行かないわよ。そう簡単にはわたしを追い払えないんだからね」そう言ってサマンサの鼻にキスをした。「もう一回、その蛇口を叩いておいてね」
「ママ!」悲鳴のようなシャーロットの声だった。
「まったく」ガンマはぶつぶつ言いながらバスルームを出ていった。「チャーリー・クイン、金切り声を出さないの」
 サマンサは小さなハンマーを再び手に取った。細い木の柄は、目の詰まったスポンジのようにいつも濡れていた。丸い頭は錆びて、前庭と同じような赤色をしている。蛇口を叩き、水が滴ってこないことを確かめた。
 ガンマの声がした。「サマンサ?」
 サマンサは思わず眉間にしわを寄せた。開いたドアのほうに向き直る。ガンマに愛称以外で呼ばれたことは一度もない。シャーロットでさえ、チャーリーと呼ばれることに慣れなければならなかった。いつか、そのことに感謝する日が来るとガンマは言った。彼女自身、ハリエットではなくハリーという名前を記したことで、より多くの論文が出版され、より多くの資金を調達できたのだと言う。
「サマンサ」ガンマの口調は冷ややかで、警告のように聞こえた。「蛇口が閉まっていることを確かめたら、急いでキッチンに来てちょうだい」
 そこに写る自分の姿がどういうことなのかを説明してくれるとでもいうように、サマンサは再び鏡に視線を向けた。いつものガンマはあんな口のきき方はしない。たとえ、ヘアアイロンのマルセルタイプとスプリングタイプの違いを説明しているときであっても。
 サマンサは無意識のうちにシンクのなかに手を伸ばし、小さなハンマーを握りしめていた。その手を背中にまわし、長い廊下をキッチンへと歩いていく。
 明かりはすべてついていた。外は暗くなってきている。キッチンのポーチにシャーロットのものと並んで置いてあるランニングシューズや、庭のどこかに転がっているプラスチックのバトンを思い浮かべた。紙皿が置かれた食卓。プラスチックのフォークとナイフ。
 低い咳が聞こえた。男のだろうか。ガンマかもしれない。火事の煙を肺に吸いこんだのか、ここのところあんなをしているから。
 再び咳。
 サマンサのうなじの毛が逆立った。
 裏口は廊下の反対側にあって、ほのかな明かりがすりガラスに映っていた。廊下を歩きながら振り返った。ドアノブが見える。遠ざかっていきながら、そのノブをまわしている自分を想像した。一歩ごとに、自分はばかなことをしているのか、それとも不安に思うべきなのか、あるいは単なるジョークなのかと自問した。ガンマは冷蔵庫の牛乳瓶にプラスチックのぎょろぎょろした目玉を貼りつけたり、トイレットペーパーのロールの内側に〝助けて、トイレットペーパー工場に閉じこめられてる〟と書いたりして、娘たちをからかうのが好きだったからだ。
 この家に電話機は一台しかない。キッチンのダイヤル式電話だ。
 父親の銃はキッチンの引き出しのなか。
 サマンサがハンマーを持っているのを見たら、シャーロットは笑うだろう。サマンサはランニングパンツのうしろに、ハンマーを突っこんだ。背中に当たる金属は冷たく、濡れた柄は丸めた舌のように感じられた。キッチンに入っていきながら、シャツでハンマーを隠した。
 体がこわばるのがわかった。
 ジョークではない。
 キッチンには男がふたりいた。汗とビールとニコチンのにおいがする。黒い手袋をはめ、黒いスキーマスクで顔を隠している。
 サマンサは口を開いたが、綿のように濃密な空気が喉をふさいだ。
 ひとりは背が高い。もうひとりはがっしりしていて、ジーンズに黒いシャツを着ている。背の高いほうは色あせた白いコンサートTシャツにジーンズ、青いハイカット・スニーカーという格好で、赤い靴紐は結ばずにそのままにしていた。背の低いほうがより凶暴そうに見えたが、マスクから見えているのは口と目だけだったからはっきりとはわからない。
 だがサマンサは彼らの目を見ていたわけではなかった。
 ハイカットはリボルバーを持っていた。
 黒シャツが手にした散弾銃はまっすぐにガンマの頭を狙っていた。
 ガンマは両手を上にあげたまま、サマンサに言った。「大丈夫よ」
「いいや、大丈夫じゃないね」黒シャツの声はしわがれて、ガラガラヘビが尻尾を振ったときのようだった。「家にはほかにだれがいる?」
 ガンマは首を振った。「だれも」
「嘘をつくな、くそばばあ」
 かたかたという音がした。テーブルの前に座っているシャーロットがひどく体を震わせているせいで、椅子の脚が床に当たって木をつつくキツツキのような音をたてていた。
 サマンサは廊下を振り返り、ぼんやりとした明かりを通している裏口を見た。
「ここだ」青いハイカットの男が、シャーロットの隣に座るようにとサマンサに身振りで命じた。サマンサはゆっくりと移動し、両手をテーブルの上に置いたまま、慎重に膝を曲げて腰をおろした。ハンマーの木の柄が椅子の座面に当たって音をたてた。
「なんの音だ?」黒シャツがさっとサマンサに視線を向けた。
「ごめんなさい」シャーロットがつぶやいた。床に小便の水たまりができている。シャーロットは顔を伏せ、前後に体を揺すった。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 サマンサは妹の手を握った。
「なにが欲しいの?」ガンマが口を開いた。「なんでもあげるから、もう帰って」
「それが欲しいと言ったらどうする?」黒シャツの冷たい目がシャーロットをとらえた。
「お願いよ。なんでもあなたの言うとおりにするから。なんでも」
「なんでも?」それがなにを意味しているのかを全員にわからせるような黒シャツの口調だった。
「だめだ」ハイカットが言った。若い声で、不安なのか、あるいは怯えているようにも聞こえた。「そんなことのために来たわけじゃない」払いをしようとするとスキーマスクの下で喉仏が動いた。「旦那はどこだ?」
 ガンマの目になにかが灯った。怒りだ。「仕事よ」
「それならどうしてやつの車が外に止まっているんだ?」
「火事のせいで車が一台しかなくて─」
「保安官が……」サマンサは、言うべきではなかったと気づいてそのあとの言葉を呑みこんだが、手遅れだった。
 黒シャツが再びサマンサに目を向けた。「なんだ?」
サマンサは顔を伏せた。シャーロットが彼女の手をぎゅっと握った。保安官、サマンサはそう言いかけた。保安官の部下がじきにここに来る。様子を見に来てくれるとラスティは言った。けれどラスティはこれまでも、本当にならないことをたくさん言ってきた。
 ガンマが言った。「この子は怯えているだけ。ほかの部屋に行きましょう。そこであなたたちの望みを聞くから」
 サマンサはなにか固いもので頭を殴られるのを感じた。口のなかに金属の味がして、耳の奥が鳴っている。散弾銃だ。黒シャツの男は彼女の頭頂部に銃口を押しつけた。「保安官と言ったな。聞こえたぞ」
「言ってない」ガンマが打ち消した。「この子は――」
「黙れ」
「ただ――」
「黙れと言ったんだ!」
 サマンサが顔をあげたのと、散弾銃がガンマに向けられたのが同時だった。
 ガンマは手を伸ばした。まるで砂のなかに手を差し入れているような、ゆっくりした動きだ。全員が突如としてこま送りの一部になったかのようだった。体は粘土と化し、その動きはぎくしゃくしている。サマンサはひとつひとつの動きを見つめていた。母親の指が先端を切りつめた散弾銃をつかんだ。きれいに切りそろえられた爪。鉛筆を握るせいでできた親指のたこ。
 ほとんど聞こえないくらいの音がした。カチリ。
 時計の秒針。
 ドアの掛け金。
 散弾銃の薬包の雷管をはじく撃針。
 サマンサはその音を聞いたのかもしれないし、黒シャツがトリガーを引いたとき、その指を見つめていたから、聞いたと思っただけかもしれない。
 赤い霧が爆発した。
 血が天井に飛び散る。床に降り注ぐ。熱を帯びた、ねばねばする赤い巻き毛がシャーロットの頭頂部に貼りつき、サマンサの首の横と顔にからみついた。
 ガンマは床に倒れた。
 シャーロットが悲鳴をあげた。
 サマンサは自分の口が開いたのを感じたが、声は喉に詰まって出てこなかった。体が凍りつく。シャーロットの悲鳴は遠くで響くこだまになった。あらゆるものから色が消えた。独身男の写真のように、黒と白のまま動きを止めた。黒い血が白いエアコンのグリルに飛び散っている。小さな黒い粒が窓ガラスに点々と飛んでいる。チャコールグレーの夜空に、ぽつんと小さな星が光っている。
 サマンサは手をあげて自分の首に触れた。固い粒。骨。血。あらゆるものが血まみれだった。喉で打つ脈を感じた。これはあたしの心臓? それとも震える指の下でガンマの心臓の一部がどくどくと脈打っているの?
 シャーロットの悲鳴が大きくなって、耳に刺さった。指を濡らす黒い血が真っ赤に変わった。灰色の部屋が、目の覚めるような鮮やかな色に戻った。
 死んだ。ガンマは死んだ。もう二度と、パイクビルから出ていけとサマンサに言うことはない。テストでわかりきった問題を間違えたことや、陸上競技でもっと自分を追いこまないことや、シャーロットにすぐ怒ることや、自分の才能を無駄にしていることを叱ったりはしない。
 サマンサは指をこすり合わせた。手のなかにガンマの歯のかけらがある。胃の中身がこみあげてきた。涙で前が見えない。ハープの弦のように、体のなかで悲嘆が振動していた。
 ひとつまばたきをするあいだに、世界が根底からひっくり返った。
「黙れ!」黒シャツが、椅子から落ちそうになるくらい強くシャーロットを引っぱたいた。
サマンサはシャーロットを支え、そしてしがみついた。ふたりはすすり泣き、震え、叫んでいた。こんなことがあるはずがない。ガンマが死ぬはずがない。きっと目を開ける。ゆっくりと自分の体を元通りにしながら、心臓血管の働きを説明し始めるに決まっている。
 平均的な心臓は一分間に五リットルの血を送り出しているって知っていた?
「ガンマ」サマンサはつぶやいた。散弾銃の弾は彼女の胸と首と顔に穴を開けていた。下顎の左側がなくなっている。頭蓋骨の一部も。ガンマの複雑で美しい脳みそ。弧を描く、超然とした眉。サマンサになにかを説明してくれる人はもういない。彼女が理解していようといまいと、気にかけてくれる人はもういない。「ガンマ」
「ばかやろう!」ハイカットは、骨と組織の塊を払い落とそうとして激しく自分の胸を叩いた。「なんてことするんだ、ザック!」
 サマンサはさっと振り返った。
 ザカライア・カルペッパー。


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