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【試し読み】『スクリーム』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)

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スクリーム
カリン・スローター[著]
鈴木美朋[訳]


プロローグ 

ベッキー・カタリノは、寮の共用冷蔵庫のなかを薄暗い奥のほうまで覗きこんだ。苛立ちながら食べ物のラベルに目を走らせ、自分が書いたイニシャルを探した──カッテージチーズでも、クラッカーとハムとチーズのランチャブルでも、冷凍ピザのベーグル・バイツでもヴィーガン・ソーセージでも、この際、人参スティックでもなんでもいい。
 KPはカイリー・ピアース。DLはデニーシャ・ラックランド。VSはヴァネッサ・サッター。
「あいつら」冷蔵庫のドアを乱暴に閉めたせいで、ビール瓶がガチャンと鳴った。手近なものを蹴り飛ばしたところ、たまたまゴミ箱だった。
 空のヨーグルト容器がいくつか床に転がった。くしゃくしゃに丸めたスキニー・ガールのポップコーンの空き袋も。それに、すすいだダイエットコークの空き瓶数本。どれも目立つところに黒いマジックでふたつの文字が書いてある。
 BC。
 有機化学講座で成績の五十パーセントを占めるレポートを図書館で夜通し書いているあいだに、ルームメイトたちに食べつくされたなけなしの食料の空容器を、ベッキーはまじまじと見つめた。
 目がさっと時計へ向いた。
 午前四時五十七分。
「くそビッチ!」ベッキーは天井に向かって叫んだ。目につくかぎりの照明スイッチを押した。なにも履いていない足が廊下のカーペットに足跡を焼きつけた。もうくたくただ。立っているのもやっとだ。図書館の自動販売機で買って食べたドリトスと特大シナモンロール二個が胃袋のなかでコンクリートの塊に変わってしまった。もうすぐ栄養のある食べ物にありつけるという期待だけを原動力に、図書館から寮まで歩いてきたのに。
「起きろ、泥棒!」カイリーのドアを拳で強く叩くと、思いがけずさっと開いた。
 天井近くでマリファナの煙がたゆたっている。シーツの下からカイリーが目を丸くした。隣の男が寝返りを打ってこちらを向いた。
 ヴァネッサのボーイフレンド、マーカス・パウエルだ。
「やばっ!」片方の靴下以外はなにも身に着けていないカイリーが、ベッドから飛び出した。
 ベッキーは廊下の壁を拳でドンドンと叩きながら自室へ向かった。寮のなかでもっとも狭い部屋をみずから進んで選んだのは、年齢は同じでも銀行口座の残高は二倍の女子学生三人組にはっきりとものを言えず、いいように使われるやつ、それが自分だからだ。
「ネッサには黙ってて!」カイリーが裸のまま、あわてて追いかけてきた。「あたしたちなにもしてないよ、ベック。ただ酔っ払って、それで──」
 ただ酔っ払って、それで。
 ビッチたちのいまいましい言い訳は、いつもこの言葉ではじまる。ヴァネッサがデニーシャのボーイフレンドのあれをくわえているのを見つかったときもそうだった。カイリーの兄がクローゼットで間違えて小便をしたときも。デニーシャがベッキーの下着を〝借りた〟ときも。連中はいつも酔っ払っているか、ラリっているか、だれかれかまわずセックスしているか、たがいに寝取り合っている。それはここが大学の寮ではなく、だれひとり規則違反で立ち退かされずにひとり残らず淋病をもらうリアリティ番組のセットだからだ。
「ベック、待ってよ」カイリーがむき出しの腕をさする。「ネッサはどうせあいつと別れるつもりだったんだから」
 ここでえんえんと叫び声をあげることにするか、それともさっさと出ていくべきか。
「ベック──」
「走ってくる」ベッキーは抽斗をぐいとあけた。靴下を探したが、どれも片方ずつしかない。気に入っているスポーツブラはベッドの下で丸まっていた。かごから汚れたランニングショーツを取り出し、左右ばらばらの靴下を履くことにした。片方はかかとに穴があいているが、ここにいてあらゆる有機体にむかついておかしくなるくらいなら、靴擦れのほうがよほどましだ。
「ベッキー、そんなにカリカリすることないでしょ。あたし傷ついてるんですけど」
 ベッキーは鼻声のたわごとを聞き流した。ヘッドフォンを首にかけた。iPodシャッフルがあるべき場所にあったのが驚きだ。寮の受難者を気取っているカイリーが罪を犯すのは、すべて大義のためということになっている。マーカスと寝たのはヴァネッサが彼を悲しませたから。デニーシャのテストを丸写ししたのは、これ以上単位を落としたら母親が絶望するから。ベッキーのマカロニチーズを食べたのは、痩せすぎだと父親が心配しているから。
「ベッキー」カイリーは話をそらしにかかった。「どうして口をきいてくれないの? ほんとはなにが気に入らないの?」
 なにが気に入らないのかはっきり教えてやろうとしたそのとき、ヘアクリップがいつもの置き場所であるナイトテーブルにないことに気づいた。
 肺から酸素が抜けた。
 カイリーが降参したように両手をさっとあげる。「あたしじゃないから」
 ベッキーはつかのま、もう一対の目のようにこちらを見あげているカイリーのまん丸な乳輪をぼんやりと見つめた。
 カイリーが言った。「ねえ、たしかにあたしは冷蔵庫に入ってたあんたの食料は食べたけど、ヘアクリップは盗んでない。わかるよね」
 ベッキーは胸に黒い穴があいたような気がしていた。ヘアクリップは、ドラッグストアで買えるようなプラスチックの安物だが、ベッキーにとっては世界一大切なものだ。車で仕事に出かけ、州間高速道路を逆走していた酔っ払いに殺された母親から最後に手渡されたものなのだ。
「ちょっとブレアにドロータ、悪巧みもほどほどにしなよ」ヴァネッサの部屋のドアがあいた。起きたばかりでむくんだ顔のなかで、目が細い裂け目になっている。裸のカイリーを無視していきなりベッキーに言った。「ねえ、こんなレイプ時にジョギングなんかやめといたほうがいいよ」
 ベッキーは逃げ出だした。ふたりのビッチの脇を通り過ぎて。廊下を抜けて。ふたたびキッチンに入って。リビングルームを通って。ドアの外へ。また廊下。三階分の階段。メインのレクリエーションルーム。玄関のガラス扉はカードキーがなければ外からはあけられないが、かまうものか、とにかくあのモンスターたちから逃げなければ。あの気まぐれな悪意から。辛辣な言葉と尖った乳房と剃刀のような視線から。
 芝生の中庭を走っていくと、脚に朝露がぴしゃぴしゃとはねかかった。コンクリートの防護柵をまわり、キャンパス内の道路に出た。空気はまだひんやりとしている。曙光が差しはじめ、街灯がひとつひとつ消えていく。離れたところでだれかが咳払いしたのが聞こえた。不意に背筋に戦慄が走った。
 レイプ時。
 わたしがレイプされようがなんとも思わないくせに。食料を買うのもままならないことも、あの子たちよりバイトに勉強に励み、懸命に努力し、走りつづけているのに、どんなにがんばっても、決して、決してほかのみんなのスタート地点にすらたどり着けないことも、わかろうともしないくせに。
 ブレアにドロータ。
『ゴシップ・ガール』の人気者の女の子と、その腰巾着の太ったメイドだ。みんなはだれがブレアでだれがドロータと思っているか、回答はふたつにひとつ。
 ベッキーはヘッドフォンを装着した。Tシャツの裾にとめたiPodシャッフルの電源を入れた。フロー・ライダーの曲がはじまった。
 Can you blow my whistle baby, whistle baby...
 曲と同じビートで足が地面を叩く。キャンパスと田舎くさいダウンタウンを隔てる正門を抜けた。この大学は禁酒郡にあるので、周囲に学生がたむろするようなバーはない。ベッキーの父親は、『メイベリー110番』のメイベリーと似ていると言ったが、もっと保守的で退屈な町だ。ホームセンター。児童診療所。警察署。婦人服店。太陽が森の上に顔を出しはじめたばかりだが、ダイナーの老店主は歩道にホースで水をまいている。夜明けの光がすべてを気味の悪い朱色に染める。店主がベッキーのほうを向いて野球帽を軽くあげた。ベッキーはアスファルトのひび割れにつまずいた。なんとか転ばずにすんだ。まっすぐ前を向き、ホースを捨てて駆けつけようとした店主に気づかなかいふりをした。地球上の人間はひとり残らずくそ野郎で人生は最悪だという真実を忘れたくない。
「ベッキー」母親がバッグからプラスチックのヘアクリップを取り出しながら言う。「今度こそ本気よ。ちゃんと返してね」
 あのヘアクリップ。二枚の櫛を蝶番でつないだもので、歯が一本折れていた。べっこう色、というよりも猫の毛色みたい。ジュリア・スタイルズが『恋のからさわぎ』で似たようなものをつけていた。あの映画は、母親も自分も好きな数少ない映画のひとつだったから、何度も一緒に観た。
 ナイトテーブルからヘアクリップを盗んだのはカイリーではないだろう。意地悪なやつだが、あのヘアクリップがどんなに大切なものかは知っているはずだ。ふたりとも酔っ払っていた晩に、ついあのときのことを洗いざらいしゃべってしまったからだ。英語の授業中に校長が呼びに来たこと。校内駐在警察官が廊下で待っていたので、それまで一度も警察沙汰を起こしたことがなかった自分はぎょっとしたけれど、そのときも悪いことをしたせいで呼び出されたのではなかったこと。体の奥深くで、なにかがひどくおかしいと気づいていたらしいこと。なぜなら、その警官が口を開いたとたんに、神経細胞の結合部に不具合が起きたかのように聴覚がなくなり、静寂の合間にところどころ言葉が聞こえはじめたから──
 お母さんが……インターステートで……酒酔い運転の車に……
 あのとき、ベッキーはなぜか頭の後ろに手をやり、ヘアクリップを探した。母親が家を出る前に、最後に触れたヘアクリップ。それを開いた。髪を指で梳いて、ヘアクリップをはずした。手のひらできつく握りしめたせいで、歯が一本折れた。ママにめちゃくちゃ叱られると思ったのを覚えている──ちゃんと返してね。だが、母親にめちゃくちゃ叱られることは二度とない、なぜなら母親は死んだのだから、と頭ではわかっていた。
 ベッキーは頬を濡らす涙を払いながら、メイン・ストリートの端へ近づいていった。左と右、どちらに曲がるか? 大学の教授や裕福な人々が住む湖畔へ行くか、トレイラーハウスや小さな家が並ぶ地区にするか?
 湖畔とは反対方向の右を選んだ。iPodの曲はフロー・ライダーからニッキー・ミナージュに変わっている。胃袋のなかでドリトスとシナモンロールがかき混ぜられ、甘ったるいものが喉元にこみあげてくる。音楽を止めた。ヘッドフォンをまた首にかけた。肺がガタガタと震え、いまにも止まりそうだという信号を送ってくるのもかまわず、深く息を吸いこみながら走りつづけたが、母親とソファに座ってスキニー・ガールのポップコーンを食べながらヒース・レジャーの〈君の瞳に恋してる〉に合わせて歌ったのを思い出し、まだ涙が目に染みていた。
 You’re just too good to be true...
 ベッキーはスピードをあげた。みすぼらしい家が並ぶ界隈の奥へ入っていくほどに、空気がよどんできた。標識に書かれた通りの名前は、なぜか朝食がテーマになっている。SW・オムレツ・ロード。ハッシュブラウン・ウェイ。このあたりへ来たのははじめてだ。とくにこの時間帯は。朱色の光は汚い茶色に変わっている。色あせたピックアップトラックや古い車が路肩にぽつぽつとまっている。塗装のはげかかった住宅が並ぶ。窓の多くは、板を打ちつけられている。かかとがずきずきと痛みはじめた。案の定だ。靴下に穴があいているせいで靴擦れしている。脳裏に映像がぽんと浮かんだ。片方の靴下を履いただけの姿でベッドから飛び出てきたカイリー。
 わたしの靴下の片方。
 ベッキーはスピードを落として歩きはじめた。しばらくして、通りの真ん中で立ち止まった。両膝に手をついて息を継いだ。もはやかかとの痛みは靴のなかにスズメバチがいるかのようだ。キャンパスへ戻るころには、かかとの皮がむけてしまうに違いない。午前七時にアダムズ先生に会い、レポートをチェックしてもらうことになっている。いま何時かわからないが、約束の時刻に間に合わなかったら先生の機嫌を損ねてしまう。ここはハイスクールではない。教授の時間を無駄にしたら、ほんとうにまずいことになりかねない。
 カイリーに迎えに来てもらうしかない。カイリーはいやなやつだが、助けを求めればかならず車を出してくれる──あとで大げさに恩を売るためであっても。ポケットに手を入れた瞬間、また別の映像が脳裏に浮かんだ。図書館で携帯電話をリュックに入れる自分、そのあと寮でリュックをキッチンの床に置く自分。
 携帯電話がない。カイリーは来ない。助けが来ない。
 いまでは太陽がすっかり森の上にのぼりきっていたが、ベッキーはあいかわらず闇に侵食されているような気がしていた。自分がここにいるのはだれも知らない。帰ってくるのを待っている者もいない。この界隈はよく知らない。よく知らない、治安の悪い界隈。そのへんの家のドアをノックして電話を貸してほしいと頼むのは、いかにも犯罪ニュース番組『デイトライン』の冒頭場面にありがちだ。ナレーターの声が頭のなかで聞こえる──
 ベッキーのルームメイトは、彼女が頭を冷やしているのだろうと思っていた。アダムズ博士は、約束の時刻にベッキーが現れなかったのは、レポートを完成させることができなかったからだろうと考えた。そのころ腹を立てた大学一年生が喰人鬼のレイプ魔の玄関ドアをノックしているとは、だれひとり思ってもいなかったのだ……。
 なにかが腐ったようなツンと鼻をつくにおいに、ベッキーはわれに返った。ゴミ収集車が交差点に入ってきた。収集車はブレーキをきしませて停止した。オーバーオール姿の男が後ろから飛び降りた。キャスター付きのゴミ容器を収集車までごろごろと押していく。収集車のリフト装置にゴミ容器を取りつける。ベッキーは、車体につながっているその装置がぎしぎしと動く様子を見ていた。オーバーオールの男はベッキーに目もくれないのに、なぜかベッキーはじっと見られているような気がした。
 レイプ時。
 ベッキーは、この道に入ったときに左右どちらに曲がったのか思い出そうとした。通りの名前を記した標識もない。見られている感覚はますます強くなってきた。周囲の家やとまっているトラックや車のなかに、さっと目を走らせた。窓辺のカーテンに動きはない。喰人鬼のレイプ魔が、お困りですかと声をかけに出てくることもない。
 彼女の脳がとっさに命じたのは、こういうときに女性がすべきではないことだった。びくついた自分を叱りつけ、直感を抑えつけ、怖いものから子どものように逃げるのではなく、そちらへ向かっていけと命じたのだ。
 ベッキーは直感に反論した。通りの真ん中にいるからいけないのだ。家のそばを歩くようにすれば、家のなかには人がいる。怪しい人が近づいてきたら、頭が吹っ飛びそうなほど大きな悲鳴をあげればいい。そして安全なキャンパスに帰るのだ。
 いいアドバイスだが、そのキャンパスはいったいどっち?
 二台の車のあいだを通って歩道に入ったつもりが、そこは二軒の家に挟まれた細長い草地だった。街中なら路地と呼んだかもしれないが、こちらは空き地という言葉のほうが似つかわしい。煙草の吸い殻や割れたビール瓶が散らかっていた。家の裏手には手入れされた草地が広がり、その先の小高い丘の上に森があるのが見えた。
 なんとなく森に入るのはやめたほうがいいように思ったが、森のなかを縦横に走る固い土の道は知りつくしている。そこで自転車に乗ったり、太極拳をしに湖畔へ向かったり、早朝ランをしたりしている活動的な学生に会うかもしれない。目をあげて朝日の位置で方角を確かめた。キャンパスは西にあるはずだ。靴擦れだろうがなんだろうが、とにかく寮に帰らなければならない。有機化学の単位を落とすわけにはいかないのだから。
 かすかにシナモンの風味がするげっぷが出た。喉の内側がふくれあがっているような感覚があった。自動販売機の食べ物がふたたび外に出たがっている。吐くのは寮に戻ってからだ。草地で吐くなんて、猫じゃあるまいし。
 二軒の家のあいだを歩いていると、歯がカチカチ鳴るほど体が震えだした。ペースを速めて空き地を突っ切った。走ってはいないが、のんびり歩いてもいない。足を地面におろすたびにかかとにずきりとした痛みが走った。顔をしかめるとやや楽になったような気がした。そのうち、歯を食いしばって我慢するようになった。さらにもうしばらくすると、ベッキーは走りだしていた。千人分もの視線で背中を焼かれているようだったが、たぶんそんな視線は存在しない。
 たぶん。
 森に入ったとたん、気温がぐっとさがった。周囲で影がうごめいていた。ほどなく、何度も走ったことのある小道が見つかった。iPodに手をのばしかけて、考えなおした。森の静寂を聴きたい。ところどころ、鬱蒼と茂った木々の梢を透かして細い光が差しこんでいた。ベッキーは今朝のことを思い返した。冷蔵庫の前に立って。焼けつくように熱い頬に冷気を浴びて。床に散らかったポップコーンの空き袋とコーラの空き瓶。ルームメイトたちはあとでお金を払ってくれるはずだ。いつもそうだから。みんな泥棒ではない。買い物に行くのを面倒くさがり、なにか買ってこようかと声をかけても、横着だからリストも作れないだけなのだ。
「ベッキー?」
 男の声にベッキーは振り向いたが、体は前へ進みつづけた。つまずいて転ぶまでの一瞬、男の顔が見えた。親切そうで、心配そうな顔つき。倒れたベッキーに手を差しのべようとしている。
 ベッキーの頭が固いものにぶつかった。口のなかに血があふれた。視界がぼやけた。寝返りを打とうとしたが、途中で動けなくなった。髪がなにかに引っかかっている。引っぱられる。強く引っぱられる。ベッキーは頭の後ろに手をやった。なぜかそこに母親のヘアクリップがあるような気がした。だが、手に触れたのは木、そして鋼、そのとき男の顔がはっきりと見え、ベッキーは悟った。自分の頭にめりこんでいるのはハンマーだと。


続きは本書でお楽しみください。


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