見出し画像

【試し読み】『プリティー・ガールズ』(カリン・スローター/ ノンシリーズ)

画像1

  i

 おまえがいなくなったばかりのころ、実際になにが起きたのかを知るよりもなにもわからないほうがましだと母さんに言われていた。わたしたちはいつもこのことで口論になった。当時わたしたちを結びつけていたのは口論だけだったからだ。
「あの子の身になにが起きたか知っても楽にはなれないわ」母さんは言った。「打ちのめされるだけよ」
 わたしは科学を重んじる人間だ。事実を知らないと気がすまない。望もうが望むまいが、わたしの頭は次々と仮説を立てつづける。誘拐された。レイプされた。汚けがされた。
 おまえは反抗心で家を飛びだした。
 それが保安官の考えだ。少なくともわれわれが求めた答えを提示できないときの彼の言い訳だった。おまえが意志が強く、真剣に理想を追い求める娘であることを、わたしと母さんはひそかに喜んでいた。しかし、男の子ならば活発で野心的に見えるものであっても、女の子の場合はトラブルを招く種だと見られることを、おまえがいなくなってから思い知らされた。
「若い娘ってのはしょっちゅういなくなるものです」保安官はおまえがそこいらの家出娘と同じであるかのように肩をすくめた。まるで一週間か一カ月、あるいは一年先にひょっこり帰ってきて、ボーイフレンドと一緒だったとか、友だちと国外へ旅行に行ってきたなどといったいいかげんな釈明をするはずだというように。
 おまえは十九歳だった。法律的にはもうわたしたちのものではない。おまえは自分自身のものだ。おまえは独立した大人のひとりだ。
 それでもわたしたちは捜索隊を結成した。病院や警察やホームレスのシェルターに電話をかけつづけた。街じゅうにビラを貼った。一軒一軒家を訪ねてまわった。おまえの友人たちに話を聞いた。治安のよくない地域にある廃墟や焼け落ちた家なども見に行った。私立探偵には蓄えを半分持っていかれ、霊能力者には残りのほとんどを持っていかれた。マスコミにも訴えたが、鼻息荒く報道する性的な側面がないと知ると彼らはすぐに関心を失った。
 われわれにわかったのは以下のことだ。おまえはバーにいた。いつもよりも飲みすぎたということはなかった。友だちには気分が悪いので歩いて帰ると言い、それがおまえの最後の姿になった。
 この間(かん)、やってもいない犯罪を自白する人間が何人も現れた。サディストたちはおまえの行方を知っていると言って集まってきた。証明できない話をでっちあげ、たどれない手がかりを吹聴した。だが少なくともしっぽをつかまれると、やつらは正直に打ち明けた。霊能力者たちは一生懸命捜していないといつもわたしを責めた。
 だからわたしは捜すことをやめられなかった。
 母さんがあきらめたわけは理解できる。少なくともあきらめたように見せかけなければならなかったわけは。母さんは生活を立て直さなければならなかった――母さん自身のためでなくとも、残された家族のために。末の妹はまだ家にいた。大人しくて人目を気にする性格だったが、よからぬことをけしかける友だちと出かけるようになっていた。たとえばバーにもぐりこんで音楽を聞いたり、朝まで家に帰らないというようなことだ。
 離婚届にサインをした日、唯一の望みはおまえの遺体を見つけることだけだと母さんは言った。それが彼女のよりどころとなっていた。いつの日か、ついにおまえを永遠の休息場所に横たえることだけが。
 わたしはきっと、シカゴかサンタフェかポートランドかどこかの芸術家の集まるコミューンで見つかるだろうと言った。おまえは昔から自由な精神の持ち主だったから。
 母さんはわたしがこう言っても驚かなかった。このころはまだ希望の振り子が行ったり来たりしていた時期で、母さんは悲しみとともにベッドに入る日もあれば、おまえが帰ってきたときに備えてシャツやセーターやジーンズを買いこんでくる日もあった。
 希望を失った日のことははっきりと覚えている。その日は動物病院で仕事をしていた。明らかにひどい虐待を受けたと見られる捨て犬が運びこまれた。元はイエローのラブラドールだが、毛皮は虐待のせいで灰色がかっていた。臀部(でんぶ)には有刺鉄線が巻きつけられていた。毛のない皮膚の部分には引っかきすぎたのか舐なめすぎたのか、赤くなったところがあった。
 しばらく一緒にいてやって、ここは安全だとわからせた。手の甲を舐めさせ、わたしの匂いに慣れさせた。ようやく落ち着いたのを見て、身体を調べはじめた。高齢の犬だったが、最近まで歯の手入れはきちんとされていた。手術の跡があり、以前かなりの手間と費用をかけて膝の治療を受けていたこともわかった。ひどい虐待を受けても以前受けた愛情の記憶が薄れることはなかったようだ。わたしが顔に手をやるたび、頭をわたしの手にこすりつけてきた。
 その悲痛な目を見ると、これまでのいきさつがありありと浮かびあがった。事実をたしかめるすべはないが、こういうことだったはずだ。この子は捨てられたのではない。迷子になったか、リードが外れてしまったのだろう。飼い主は買い物に行ったか、休暇に出かけたか、あるいはなにかのひょうしで――門がたまたま開けっぱなしだったか、フェンスを飛び越えたかして――この愛されていた犬は通りにさまよいでて、帰る方角がわからなくなってしまったのだ。
 そして心ない若者たちか、言葉では言い表せないモンスターか、あるいはその両方に見つかり、この大切にされていたペットは傷ついた動物に変わったのだ。
 父と同様わたしも動物の手当てに人生を捧ささげてきたが、人間が動物に対して行なうひどい仕打ちと、人間がほかの人間に対して行なうさらにひどい仕打ちとを結びつけたのはこのときが初めてだった。
 鎖で鞭打たれるとこうなるのだ、足で蹴られたり拳で殴られたりするとこんな傷ができるのだ。大切にされず、愛されず、家へも帰してもらえない世界に迷いこんだ人間はこうなるのだ。
 母さんは正しかった。
 おまえの身になにが起きたかを思い知らされて、わたしは打ちのめされた。

   1
 アトランタのダウンタウンにあるそのレストランはすいていた。隅のブースにビジネスマンひとりと、思わせぶりな態度のバーテンダーひとりがいるだけだった。ディナータイムの慌ただしい準備が始まっていて、厨房からは食器やカトラリーのカチャカチャいう音が聞こえてくる。シェフが怒鳴り声をあげ、ウェイターが笑いを押し殺している。バーカウンターの向こうにあるテレビからは暗いニュースが低い音で流れてくる。
 クレア・スコットはカウンターで二杯目のクラブソーダを飲みながら、絶え間なく耳に入ってくる雑音を遮断しようとした。ポールは十分遅れていた。これまで遅れたことは一度もない。ふだんなら十分早く着いている。クレアはそのことをいつもからかっていたが、今日はいますぐ来てもらいたかった。
「お代わりは?」
「お願いするわ」クレアは礼儀正しくバーテンダーにほほえみかけた。腰を下ろしてからずっと、彼はクレアの気を引こうとしていた。若くハンサムで、ほんとうなら喜ばしく思うべきなのだろうが、自分が歳としをとった気にさせられるだけだった――おばさんになったというのではなく、四十に近づくにつれ、二十代の人間にいらだつことが多くなったからだ。彼らと話すときはつい“わたしがあなたの歳だったころは”と言いかけてしまう。
「三杯目です」クラブソーダのお代わりを注つぎながら、バーテンダーはからかうような口調で言った。「飲みすぎですよ」
「そうかしら?」
 バーテンダーはウィンクした。「よければ家まで送っていきましょうか」
 クレアは笑ったが、それは相手の顔をよく見てとっとと大学に戻りなさい、と言うより楽だったからだ。再び携帯電話で時間をチェックする。もう十二分遅れている。つい大げさな想像が頭をよぎる。カージャックにあった、バスに轢ひかれた、墜落した飛行機の一部が降ってきた、異常者に誘拐された。
 ドアが開いたが、入ってきたのはグループ客でポールではなかった。近くのオフィスで働いている会社員だろう、みなシャツにパンツといったカジュアルな服装で、郊外や両親と暮らす実家に帰る前に一杯飲んでいこうという雰囲気だった。
「この事件、知ってますか?」バーテンダーがテレビのほうをうなずきながら言った。
「さあ、あんまり」クレアはそう答えたが、もちろんよく知っていた。テレビをつけると必ずと言っていいほどこの行方不明の十代の少女のことを報道しているのだ。十六歳。白人。中流階級。かなりの美少女。不器量な女が行方不明になっても世間はこれほど騒ぎ立てない。
「悲劇だ」バーテンダーは言った。「こんなにかわいいのに」
 クレアは再び携帯に目を落とした。もう十三分の遅刻。それも今日に限って。彼は建築家であって、脳外科医ではない。メールや電話にたった二秒が割けないほどの緊急事態が発生するはずがないのだ。
 結婚指輪をくるくるまわしはじめた。不安なときにしてしまう、ポールに指摘されるまで気づかなかった癖だ。ふたりはそのときクレアにとってなにか重要なことで口論していたのだが、それがなんのことだったか、いつのことだったかも思いだせなかった。先週? 先月? ポールと知りあって十八年、結婚生活もそれとほぼ同じくらいになる。ふたりのあいだには確信を持って言い争うことなどほとんど残っていなかった。
「もっと強い飲みものはいかがですか?」バーテンダーはウォッカのボトルを掲げた。意味するところは明らかだ。
 クレアはまたも愛想笑いを返した。この手のタイプならよく知っている。長身で黒髪、ハンサムできらめく目をし、口元ははちみつのようになめらかに動く。クレアが十二歳だったら算数のノートに彼の名前を書き散らしただろう。十六歳だったら彼の手をセーターのなかにもぐりこませただろう。二十歳だったらどこでも好きなところに手を入れさせただろう。そしていま、三十八歳のクレアはただ消えてほしかった。
「やめておくわ。家に閉じこもってるんじゃないかぎり飲まないほうがいいって、保護観察司に言われてるの」
 バーテンダーはジョークの意味がよくわからないというように曖昧な笑みを浮かべた。「悪い子だな。でもそういうの好きですよ」
「足首に監視装置をつけたわたしを見せてあげたかったわ」クレアはウィンクした。「わたし、オレンジの囚人服がよく似合うのよ」
 ドアが開いた。ポールだ。こちらに歩いてくる姿を見ながら、クレアはほっと胸をなでおろした。
「遅かったわね」
 ポールは妻の頬にキスをした。「すまない。言い訳はしないよ。電話すべきだった。それかメールを」
「そうね」
 ポールが注文した。「グレンフィディックのシングル、ストレートで」
 バーテンダーがこれまでとは打って変わったプロらしい動きでスコッチを注ぐのをクレアは見つめた。結婚指輪もやんわりした断りも、あからさまな拒絶すら意に介さなかったのに、頬にキスをする男が現れると話はちがうらしい。
「お待たせしました」彼はポールの前にグラスを置くと、カウンターの反対側へ向かった。
 クレアは声を落として言った。「彼、家まで送ろうかって言ってきたのよ」
 ポールは店に入って初めてまともにバーテンダーを見た。「鼻に一発お見舞いしてやろうか?」
「そうね」
「殴り返されたら病院に連れていってくれるかい?」
「ええ」
 ポールは笑みを浮かべた。「ところで、いましめを解かれた気分はどう?」
 クレアはごつごつした黒いアンクレットがあったところに痣あざかなにか残っているのではないかと思いながら裸足はだしの足首を見下ろした。人前でスカートをはくのは半年ぶりだ。そのあいだずっと、裁判所命令により監視装置をつけていたのだ。「自由って感じ」
 ポールはクレアのグラスのストローを手に取り、ナプキンと平行になるようにまっすぐに置いた。「でも携帯電話と車のGPSで常に居所を把握されている」
「電話を忘れたり車から離れたからって刑務所に送られたりしないわ」
 ポールは肩をすくめてそれを受け流した。いい切り返しだと思ったのだけど。
「夜間の外出禁止命令は?」
「それもなくなった。これから一年なんの問題も起こさなければ記録は残らず、なにごともなかったみたいになるのよ」
「魔法だな」
「というより、めちゃくちゃ高い弁護士のおかげね」
 ポールはにやりとした。「きみがほしがったカルティエのブレスレットよりは安いけどね」
「イヤリングとセットにしなければそんなことないわ」冗談めかす話題ではないが、そうしないとひどく深刻になってしまいそうになる。「でも変な感じ。もう装置がないのはわかってるのに、まだあるように思えるの」
「信号検出理論だ」ポールは再びストローをまっすぐにした。「きみの知覚システムは肌に触れていたモニターに影響を受けているんだ。よくあるのは携帯電話で、実際は震えていないのにバイブしたと感じるんだよ」
 これこそオタクと結婚した醍醐味だ。
 ポールはテレビに目をやった。「見つかると思うかい?」
 クレアは答えなかった。ポールの手にあるグラスを見下ろす。スコッチはどうも好きになれなかったが、飲むなと言われると週日の区別なく大酒を飲んでやりたくなる。
 この日の午後、クレアは裁判所に任命された精神科医と面会し、あれこれ指図されるのは大嫌いだと言った。「好きな人がいると思う?」赤ら顔の女医は当たり前じゃないのという顔で答えた。頬が赤くなるのを感じたが、自分がそのことに罪悪感を抱いていて、心理療法を受けることにしたのもそれが理由だと打ち明けるほどクレアはお人好ひとよしではなかった。この女に心を開かせてやったという満足感を与えるつもりはない。
 手錠をかけられた瞬間、クレアはそれをはっきり認識したのだった。
「ばかげてる」パトカーの後部座席に乗せられたとき、クレアはそうつぶやいた。
「いまのは記録に残しますから」女性警官はぶっきらぼうに告げた。
 全員女の警官だった。さまざまな体型の女たちが、たくましい腰に巻いた革ベルトにあらゆる種類の武器をぶらさげていた。ひとりでも男性がいればずっとましだったろうと思ったが、残念ながらそうはいかなかった。これがフェミニズムの行き着いた先の世界だ。べたべたしたパトカーの後部座席に押しこまれ、テニスウェアのスカートがまくれて腿(もも)まであらわになった。
 拘置所では結婚指輪、時計、テニスシューズのひもが、ぼさぼさの眉毛のあいだにほくろのある大柄な女によって取りあげられた。女警官はカメムシを連想させた。なぜほくろを取らないのか訊きたかったが、カマキリのように背が高くてひょろりとした別の女性警官に別の部屋に連れていかれたため、かなわなかった。
 指紋採取はテレビで見たのとはちがい、コンピュータで読みとれるようインクではなく汚いガラス板に指を押しつけるタイプのものだった。クレアの指紋はかなり薄いらしく、何度もやり直しをさせられた。
「銀行強盗をしなくてよかったわ」クレアはそう言ったのち、乾いた笑いで冗談だと伝えようとした。
「均等に力を入れて」カマキリ女はハエの羽を噛み切るように言った。
 逮捕写真は明らかに数センチずれている身長計のついた白い背景で撮られた。クレアは名前と囚人番号が書かれた札を持たなくていいのかと疑問を述べた。
「フォトショップ加工よ」カマキリ女はべつに初めて訊かれたわけじゃなしというように、退屈そうな声で答えた。
 写真を撮るのに笑ってと言われないのは、これが初めてだった。
 それからマガモのような鼻をした三人目の女性警官が現れて待機房に連れていかれた。驚いたことにテニスウェアを着ているのはクレアだけではなかった。
「なにをしでかしたの?」もうひとりのテニスウェアの女が尋ねた。どう見ても麻薬の影響下にあり、ちがう種類のボールで遊んでいたところを逮捕されたようだった。
「殺人よ」クレアは答えた。この件を深刻に捉えないと決めていたからだ。
「なあ」スコッチを飲み終えたポールがバーテンダーにお代わりの合図をしていた。「なにを考えてる?」
 クレアは長いため息をついた。「二杯目を頼んだのなら、あなたはわたしより大変な一日だったんだろうなって思ってたの」ポールはめったに飲まない。自制できなくなる状態が好きではないのだ。それはクレアも同じだが、拘置所送りになっていては世話はない。
 クレアは尋ねた。「なにも問題ない?」
「順調だよ」そう言って彼はクレアの背中をなでた。「精神科医はなんだって?」
 バーテンダーがカウンターの端に戻るのを目で追ってから、クレアは口を開いた。「わたしは感情を表に出さないんですって」
「きみのこととは思えないな」
「分析されるのが好きじゃないの」クレアは精神科医が大げさに肩をすくめて“好きな人がいると思う?”と言うさまを思い浮かべた。
「ぼくが今日なにを考えていたかわかるかい?」ポールはクレアの手を取った。手のひらがざらついているのは週末ずっとガレージで作業していたせいだ。「どれほどきみを愛しているかってことだよ」
「夫が妻に言うには変わったセリフね」
「でもほんとうなんだ」とクレアの手を唇に押しつける。「きみがいない人生なんて想像できない」
「もっと片づいていたんじゃない?」脱ぎ捨てた靴や、本来なら洗濯かごに入っているべきさまざまな衣類をバスルームのシンクの前から拾って歩くのはポールの役目だった。
「いまが大変なときなのはわかっている。特に――」とテレビのほうに頭を傾ける。画面には行方不明の少女の新しい写真が映しだされていた。
 クレアはテレビ画面に目をやった。ほんとうにきれいな子だ。鍛えられたほっそりした身体、ウェーブのかかった黒っぽい髪。
 ポールは続けた。「ただいつでもきみのそばにいると言いたかったんだ。なにがあろうと」
 クレアは喉が詰まるのを感じた。ときどきポールのことを、いて当たり前の存在だと思うことがある。だがそれが長い結婚生活ゆえの贅沢ぜいたくであり、自分も夫のことを愛しているのはわかっていた。彼が必要だった。ポールは自分をつなぎとめてくれる錨いかりのような存在だった。
「きみはぼくが愛したただひとりの女性だよ」
「エヴァ・ギルフォードが聞いたらショックを受けるでしょうね」クレアは学生時代の元彼女を引き合いに出した。
「茶化すなよ。ぼくは真剣なんだ」ポールはぐっと身を乗りだし、もう少しでふたりの額が触れあいそうになった。「きみはぼくの人生になくてはならない人だ、クレア・スコット。人生のすべてだよ」
「逮捕歴があっても?」
 ポールはキスをした。深いキス。ポールの唇はスコッチとペパーミントの味がして、指先で太腿の内側をなでられた瞬間、クレアの身体に悦よろこびが走った。
 空気を求めて唇を離す。「家に帰りましょう」
 ポールはひと口でスコッチを飲み干した。現金をカウンターに放り投げる。レストランを出たとき彼の手はクレアの背中に置かれたままだった。冷たい風がスカートの裾を翻し、ポールが腕をこすって暖めてくれた。すぐ近くに顔があり、首筋に息がかかる。「車はどこに停めた?」
「駐車ビルよ」
「ぼくのは路上だ」とキーをクレアに渡す。「取ってきてくれないか」
「一緒に行きましょう」
「こっちへ行こう」そう言ってクレアを裏道に引きこみ、塀に押しつけた。
 いったいどうしたのか尋ねようと口を開いたとき、唇をふさがれた。ポールの手がスカートのなかにもぐりこむ。クレアは息をのんだ。キスに陶然となったというより、裏道とはいえ真っ暗ではなく、人通りがないわけではなかったからだ。スーツ姿の男たちが顔をこちらに向け、歩きざまに見つめていく。こうやってインターネットに投稿されてしまうのだろう。
「ポール」クレアは彼の胸に手を置いた。居間で愛しあうのすらお行儀が悪いと考える品行方正な夫になにがあったのだろう。「人が見てるわ」
「じゃあこっちへ」ポールはクレアの手を取り、さらに奥の路地へと連れていった。
 クレアは転びそうになりながら煙草たばこの吸殻だらけの廃材置き場をついていった。T字の路地はレストランや店舗の通用口とつながっている。これ以上のシチュエーションはない。くわえ煙草のコックが手にiPhoneを持って、ドア口に立っているところが目に浮かんだ。たとえ見物人がいなくても、こんなことをすべきでない理由はいくつも思い浮かんだ。
 とはいえ、あれこれ指図されたい人なんていない。
 ポールはクレアの手を引いて角を曲がった。クレアはさっと見まわしてまわりにだれもいないのをたしかめたが、次の瞬間背中を塀に押しつけられた。唇が重ねられ、両手で尻をつかまれた。ポールがひどく興奮しているせいで、クレアもその気になってきた。目を閉じてなすがままに任せる。キスが深くなり、下着を引きおろそうとするポールに手を貸した。身体がぶるっと震えたのは、寒く、危険な行為だとわかっていたからだが、すでにまわりが気にならないほど準備ができていた。
「クレア……」ポールが耳元でささやいた。「やって、と言ってくれ」
「やって」
「もう一度」
「やって」
 ひと言もなく、ポールはクレアに反対を向かせた。頬が煉瓦れんが塀に擦りつけられる。ぐっと身体を押さえつけられ、とっさに腰で押し返した。それを興奮の表れと受けとったポールはうめき声をあげたが、クレアは息ができなかった。
「ポール――」
「動くな」
 言葉の意味はわかったが、それが夫の口から出たものではないことを理解するのに数秒かかった。
「こっちを向け」
 ポールが振り返ろうとした。
「おまえじゃない、この間抜け野郎」
 わたしだ。わたしのことを言っているのだ。だがクレアは動けなかった。脚が震え、立っているのがやっとだった。
「こっちを向けって言ってんだよ」
 ポールの手が優しくクレアの腕をつかんだ。ゆっくりと回転させられたひょうしに足がもつれた。
 ポールのすぐうしろに男が立っていた。黒いパーカーのファスナーをタトゥーのある太い首元まで閉めている。喉仏の上を這う不気味なガラガラヘビが、邪悪そうに牙をむきだしている。
「両手を上げろ」男がしゃべるのと同時に蛇の口も動いた。
「もめごとはごめんだ」ポールは両手を上げた。身体は完全に落ち着いている。クレアは夫を見上げた。彼は一度うなずき、そうとはとても思えないのに大丈夫だと伝えてきた。「財布はうしろのポケットに入っている」
 男は片手で財布を抜きとった。もう片方の手には銃が握られているのだろう。クレアにはそれが目に浮かんだ。黒光りする銃がポールの背中に突きつけられている姿が。
「ほら」ポールは結婚指輪と卒業記念リングと腕時計を外した。クレアが五年前プレゼントしたパテック・フィリップだ。裏にイニシャルが刻印されている。
「クレア」ポールの声はこわばっていた。「きみの財布も渡して」
 クレアは夫を見つめた。自分の頸動脈がどくどく脈打っているのがわかる。ポールは背中に銃を突きつけられている。いま自分たちは強盗にあっている。それがいま起きていることだ。これは現実だ。現在進行形の。クレアは手元に目を落とした。ショックと恐怖でのろのろとしか動けず、なにをすればいいのかわからなかった。手にはまだポールの車のキーが握られている。これをずっと持っていたのだ。キーを握りながらどうやってセックスするつもりだったのだろう?
「クレア」ポールが再び言った。「財布を渡して」
 クレアはバッグにキーをしまった。財布を取りだし、男に渡す。
 男はポケットにそれを突っこむと、再び手を差しだした。「携帯も」
 クレアはiPhoneを取りだした。連絡先がすべて入っている。ここ数年の旅行の写真も。セント・マーチン島。ロンドン。パリ。ミュンヘン。
「指輪もだ」男は通りに目をやった。クレアも同じことをする。だれもいない。脇道ですら空っぽだった。背中はまだ壁に押しつけられている。大通りに至る角まではほんの少しの距離だ。そこには人がいるはずだ。大勢の人が。
 男はクレアの考えを読んだ。「ばかなことを考えるな。指輪を外せ」
 クレアは結婚指輪を外した。べつに盗とられてもかまわない。保険がかかっている。結婚当初に買ったものでもない。ポールがようやく研修期間を終え、資格試験に合格したときにつくったのだ。
「イヤリングも」男が言った。「さっさとしろ、このばか女」
 クレアは耳たぶに手を伸ばした。今朝ダイヤのピアスをつけたかどうか覚えていなかったが、自分がジュエリー・ボックスの前に立っている姿が浮かんできた。
 これはこれまでの人生が脳裏を駆けめぐるというあれだろうか――走馬灯のように。
「早くしろ」男は空いているほうの手を振って促した。
 ピアスを外すのに手間どった。指先が震えてうまく動かせない。ティファニーで選んでいる自分の姿が見える。三十二歳の誕生日。高額商品を購入した客が特別に案内される部屋に通されたとき、ポールは“ぼくたちがこんな買い物してるなんて信じられない”という顔をしてみせた。
 クレアは男の手のひらにピアスを落とした。全身が震えだし、心臓はスネアドラムのように脈打っていた。
「これで全部だ」ポールは振り向いた。背中をクレアに押しつけて、両手は高く上げたまま。妻を守っているのだ。「もう渡すものはない」
 ポールの肩越しに男が見えた。持っていたのは銃ではなかった。ナイフだ――ギザギザの刃がついた長く鋭いナイフで、先端にはハンターが動物の内臓をえぐりだすときに使うような鉤(かぎ)が見える。
 ポールが言った。「もうなにもない。さっさと行け」
 男は動かなかった。三万六千ドルのピアスよりも価値あるものを見つけたというようにクレアを見つめている。唇がゆがんで舌なめずりしているように見えた。前歯に一本金歯があった。ガラガラヘビの金色の牙とよく合いそうだ。
 そのとき、クレアはこれがただの強盗ではないことに気づいた。
 ポールも同じだった。「金ならある」
「だろうな」男の拳がポールの胸に食いこみ、同時にクレアも胸に衝撃を覚えた。ポールの肩甲骨が鎖骨に当たったのだ。さらに彼の頭がクレアの顔にぶつかり、その勢いで後頭部が煉瓦の塀に打ちつけられた。
 一瞬目が見えなくなった。目の前に星が飛び、血の味がした。目をしばたたいて下を見ると、ポールが地面にしゃがみこんでいる。
「ポール――」手を伸ばした瞬間、頭に焼けつくような痛みが走った。男に髪をつかまれたのだ。そのまま引きずられ、クレアは足をもつれさせた。膝がアスファルトを擦る。男はかまわず歩きつづけた。ほとんど小走りと言っていいくらいだ。クレアは痛みをやわらげようと身体をふたつ折りにした。靴の片方が脱げ、どうにかうしろを振り返ると、ポールが心臓発作を起こしたように胸をつかんでいた。
「やめて」クレアはささやいた。なぜ叫ばないのだろうと思いながら。「やめて、やめて、やめて」
 男はそのまま歩きつづけた。ゼーゼーという自分の息遣いが聞こえる。肺に砂が混じっているみたいだ。男は脇道に向かっていく。さっきまで気づかなかった黒いバンが停めてあった。とっさに男の手首に爪を食いこませたものの、頭を乱暴に引っぱられて蹴つまずいただけだった。再び頭がぐいっと引っぱられる。痛みは耐えがたいほどだったが、恐怖に比べればなにほどでもなかった。叫びたかった。叫ばなければならなかった。だがこのあとどうなるか知っているせいで、喉が締めつけられていた。あのバンに乗せられてどこかに連れていかれる。ひと気のない場所に。二度と帰れない恐ろしい場所に。
「いや……」クレアは懇願した。「お願い……やめて……やめて……」
 男の手が放れたが、それはクレアが頼んだからではなかった。男がナイフを構えてうしろを振り向くと、ポールが足元にいた。ふたりを追ってきたのだ。咆哮(ほうこう)のような荒い息をしている。
 すべてはあっという間のできごとだった。あまりにも一瞬で、時間を巻き戻して夫の苦闘を詳細に述べることもできないほど。
 トレッドミルで勝負すればポールはこの男に勝つだろうし、男が鉛筆を削り終わる前に方程式を解いてしまっているだろう。
 だがいま、ポール・スコットは大学院では教わらなかったことで劣勢に立たされている。ナイフで戦う方法だ。
 聞こえたのはナイフが空(くう)を切るヒュッという音だけだった。クレアはもっとほかの音がするかと思っていた。鉤のついたナイフの先端がポールの肌を突き刺すときのぐさっという音。ギザギザの刃(やいば)があばらをゴリゴリと切断する音。刃が腱(けん)と軟骨を切り離すときの摩擦音。
 ポールが腹部を押さえた。突き刺さったナイフの柄が指のあいだから見えた。ポールは口を開け、滑稽なほど目を大きく見開いて背後の塀にもたれかかった。デザイナーズブランドの濃紺のスーツは肩のあたりがきつくなっていて、タックをほどかなければと思っていたのだが、いまとなっては手遅れだ。スーツは血で染まっていた。
 ポールは自分の手を見下ろした。刃はへそと心臓のほぼ中間に深々と突き刺さり、青いシャツが真っ赤に染まっている。ショック状態にあるようだ。ふたりともショック状態にあった。
 今夜は早めの夕食をとって、クレアが刑事司法制度を無事切り抜けたことを祝うことになっていた。じめじめしたうすら寒い路地で刺し殺されるのではなく。
 足音が聞こえた。蛇男がふたりの指輪や腕時計を入れたポケットをジャラジャラいわせながら逃げていった。
「助けて」クレアは言ったが、自分でようやく聞きとれるほどのか細い声しか出なかった。「た――助けて」再びつっかえながら言った。でもだれが助けてくれるのだろう? 助けを連れてくるのはいつもポールだった。すべての面倒を見てくれるのはポールだった。
 このときまでは。
 ポールは塀に寄りかかったままずるずると崩れ落ち、そのまま地べたに座りこんだ。
 クレアは傍らにひざまずいて両手をさしのべたものの、どこに触れていいかわからなかった。十八年間、彼を愛してきた。十八年間、ベッドをともにしてきた。額に手を当てて熱があるか調べ、具合が悪いときには手で顔をぬぐい、その唇や頬やまぶたにキスをしてきた。一度怒りのあまり平手打ちをしたこともあったが、いまはどこに触れていいかわからなかった。
「クレア」
 ポールの声がした。もちろん夫の声だ。クレアは身を乗りだし、両手両脚で彼を包みこんで胸元に引き寄せた。唇をこめかみに押しつける。身体から熱が奪われていくのが感じられた。「ポール、お願い。大丈夫だと言って。死なないと言って」
「ぼくは大丈夫だ」ポールは言った。夫の言葉を信じそうになったが、それも一瞬のことだった。脚が震えはじめて激しい痙攣(けいれん)に変わり、あっという間に全身に広がった。歯がカチカチと音をたて、まぶたがピクピク動いた。
 ポールは言った。「愛してる」
「お願い」クレアはポールの首筋に顔をうずめてささやいた。アフターシェーブローションの匂いがした。今朝剃そり残したひげがちくちくする。どこに触れても彼の肌はとても、とても冷たかった。「わたしをひとりにしないで、ポール。お願い」
「しないよ」ポールは約束した。
 でも次の瞬間、彼は約束を破った。


 2
 リディア・デルガードは体育館に大勢いる十代のチアリーダーたちを眺め、娘がその一員でないことに心のなかで短く感謝の祈りを捧げた。チアリーダーたちに文句があるのではない。リディアは四十一歳だ。チアリーダーを憎む段階はとっくに過ぎている。いま憎んでいるのはその母親たちだ。
「リディア・デルガード!」ミンディ・パーカーはいつも人をフルネームで呼ぶ。勝ち誇った陽気な声には含みがあった。みんなのフルネームを覚えているなんて頭いいでしょ?
「ミンディ・パーカー」リディアのトーンは数オクターブ低かった。どうしようもない。昔から天邪鬼(あまのじゃく)なのだ。
「今日はシーズン最初の試合よ! 今年はあの子たちにチャンスがあると思うわ」
「もちろん」リディアはうなずいたが、完敗するだろうことはみんなわかっていた。
「それはそうと」ミンディは左脚を前に出し、両腕を頭上に伸ばしてから前屈をした。「ディーのためにあなたの承諾書がいるの」
 リディアはなんの承諾書かと尋ねようとして思いとどまった。「明日渡すわ」
「最高!」ミンディは過剰なほどたっぷりと息を吐いてストレッチを終わらせた。すぼめた唇と目立つ受け口を見て、リディアはいらついたフレンチ・ブルドッグを連想した。「ディーに疎外感を味わってほしくないの。わたしたちは奨学生たちをとても誇りに思っているのよ」
「ありがとう、ミンディ」リディアはこわばった笑みを浮かべた。「ウェスタリー・アカデミーに入るのにただお金があるだけじゃなくて、成績がよくなくちゃいけないのは悲しいわ」
 ミンディも引きつった笑顔を返した。「そうね、じゃあ、そういうことで。承諾書は明日の朝お願いね」そう言ってリディアの肩をぎゅっとつかんでから、ほかの母親マザーたちがいる観覧席のほうへ跳ねるように階段をのぼっていった。リディアはマザーファッカーという言葉を使いたくなるのを懸命にこらえた。
 バスケットボールのコートを見わたして娘を捜す。一瞬パニックに陥りそうになったが、すぐに隅のほうに立っているディーを見つけた。親友のベラと話しながら、ボールをバウンドさせてパスをしている。
 あの少女がほんとうに自分の娘だろうか? 二秒前、この子のおむつを替えていたはずなのに、一瞬よそ見をして振り返ってみたら、ディーは十七歳になっていた。あと十カ月もしないうちに大学に行ってしまう。恐ろしいことに、すでに荷造りを始めている。クロゼットにあるスーツケースはパンパンでファスナーが閉まりきらないほどだ。
 リディアはさっと涙をぬぐった。いい歳をした女がスーツケースごときで泣くなんてふつうじゃない。その代わりにディーから聞いていない承諾書のことを考えた。きっとチームで特別なディナーに行くのだろう。うちにお金がないと思って言いだせないでいるのだ。ディーはわが家が貧しいわけではないというのをわかっていなかった。たしかにトリマーのビジネスが軌道に乗るまでは大変だったが、いまはちゃんとした中流階級の暮らしをしている。まあ人はたいていそう言うものだけど。
 ただわが家はウェスタリー的に裕福ではないだけだ。ウェスタリー・アカデミーの親たちは、子どもを私立学校に通わせるのに必要な年間三万ドルを楽に支払える。クリスマスにはタホでスキーを楽しんだり、プライベートジェットをチャーターしてカリブ諸国に行ったりする。リディアは娘に同じことはしてやれないが、高級レストランでくそいまいましいステーキを食べさせることはできる。
 もちろんもっと穏当な言い方でこれを伝えるつもりだが。
 バッグに手を入れてポテトチップスの袋を取りだした。向精神薬(ザナックス)を舌の上で溶かすのと同じように、塩と脂がたちまち慰めをもたらしてくれる。今朝スウェットパンツをはいたとき、ジムに行こうと自分に言い聞かせた。実際ジムの近くまで行ったのだが、それは駐車場にスターバックスがあるからだった。感謝祭はもうすぐそこで、ひどく寒い日だった。久しぶりの休日をパンプキン・キャラメル・スパイス・ラテで始めてなにが悪い? それにカフェインが必要だ。ディーの試合の前にすませておく雑事が山のようにある。食料品店とペットフードショップ、スーパーマーケットの〈ターゲット〉と薬局で買い物。銀行に寄ったらそこでいったん荷物を置きに家に帰り、十二時までに美容室に入らなければならない。もはや髪をカットするだけではなく、ブロンドの髪に交じる白髪を染めてもらう必要があるのだ。
 リディアは指先で上唇に触れた。ポテトチップスの塩が肌にしみる。
「最高」今日口まわりの産毛をワックス脱毛したことを忘れていた。担当の女の子は新しい収斂(しゅうれん)剤を使うと言っていたが、それがひどくかぶれて一、二本の抜き残しではなく、立派な赤いカイゼルひげが出現していた。
 ミンディ・パーカーがほかのマザーたちに報告するのが目に見えるようだった。「リディア・デルガードったら! ひげの形に赤くなってるの!」
 リディアはふたたびポテトチップスを口いっぱいにほおばり、シャツに食べかすがこぼれるのもかまわずバリバリ噛み砕いた。カロリーの高い食べものをがつがつ食べるのをマザーたちに見られるのも気にしなかった。がんばっていた時期もある。四十になる手前のころだ。
 ジュースダイエット。ジュース断食。ノー・ジュースダイエット。フルーツダイエット。卵ダイエット。カーブス。ブートキャンプ。五分間有酸素運動。三分間有酸素運動。サウスビーチダイエット。アトキンスダイエット。パレオダイエット。クロゼットにはeBayで買って長続きしなかったさまざまな品々が詰めこまれている。ズンバ用シューズ、クロストレーニング用スニーカー、ハイキングブーツ、ベリーダンス用小型シンバル、顧客のひとりにぜひにと勧められたものの、結局参加する気になれなかったポールダンス教室用のTバック。
 標準より体重があるのは自覚していたが、ほんとうに太っていると言えるだろうか? ウェスタリー的に言えば太ってるだけじゃない? ひとつたしかなのは痩せてはいないということ。十代後半から二十代前半にかけてのほんの一時期を除いて、リディアはずっと体重と格闘していた。
 これがマザーたちを憎むうしろ暗い秘密だった。彼女たちが許せないのは自分が彼女たちのようになれないからだ。リディアはポテトチップスが好きだった。パンが大好きだった。おいしいカップケーキひとつのために生きていると言ってもいい――いや、三つかも。トレーナーについてトレーニングをしたり、毎日ピラティスのクラスに出る時間はない。リディアはシングルマザーだ。切り盛りしなければならないビジネスがあり、ときどき機嫌をとらなければならない恋人がいる。それだけじゃない。動物相手に働いているのだ。小汚いダックスフントの肛門(こうもん)まわりの毛を吸引した直後もきれいでいるのは難しい。
 ポテトチップスが空になり、袋の底に指が届いた。惨めな気分になった。本当にポテトチップスが食べたかったわけじゃない。ひと口食べたあとは味もわからなくなっていた。
 うしろでマザーたちがどっと歓声をあげた。女の子が床で連続宙返りをやっている。スムーズな流れで完璧な動きだった。リディアも思わず目を奪われたが、それも彼女が両手を上げて着地を決めるまでのことだった。チアリーダーではない。チアリーダーの母親だった。
 チアリーダーのマザー。
「ペネロープ・ウォード!」ミンディ・パーカーが大声で言った。「あなた最高!」
 リディアはうめき声をあげてほかに食べるものはないかバッグを探った。ペネロープがまっすぐこちらに近づいてくる。シャツについた食べかすを払って、汚い言葉はなるべく口走るまいと身構えた。
 幸運なことに、ペネロープはヘンリー・コーチに呼びとめられた。
 ほうっとため息をもらした。バッグから携帯電話を取りだす。学校から十六通のメールが入っていたが、大半は最近初等部で大流行した頭ジラミに関することだ。
 ざっと目を通しているあいだに新しいメッセージが届いた。校長からの緊急要請で、シラミの発生源を突きとめても意味はないので、どの子が元だったのか尋ねないよう親たちに頼んでいた。
 すべて削除した。予約依頼のお客だけに返信する。迷惑メールをチェックして、ディーの承諾書が紛れこんでいないか探したが、見つからなかった。事務仕事を手伝ってくれている女の子にメールして、タイムカードを提出するよう再度連絡する。そうしなければ給料がもらえないのだから忘れることはなさそうなのに、きっと過保護な母親に育てられて、スマイルマーク付きのポストイットが貼ってなければ靴ひもを結ぶのも忘れてしまうのだろう。“靴ひもを結ぶこと。愛するママより。PSあなたは自慢の娘よ!”。
 もっとも、それは意地悪すぎるかもしれない。リディアだってポストイットを使った子育てに無縁ではないのだから。ただ言わせてもらえば、娘が自分の面倒を見られるようになるために世話を焼いているのだ。“自分でゴミを出すこと! でないと殺すわよ。愛するママより”。とはいえこうして自立することを教えすぎると、別の問題を生みだすことになるだけだと周囲から脅されてもいた。大学入学の十カ月前に娘のクロゼットでパンパンのスーツケースを見つけてしまうというような。
 バッグに携帯をしまった。ディーがレベッカ・シスルウェイトにパスするのを見つめる。色白のイギリス人で、顔をリングの前に持ってこないとゴールさせられないような子だ。娘の優しさに思わず笑みがこぼれた。ディーの歳のころ、リディアはいかれたガールズバンドのボーカルを務めていてハイスクールを中退寸前だった。一方、ディーはディベートチームに入っている。YMCAでボランティア活動もしている。気立てがよく、親切で、とても頭がいい。緻密な論理構成力には目を見張るものがある。けんかのときはとんでもなくいらいらさせられるとまでは言わないけれど。小さなころからディーは耳にしたものをそのまま口真似(くちまね)する非凡な能力があった――特にリディアが発した言葉を。そのせいでリディアが出生証明書に記入した美しい名前ではなく、ディーと呼ばれているのだ。
「ディーダス・クライスト!」赤ちゃん用の高い椅子にすわったかわいらしい幼子は、手足をばたつかせながらよく叫んでいた。「ディーダス・クライスト! ディーダス・クライスト!」
 いまになって考えてみると、それをおもしろがっていたのはまちがいだったとわかる。
「リディア?」ペネロープ・ウォードが待てというように指を一本上げた。リディアはとっさにドアのほうをチェックした。マザーたちがうしろでクスクス忍び笑いをもらしているのが聞こえ、罠(わな)にはまったと観念した。
 ペネロープはウェスタリー・アカデミーのセレブのような存在だ。夫はウェスタリーでは一般的な職業である弁護士だが、州上院議員でもあり、最近下院選への出馬を明らかにしていた。ウェスタリーの父兄のなかでブランチ・ウォードはおそらくいちばんのハンサムだと言えるけれども、それは彼が六十歳以下で足腰がしっかりしていることによるところが大きい。
 ペネロープは政治家の妻として完璧な女だ。どの宣伝用ビデオでも、献身的なボーダーコリーよろしく大きな目をぎょろつかせて夫を見上げている。魅力的ではあるが、人目を引くほどではない。痩せてはいるが、ガリガリではない。いかにもアングロサクソン系の五人の子どもを産むために一流法律事務所でのパートナーの地位を捨て去り、ウェスタリーのPTO――ウェスタリーならではのPTAのもったいぶった言い方だ――会長を務め、会を厳格に仕切っている。彼女の書くメモはすべてが箇条書きで、簡潔でわかりやすいため、レベルの低いマザーたちもまちがいなく指示に従うことができる。しゃべるときも箇条書きの傾向があった。「いいかしら、みなさん」と手を叩(たた)きながら言う――マザーたちは手を叩くのが大好きだ。「軽食! パーティでつけるリボン! 風船! テーブルセッティング! カトラリー!」
「リディア、そこにいたのね」ペネロープは膝と肘を交互に押しだしながら観覧席を駆けあがり、リディアの隣に腰を下ろした。「おいしそう!」と空になったポテトチップスの袋を指さした。「食べたかったわ!」
「食べさせたかったわ!」
「ああ、リディア、あなたのそのユーモアのセンス大好き」ペネロープは身体をリディアのほうに向けて、獲物を見つけたペルシャ猫のように目を合わせようとした。「ほんとうに尊敬するわ。あなたは自分でビジネスをやっていて、家事をこなして、すばらしいお嬢さんを育てている」と片手を胸に当てた。「あなたはわたしのヒーローよ」
 リディアは自然と奥歯を噛みしめた。
「ディーはほんとうによくできた娘さんだわ」そこでぐっと声を落とす。「あの行方不明の子と同じミドルスクールに通ってたんでしょ?」
「よく知らないの」リディアは嘘をついた。アナ・キルパトリックはディーの一学年下だ。同じ体育の授業をとっていたが、交友関係の輪が交わることはなかった。
「ひどい悲劇よね」とペネロープ。
「きっと見つかるわ。まだ一週間だし」
「でも一週間あったらなにが起きると思う?」ペネロープはぶるっと震えてみせた。「考えることさえ耐えられない」
「じゃあ考えないほうがいいんじゃない」
「それはいいアドバイスね」ほっとしたようにも見下しているようにも聞こえた。「ねえ、リックはどこ? わたしたちにはリックが必要だわ。彼に男性ホルモンを振りまいてもらわなくちゃ」
「駐車場にいたけど」リックがどこにいるかリディアは知らなかった。今朝ふたりはひどいけんかをした。彼はもう二度と会いたくないと思っているだろう。
 いや、それはちがう。リックはディーのためにやってくるはずだ。きっと反対側の席にすわるだろうが。
「リバウンド! リバウンドよ!」ペネロープが叫んだが、選手たちはまだウォーミングアップをしている最中だった。「どうして気づかなかったのかしら、ディーってあなたにそっくりね」
 リディアはこわばった笑みを浮かべた。似ていると言われるのはこれが初めてではない。ディーはリディアの色白の肌と青紫の瞳を受け継いでいた。顔の形も同じ。笑ったときの口元も。ふたりとも生まれつきのブロンドだが、ここにいるブロンドの半分はそうではない。ディーのメリハリのある身体つきは、のちにスウェットパンツ姿でポテトチップスばかり食べる生活を送るようになるとどうなるかわからない可能性を示唆していた。ディーの年齢のころ、リディアも同じくらい美しく同じくらい痩せていた。不幸なことに、それを維持するには山のようなコカインが必要だったけれど。
「そうだ」ペネロープは自分の腿をぴしゃりと叩いて、リディアに向き直った。「協力してもらいたいことがあって」
「な、なにかしら」リディアはおののいて言った。これがペネロープの人を巻きこむやり方だ。あれをしろ、これをしろとは言わない。協力が必要なのと言うのだ。
「来月の国際フェスティバルのことなんだけど」
「国際フェスティバル?」リディアは訊き返した。ドルチェ・アンド・ガッバーナを着こんだノースアトランタの白人男女が集まって、子どもたちのナニーにつくらせたポーランド料理のピエロギやスウェーデン風ミートボールを試食する、一週間にわたる資金集めのイベントのことなど聞いたこともないというように。
「関連のメールを全部再送するわね」とペネロープ。「とにかく、あなたにスペイン料理をつくってもらえないかと思って。“アロス・ネグロ”とか、“トルティージャ”とか、“クチフリトス”とか」ペネロープは料理名を完璧なスペイン語のアクセントで発音した。きっとプール係の男の子から教わったのだろう。「去年夫と“カタローニャ”に旅行したとき“エスカリヴァーダ”を食べたの。すっごくおいしかったわ」
 リディアは四年間、このセリフを口にするのを待っていた。「わたしはスペイン系じゃないの」
「そうなの?」ペネロープは少しもひるまなかった。「じゃあ“タコス”は?“ブリトー”でもいいわ。“アロス・コン・ポーヨ”や“バルバコア”は?」
「“メキシコ(メヒコ)”系でもないわ」
「あら、リックがご主人じゃないのはわかってるけど、あなたは名字がデルガードだからディーのお父さんは――」
「ペネロープ、ディーがヒスパニックに見える?」
 彼女の耳をつんざくような甲高い笑い声はガラスをも粉々にできそうだった。「それってどういう意味?“ヒスパニックに見える”って。あなたってほんとうにおもしろいわね、リディア」
 リディアも笑ったが、まったく別の理由からだった。
「やれやれ」ペネロープは見えない涙を目からぬぐった。「でも教えて、どんなストーリーなの?」
「ストーリー?」
「やだ、とぼけないで! ディーのお父さんのことはあなた絶対しゃべらないじゃない。それにあなた自身のことも。わたしたちはほとんどあなたたちのことを知らないのよ」そう言って、ぐっと身を寄せてくる。「話しちゃいなさいよ。だれにも言わないわ」
 リディアは頭のなかで素早く損得勘定をした。ディーの遺伝的背景がはっきりしないせいで得をするのは、マザーたちが人種的偏見に関わることを口にするたびにすくみあがらせてやれること、損をするのはPTOの資金集めイベントに参加しなければならなくなることだ。
 難しい選択だ。彼女たちの人種的偏見は伝説的だから。
「言っちゃいなさいよ」ペネロープは弱みを察してせっついてきた。
「実はね」リディアは深く息を吸って、自分の人生の物語をでっちあげようとした。嘘を混ぜ、事実を引っこめ、脚色を加え、それを全部シェイクする。
「わたしはジョージア州アセンズの出身よ。ディーの父親ロイドはサウスダコタの出身」というかサウスミシシッピだけど、ダコタのほうがまだましだ。「デルガードは彼の継父の名前なの」自分の不利になる証言を強要されないというだけの理由で彼のお母さんと結婚した男だけど。「そのお父さんが亡くなってね」刑務所で。「ロイドはそれをメキシコの祖父母のところに伝えに向かう途中で」ほんとうは二十キロのコカインを受けとるために。「トラックに車をぶつけられたの」休憩所でコカイン五百グラムを吸っている最中に死んでいたのが見つかったんだけどね。「あっという間だったわ」ゲロに息を詰まらせて死んだのよ。「ディーは顔も見たことがないの」わたしが娘にしてあげた最高の贈り物よ。
「リディア」ペネロープは口元に手を当てた。「知らなかったわ」
 どのくらいでこの話が広まるだろうとリディアは考えた。
「リディア・デルガード! 悲劇の未亡人! ロイドのお母さまはどうなったの?」
「がんよ」ヒモの男に頭を撃ち抜かれたの。「父方の親戚はだれも残っていないわ」刑務所に入っていない人間はね。
「かわいそうに」今度は胸に手を当てる。「ディーはなにも言ってなかったわ」
「あの子も全部知ってる」悪夢にうなされそうな部分以外は。
 ペネロープはバスケットボールのコートに目を向けた。「あなたがこれほど過保護になるのも無理ないわね。ご主人が残してくれたのはディーだけだもの」
「そうね」ヘルペスを勘定に入れなければ。「彼が死んだときディーはまだお腹のなかにいたの」体内でドラッグが見つかったら取りあげられてしまうとわかっていたから恐ろしい解毒療法をやったわ。「あの子がいてほんとうによかった」ディーがわたしを救ってくれたのだ。
「ああ、リディア」ペネロープに手をつかまれ、すべては無駄に終わったとリディアはがっくりした。ペネロープは心を動かされ――少なくとも興味を覚えたようだったが、彼女は任務をもってここにやってきたのであって、その任務はだれかに引き渡すことになっているのだ。「でも、ほら、やっぱりそれはディーの受け継いだものの一部でしょう? だって、ステップファミリーも家族にはちがいないもの。この学校でも三十一人の子が養子だけれど、それでも彼らのルーツは変わらないわ!」
 リディアはこの言葉を理解するのに一瞬を要した。「三十一? サーティ・ワンの三十一?」
「わかってる」ペネロープはリディアのショックを額面どおりに受けとった。「ハリス家の双子が幼稚園に入ったばかりなの。あの子たちが発生源よ」そこで声をひそめた。「シラミの発生源、噂を信じるならね」
 リディアは口を開いたが、すぐに閉じた。
「じゃあそういうことで」ペネロープは満足げに立ちあがった。「まずわたしのレシピを試してみて。ディーが特殊技能のプロジェクトに取り組むのは嬉しいでしょ? あなたはラッキーよ。キッチンで母と娘が一緒に料理するなんて。とっても楽しそう!」
 リディアは口をつぐんでいた。キッチンでディーと一緒にすることといえば、どこまで使えばマヨネーズの瓶を捨てるか言い争うことくらいだった。
「協力ありがとう!」ペネロープはオリンピック選手さながら、元気いっぱいに両腕を振って観覧席を駆けあがっていった。
 ロイド・デルガードの悲劇的な死について、ペネロープがほかのマザーたちに触れまわるまでどれほど時間があるだろう。父はいつも噂話を聞くことの代償は自分について噂話をされることだと言っていた。まだ生きていたらマザーたちの話ができたのに。きっとちびるほど笑ってくれただろう。
 ヘンリー・コーチがホイッスルを吹き、そろそろウォーミングアップを終えるよう合図した。リディアの頭のなかで“特殊技能のプロジェクト”という言葉がこだましていた。つまりこれがマザーたちの考える特殊技能なのだ。
 リディアはパンクしたタイヤの交換方法を学ぶために基本的な車の整備法を教えるクラスに娘を参加させてもかわいそうだと思わない。夏休み、バスケットボールのキャンプをやめて護身術のコースを受けさせたことも後悔していない。怖いと思ったときに悲鳴をあげる練習をするよう言いつづけたことも。ディーには恐怖を感じたとき黙りこんでしまう癖があり、それは危害を加えようとしている相手を前にしたときいちばんしてはいけないことだ。
 いまアナ・キルパトリックの母親は、パンクしたタイヤの交換方法を教えておけばよかったと思っているはずだ。アナの車はショッピングモールの駐車場で発見されたが、前タイヤに釘(くぎ)が刺さっていた。その釘を刺した人間と彼女をさらった人間とが同一人物だと考えるのは大きな飛躍ではない。
 ヘンリー・コーチが短く二度ホイッスルを吹いてチームを移動させた。ウェスタリー女子チームのメンバーが集まって半円陣を組む。マザーたちは足を踏みならして、負けることがわかっているゲームをどうにか盛りあげようとしている。対戦相手のチームはウォーミングアップすらしていなかった。いちばん背の低い選手でも百八十センチあり、ディナー皿と同じくらい大きな手をしている。
 体育館のドアが開いた。リックが観覧席を見まわし、リディアに気づいた。次いで反対側のがらがらの観覧席のほうを見る。
 彼が考えているあいだリディアは息を止めていた。こちらに向かってくるのを見て、息を吐きだす。リックはゆっくりと階段をのぼってくる。生活のために働いている人間には観覧席を駆けあがる元気はないわけだ。
 彼はうめき声をあげながらリディアの隣に腰を下ろした。
 リディアは言った。「お疲れさま」
 リックは空のポテトチップスの袋を拾いあげ、頭を反らせて残ったかけらを口のなかに入れようとした。大半はシャツにこぼれ、襟元に入りこんだ。
 リディアは笑い声をあげた。笑っている人間を憎むことは難しいものだ。
 リックが用心深い顔つきで見返してくる。リディアの策略をよく知っているのだ。
 リック・バトラーはウェスタリーの父親たちとはまったく異なる人種だった。まず彼は自分の手を使って働いている。高齢の客のためにいまだに給油サービスを行なっているガソリンスタンドの整備士だ。リックの腕や胸の筋肉はタイヤを持ちあげることで培われたものであり、うなじに垂らしたポニーテールは、それをひどく嫌ったふたりの女性の意見を聞かなかった結果だ。
 肉体労働者(レッドネック)にもヒッピーにも見えるが、それはリックのそのときの気分次第だった。そして、自分がそのどちらの彼でも愛せるのは、リディア・デルガードの人生における新鮮な驚きだった。
 リックが空の袋を手渡してきた。ひげにかけらが散らばっている。「なかなかいい口ひげじゃないか」
 リディアはひりひりする上唇に指先で触れた。「まだけんかの途中?」
「まだ不機嫌なのか?」
「本能に従えばそうね」リディアは言った。「でもいがみあっているのはいや。人生がめちゃくちゃになった気がする」
 ブザーが鳴った。試合が始まり、ふたりは身を硬くして、屈辱の時間が早く終わることを祈った。ところが信じられないことに、ウェスタリーが機先を制した。さらに信じられないことに、ディーがドリブルしてコートを走っている。
 リックが叫んだ。「行け、デルガード!」
 ディーのまわりには三人の巨大な少女たちが立ちはだかっていた。パスをする相手がいない。ディーはやみくもにシュートを打ったが、バックボードに当たって反対側のがらがらの観覧席に転がっていった。
 リックの小指がリディアの小指をなでた。
「どうやってあんなすばらしい子に育てたんだ?」
「シリアル食品(ウィーティー)のおかげよ」リディアはようやくそう答えた。リックが娘をどれほど愛しているか目の当たりにするたびに、胸がいっぱいになる。そのことだけでポニーテールを許すことができた。「このところツンケンしててごめんなさい」すぐに言い直す。「というか、この十年」
「その前からだろ」
「昔はもっと楽しい女だったのよ」
 リックは眉をつりあげた。ふたりは十三年前、薬物依存者の会で出会った。どちらも楽しい人間とはとても言えなかった。
「もっと痩せてた」
「たしかにそれは重要ポイントだ」リックは試合から目をそらさずに言った。「いったいどうしたんだ、リディア? 最近はおれがなにか言うたびに、火傷(やけど)した犬みたいにわめくじゃないか」
「一緒に住まないのが不満なの?」
「またそのことでけんかするのか?」
 もう少しでそうなるところだった。“でも隣同士に住んでいるのに、どうして一緒に住まなくちゃいけないの?”というセリフをリディアはぎりぎりのところで押しとどめた。
 その努力にリックも気がついた。「ほんとうはぶちまけたいのに、口を閉じていられるのがわかって嬉しいよ」ディーがスリーポイントシュートを打つと、リックは口笛を吹いた。ボールは外れたが、ディーがちらりとこちらを見たとき彼はまだ両方の親指を立てていた。
 リディアは、たとえ一緒に住むことになってもディーはあなたに認めてもらおうなんてこれっぽっちも思わないわよと言いたくなったが、次のけんかのときのためにとっておくことにした。
 相手チームがボールを取るとリックはため息をついた。「うわ、始まったぞ」
 ディナー皿がディーをブロックしている。腕を上げるという礼儀すら持ちあわせていないようだ。
 リックは椅子の背にもたれかかり、前の座席に足を乗せた。くたびれた茶色の革ジャンには油じみが浮き、ジーンズにも点々としみがある。ほんの少し排気ガスの臭いがする。優しい目をしていて、ディーのことをかわいがってくれる。動物好き。リスでさえも。リハビリ施設ではまったダニエル・スティールの小説を全部読んでいる。リディアの服のほとんどが犬の毛にまみれていることも、性生活での彼女の唯一の不満がブルカを着てセックスできないということも、彼は気にしなかった。
 リディアは尋ねた。「わたしはどうすればいい?」
「そのいかれた頭のなかがどうなってるか教えてくれ」
「教えてもいいけどあなたを殺さなくちゃいけなくなる」
 リックは一瞬考えをめぐらせた。「わかった。でも顔だけは勘弁してくれ」
 リディアはスコアボードに目を向けた。十対〇。リディアは瞬(まばた)きした。十二対〇。「わたしはただ……」言わなくてはいけないことをどう言っていいかわからなかった。「昔のことがよみがえってきただけなの」
「カントリーソングみたいだな」とリディアの目を見る。「アナ・キルパトリック」
 リディアは唇を噛んだ。それは質問ではなかった。リックはリディアがアナ・キルパトリックの失踪に関する記事をすべて切り抜くのを見ていた。少女の両親がテレビに映るたびにリディアの目に涙があふれるのを。
「警察は新しい手がかりをつかんだらしい」
「あの人たちにできるのは遺体が見つかるのを祈ることだけ」
「まだ生きているかもしれない」
「楽観主義は心を切り裂くガラスの破片よ」
「それもカントリーソングか?」
「父の言葉」
 リックは笑顔を見せた。リディアは彼の目のまわりのしわが好きだった。「リディア、ニュースは見ないほうがいいと言ったが、知らせておくことがある」
 彼はもう笑っていなかった。リディアは心臓が口から飛びだしそうになった。
「死んだの?」喉を押さえて言った。「アナが見つかったの?」
「いや、だったらすぐに教えていたよ。わかってるだろ」
 それはわかっていたが、心臓はまだバクバクしている。
「今朝、警察の記録簿で見たんだ」リックは言いにくそうだったが、それでも言葉を続けた。「三日前のことらしい。建築家のポール・スコット、妻はクレア・スコット。ふたりはダウンタウンにいた。強盗にあい、ポールはナイフで刺された。病院に運ばれる前に死亡した。葬儀は明日だ」
 マザーたちがまた拍手と歓声をあげた。ディーが再びボールを奪ったようだ。リディアの目の前で、娘がコートを走っていく。ディナー皿にボールを奪いとられたが、ディーはあきらめない。ディナー皿を追う。ディーは怖いもの知らずだ。人生のあらゆる場面で怖いものを知らなかった。もちろんそうだ。これまで一度も押さえつけられたことがない。傷つけられたことがない。だれかを失った経験もしていない。だれかを奪われる悲しみをまだ知らないのだ。
 リックが尋ねた。「なにか感想は?」
 言いたいことは山ほどあったが、リディアはその部分を彼に見せたくなかった。コカインで無理やり忘れてきた怒りや残酷な部分を。ドラッグをやめたあとは食べもので飲み下してきた部分を。
「リディ?」
 リディアは首を振った。涙が頬を伝う。「せいぜい苦しんだことを願うだけ」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?