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【試し読み】『ブラック&ホワイト』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)

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 水曜日
 ジョージア州メイコン

 レナ・アダムズ刑事は、Tシャツを脱ぎながら顔をしかめた。ポケットから警官バッジと懐中電灯、グロックの予備のクリップを出し、すべてチェストに置いた。携帯電話に表示された時刻は午前零時近い。レナはいま、十八時間前に出たベッドに倒れこんで眠ることしか考えていなかった。このところ、ろくにベッドで寝ていない。四日間、目が覚めている時間はほぼ会議室のテーブルの前に座り、前日もそのまた前日も訊(き)かれた同じ質問に答えていた――自分の行為の正当性を内部調査官に訴えるために、お決まりのたわごとを並べて。
「現場の家屋へ手引きしたのはだれ?」
「どんな情報を根拠にした?」
「そこでなにが見つかると考えていた?」
 メイコン警察署の内部調査官は、いかにもお役人らしい、覇気のない陰気な顔をしていた。彼女は毎日、黒いスカートに白いブラウスという、警察の内部調査官というよりはチェーンレストランの〈オリーヴ・ガーデン〉の接客係に似つかわしい格好で現れた。ノートを取りながら、しきりにうなずき、それ以上に眉をひそめた。レナが少しでも返事に詰まると、レコーダーに目をやり、沈黙がしっかり記録されているのを確認した。
 内部調査官が同じ質問を繰り返すのはレナをいらだたせるためだと、レナ自身も承知していた。初日は感情が麻痺(まひ)していたので、とにかく早く解放されたくて、ばか正直に答えた。二日目から三日目にかけて、時間の経過とともにどんどんいらだちが募っていき、答えるのがいやになった。そして今日、ついにレナは声を荒らげたのだが、やはり内部調査官はその瞬間を待ち構えていたようだ。
「なにが見つかると考えていたかって? あんたばかなの?」
 あんなものなど、見つからなければよかった。脳味噌(のうみそ)から記憶を剃刀(かみそり)で切り取ってしまいたい。映像が頭から消えない。まばたきするたびに、あの光景が古い映画のように脳裏にちらちらと映し出される。そして、いつまでも消えない悲しみでレナを満たす。
 レナは目をこすろうとして思いとどまった。チームを率いてあの家に踏みこんでから六日がたつが、体にはいまだにあのときの名残が見て取れる。鼻から左目の下へ横切る痣(あざ)は、尿そっくりの黄色になっている。三針縫った頭の切り傷が、むずがゆくてたまらない。
 外から見えないダメージもある――打ち身の跡の残る尻。痛む腰と両膝。あの森のなかの荒れ果てた一軒家で見つけたものを思い出すたびにむかつく胃袋。
 死者四名。入院中の者が一名。おそらく二度とバッジをつけることはない者が一名。もちろん、あの恐ろしい記憶は墓場まで持っていくことになる。
 目に涙があふれた。悲しみに呑(の)まれたくなったが、唇を噛(か)んでこらえた。レナはすっかり参っていた。この一週間はきつかった。いや、この三週間はずっときつかった。でも、もう終わったのだ。なにもかも終わった。自分は無事だ。仕事も失わずにすむ。内部調査室のネズミも巣穴に引っこんだ。ようやく家に帰ってくることができ、じっと見つめられたり尋問されたり、あれこれ突っこまれたりすることはもうない。うっとうしいのは内部調査室の連中だけではない。強制捜査がどんなふうに展開したのか、あの暗く湿った地下室でレナがなにを発見したのか、署内のだれもが知りたがっている。
 レナは、とにかくなにもかも忘れてしまいたかった。
 携帯電話が鳴った。レナは、肺が空になるまで息を吐いた。二度目の着信音のあとに電話を取った。新しいショートメールが届いていた。
 ヴィカリー:大丈夫か?
 レナは画面の文字を眺めた。パートナーのポール・ヴィカリーだ。
 返事を打ちこんだ。親指がキーパッドの上で止まった。
 かすかなバイクのエンジン音が空気を震わせた。
 レナは返事を打つのをやめ、パワーボタンを長押しして電源を切った。電話をチェストのバッジの隣に置いた。
 ハーレーのツインカム・エンジンの轟音(ごうおん)がレナの鼓膜を振動させた。ジャレドが急勾配の私道をのぼるためにエンジンをふかしたのだ。少し待つと、聞き慣れた音がした。エンジンを切る音、キックスタンドのギッというきしみ、家へ入ってくる夫の重たいブーツの足音。レナが百万回はやめてと頼んだのに、またヘルメットと鍵をキッチンのテーブルに置く音。メールをチェックしているらしく、ジャレドはつかのま静かになり、それから寝室へ向かってきた。
 レナは寝室の入口に背を向けたまま、長い廊下を歩いてくるジャレドの足音を数えた。その足取りはためらいがちで、寝室へ行くのをいやがっているように聞こえた。レナが眠っていればいいのにと思っているのだろう。
 ジャレドは入口で足を止めた。レナが振り向くのを待っている。レナがそのまま背を向けていると、彼は声をかけてきた。「きみもいま帰ってきたの?」
「仕事が終わらなくて」大嘘だった。レナも、ジャレドが先に眠っていてくれればいいのにと思いながら帰ってきた。「シャワーを浴びようとしていたところ」
「そうか」
 レナはバスルームへ行かなかった。そうせずに、ジャレドに向きなおった。
 ジャレドの視線がちらりとレナのブラジャーに落ち、すぐにまた顔へ戻った。ジャレドは制服姿で、髪はヘルメットを脱いだときに乱れたままになっている。彼もメイコン警察署の署員だ――白バイ隊員で、レナより一階級下で、十二歳下だ。レナはいままでそのどれも気にしていなかったが、このところふたりの毎日は触れてはならないことばかり増えている。
 ジャレドがドア枠にもたれて尋ねた。「で、どうだった?」
「もう仕事に戻ってもいいって」
「よかったな、そうだろ?」
 レナはジャレドの言葉を頭のなかで再生し、その口調が示すものを解読しようとした。「よかったに決まってるでしょう?」
 ジャレドは返事をしなかった。気まずい沈黙が長々とつづいたのち、彼は口を開いた。「なにか飲まない?」
 レナは驚きを隠せなかった。
「もう大丈夫なんだよね?」ジャレドはこわばった笑みを浮かべて首を横に傾けた。レナより数センチ背が高い程度だが、体格ががっしりしていて身ごなしが敏捷(びんしょう)なので、実際より大柄に見える。
 いつもなら。
 ジャレドは返事をしてくれないかと言わんばかりに咳払(せきばら)いした。
 レナはうなずいた。「ええ、大丈夫」
 ジャレドは立ち去ったが、彼の無言の要求はその場に残っていた――レナに絡みつき、いまにも窒息させそうだった。ジャレドは、レナに取り乱してほしいと求めている。レナに頼ってほしいと求めている。あのことが原因で、レナがすっかり変わってしまったのを隠さないでほしいと求めている。
 その求めに屈すれば、レナがばらばらに壊れてしまうということが、ジャレドにはわからない。
 チェストからパジャマを取り出す。キッチンでジャレドが動きまわる音が聞こえた。冷凍庫をあけ、氷をひとつかみ取り出そうとしている。レナは目を閉じた。体がふらふらと揺れた。氷がグラスに落ちる音を待った。期待で唾液が湧いてきた。
 歯を食いしばった。無理やり目をあけた。
 アルコールがほしくてたまらなかった。ジャレドが戻ってきたら、グラスを置いてしばらく待ち、飲まなくても大丈夫だと自分に証明しなければ。
 ジャレドに証明しなければ。
 ジーンズのボタンをはずす両手が疼(うず)いた。強制捜査の日、指が永久に曲がってしまうのではないかと感じるほど、ショットガンをきつく握りしめていた。なぜいまだに体のあちこちが痛むのかわからない。もう回復しているはずなのに、体はいつまでも痛みに執着する。体内を侵食していく毒に執着する。
「ほら」ジャレドが戻ってきた。今度は部屋のなかまで入ってきた。とぷとぷと音をたててボトルからグラスにウォッカを注ぎながらレナのほうへ歩いてくる。「明日から勤務?」
「朝からね」
 ジャレドがグラスを差し出した。「休みはなし?」
 レナはグラスを受け取り、中身を半分ほど一気に飲んだ。
「同じだな、あのときと……」ジャレドの声が途切れた。どのときのことか、言葉にする必要はなかった。彼は家の裏手に面している窓の外を見やった。黒い窓ガラスに顔が映った。「巡査部長から降格になるだろうね」
 レナはかぶりを振りながらも答えた。「たぶんね」
 ジャレドがレナをじっと見つめた――待っている。求めている。
 レナは尋ねた。「署の連中はなんて言ってる?」
 ジャレドはクローゼットへ歩いていった。「きみは鋼のタマの持ち主だって」銃の保管庫のダイヤル錠をまわした。レナは、彼のうなじを眺めた。ヘルメットから覗(のぞ)く部分がピンク色に日焼けしている。ジャレドは見られているのを意識しているらしく、ベルトから拳銃のホルスターをはずし、レナの拳銃の隣に置いた。すぐそばに。ただし、ふたりの拳銃を触れ合わせることはなかった。
「ムカついてるんでしょう?」レナは言った。
 ジャレドは保管庫の扉を閉め、ダイヤルをまわした。「ムカつくって、なにが?」
 口には出さなかったが、レナの頭のなかでは叫び声が響いていた。妻のほうが自分よりタフだと思われてることよ。妻は凶悪犯を捕まえてるのに、自分はのんびりバイクを乗りまわして、駐車違反のサッカー・ママにチケットを切ってるだけってことが、ムカついているんでしょう?
「ぼくはきみを自慢に思ってる」ジャレドは、レナがいつも彼の顔を殴ってやりたくなる、あの冷静な口調で言った。「きみの成し遂げたことは表彰ものだよ」
 レナがなにを成し遂げたのか、ジャレドにはわかっていない。彼が知っているのは山場だけ、閉めたドアの外で話してもいいとレナに許可された部分だけだ。
「ムカついてるんでしょう?」レナはもう一度同じことを尋ねた。
 ジャレドの沈黙は少しだけ長すぎた。「きみが殺されてもおかしくなかったことはね」
 質問の答えになっていない。レナはジャレドの顔をまじまじと見つめた。肌はなめらかでつやつやしている。はじめて出会ったとき、彼は二十一歳だった。あれから五年半がたつのに、なぜかますます若く見えるようになった。どんどん若返っていくかのように。いや、レナのほうが急速に老けこんでいるのかもしれない。あのころにくらべて、あまりにも多くのことが変わってしまった。以前は、ジャレドがなにを考えているかわからないことなどなかった。とはいえ、彼の周囲に壁を築くモルタルをたっぷり与えてきたのは、レナ自身にほかならない。
 ジャレドがシャツのボタンをはずしはじめた。「あの棚を組み立てようと思うんだ」
 レナは引きつった笑い声をあげた。「ほんとに?」キッチンは三カ月前から改装中のまま放置されている。ジャレドが毎週末のように口実を作って作業に取りかからないからだ。
 ジャレドはシャツを床に落とした。「ぼくがうちの大黒柱だとわかってくれるのは〈イケア〉くらいなもんだな」
 そうはっきりと言われてしまうと、レナは言葉に詰まった。「そんなことないってわかってるでしょ」自分の耳にも説得力に欠けて聞こえた。「そんなことないって」
「ほんとうに?」
 レナは黙っていた。
「わかった」ジャレドの携帯電話が鳴りはじめた。彼はポケットからそれを取り出し、発信者を確かめて通話を拒否した。
「浮気相手?」レナは、自分の言葉の浅はかさがいやになった。冗談にしても笑えない。ジャレドにもそれはわかっているはずだ。
 彼は汚れもののかごのなかからジーンズとTシャツを取り出した。
「もう夜遅いわ」レナはベッドサイドテーブルの時計を見やった。「十二時過ぎてる」
「眠くないんだ」ジャレドは手早く着替え、携帯電話を尻ポケットに突っこんだ。「なるべく静かにやるよ」
「棚を組み立てるのに携帯電話が必要?」
「電池がなくなりかけてるから」
「ジャレド――」
「すぐ終わるよ」ジャレドはあの偽物くさい笑みをまた浮かべた。「これくらいやらせてくれ、いいだろ?」
 レナは笑みを返し、グラスを掲げた。
 ジャレドは出ていこうとしなかった。「寝る前にシャワーを浴びなよ」
 レナはうなずいたが、Tシャツの貼りついた彼の胸板からくっきりと割れた腹筋へ、つい視線を走らせてしまった。ウォッカのせいでほろ酔い気分になっている。ようやく体から緊張が抜けはじめていた。いまのジャレドを眺めていると、なぜか古い記憶が一気によみがえった。いつもは頭から締め出している場所へ意識がさまよっていくが、レナは止めなかった――ジャレドとメイコンへ引っ越してくる前に暮らしていた町、警官になるすべをはじめて学んだ町へ。
 グラント郡で一人前の警官になるために必要なことをすべて教えてくれたのは、ジャレドの父親だった。いや、すべてではない。ジェフリー・トリヴァー署長は、自分の死後にレナがなにを学んだのか知ったらひどく腹を立てるのではないかと、レナは思っている。ジェフリー自身はしょっちゅう規律を破るのに、レナが同じことをしようとすると、きつく叱った。
「レナ?」ジャレドが尋ねた。その目も、レナの返事を待つときに首をかしげる癖も、ジェフリーにそっくりだ。
 頭がぼうっとしていたが、レナはウォッカを飲み干した。「愛してる」
 今度はジャレドのほうが引きつった笑い声をあげた。
「愛してるって返してくれないの?」
「返してほしいのか?」
 レナは黙っていた。
 ジャレドは投げやりなため息をつき、レナのそばへ来た。レナはブラジャーとショーツしか着けていないのに、彼は姉妹にキスをするようにレナのひたいに軽く唇をつけただけだった。「シャワーを浴びながら居眠りするなよ」
 レナは部屋を出ていくジャレドを見送った。最近、あの汚れたTシャツばかり着ている。三週間前に空き部屋のリフォームをはじめたときから、黄色いペンキが背中と肩についたままになっている。
 あのとき、壁を塗るのはもう何週間か待ったほうがいいとジャレドに言ったのに――先にリフォームすべき場所があと十カ所はあるからではなく、縁起が悪いからだ。
 だが、ジャレドは耳を貸さなかった。
 もちろん、レナもジャレドの言うことを聞いたためしがない。
 レナはウォッカのボトルをバスルームへ持っていった。空のグラスを便器の蓋に置き、ボトルからじかにあおった。帰宅してすぐに鎮痛剤を飲んだのを思えば愚かな行為だが、いまはばかになりたいような気がした。記憶を失ってしまいたかった。鎮痛剤とアルコールで、頭からすべてを消してしまいたかった――強制捜査の前にあったことも、その最中にあったことも、そのあとのことも。全部消えてしまえば、横たわっても暗闇が見えるだけだ。この六日間、頭から離れない、あのチカチカと明滅するサイレント映画ではなく。
 レナはボトルも便器の蓋に置いた。髪をまとめたとき、指がふくらんでいるような感覚があった。鏡に映った自分を眺めた。目の下に黒々とした隈(くま)があるが、けがの跡ではない。ガラスの表面を指で押さえた。自分の顔が、これまで失ったものを証明しはじめていた。
 これまで背後に数々の遺体を残してきたことを。
 レナは視線をおろした。いつのまにか、たいらな腹部に手のひらを当てていた。つい九日前まで、そこにはかすかなふくらみの兆しがあった。パンツがきつくなっていた。胸が張っていた。ジャレドはレナに触れてばかりいた。ときどき、レナが目を覚ますと、彼の手が腹部にのっていることがあった。彼が創ったものの所有権を主張するかのように。レナのなかに彼が吹きこんだ命の所有権を。
 だが、やはりその命はそこにとどまってくれなかった。レナを深い眠りから引(ひ)きはがした強烈な痛みは、彼の手にも止められなかった。彼の言葉も、血を流すレナを慰めることはできなかった。バスルームで。病院で。家へ帰る車のなかで。あの赤い潮が引いたあとに残ったのは、死だけだった。
 壁を明るい黄色に塗ったいまいましい空き部屋の前を通るたびに、レナはジャレドへの冷たい憎しみに捕らわれ、怒りで身を震わせずにいられなかった。
 レナは天井を見あげた。つかのま息を止め、暗い秘密のようにそっと吐き出した。今日になって、身に染みて感じている。喪失の痛み、嘆きを。ウォッカと鎮痛剤も、いまのところ効果がない。効くわけがない。
 ボトルの蓋を捜したが、見つからなかった。ドアをあけた。寝室にジャレドはいなかった。彼の服は、脱いだときに放った場所に、そのまま残っている。レナはシャツを拾いあげた。一日中バイクで走っていた彼のシャツからは、排気ガスとオイルと汗のにおいがした。パンツの尻ポケットにはまだ財布が入っていた。それを取り出し、ベッドサイドテーブルに置く。前ポケットにも雑多なものが入っている。小銭。唇を風焼けから守るためのバーツビーズのバーム。緑色の輪ゴムで束ねた二十ドル札二枚、運転免許証、クレジットカード三枚。結婚指輪を入れた黒いベルベットの小袋。
 レナは小袋に指を入れ、金の指輪を取り出した。ジャレドは、同僚がバイクで転倒したのをきっかけに、勤務中は指輪をはずすようになった。その同僚は、指関節に引っかかった結婚指輪に、まるで靴下のように皮膚をはぎ取られてしまった。そんなことがあったので、レナはジャレドに、バイクに乗るときは指輪をはずすよう約束させた。黒い小袋は、ふたりの歩み寄りの結果だ。レナは当初、指輪を家に置いていくよう言ったが、ジャレドはロマンティストなので――それこそ、レナの知っている女のだれよりもそうだ――指輪をはずすのをいやがった。
 いまではまったくの習慣で持ち歩いているのではないかと、レナは思っている。
 レナは指輪を小袋に戻し、財布をあけた。はじめての結婚記念日にレナが贈ったものだが、ジャレドはそれまで財布を使ったことがなかったのに、いまだに携帯している。もっとも、財布というより携帯用のアルバムになっている。レナは、この五年間でジャレドが撮った何枚ものスナップ写真をめくった。引っ越し当日、新居の前に立っているレナ。ジャレドのバイクにまたがっているレナ、ディズニー・ワールドのレナとジャレド、アトランタ・ブレーブスの試合でのふたり、サウス・イースタン・カンファレンス(SEC)のプレーオフでのふたり、アリゾナで行われたナショナル・チャンピオンシップでのふたり。
 結婚式の写真で指が止まった。アトランタの裁判所の裁判官室で撮った写真だ。レナの隣におじのハンク、反対側にジャレドが立っている。ジャレドの隣には、彼の母親、義父、妹、祖母、祖父、いとこふたり、ずっと連絡を取り合っていた小学校の教師がいる。
 だれもがめかしこんでいるが、レナだけは仕事用の紺のパンツスーツ姿だ。肩の下まである褐色の巻き毛をおろしている。レノックス・スクエアの〈メイシーズ〉のカウンターでメイクをほどこしてもらったのだが、トランスセクシュアルの店員は、レナの肌がきれいだとほめそやした。あの日、少なくともひとりは認めてくれた女がいたわけだ。ジャレドの母親の苦々しげな顔を見れば、花婿が式のかたちにこだわらなかった理由がわかる。ダーネル・ロングはいまでもアラバマのどこかで、息子が正気を取り戻し、性悪の妻と別れるよう祈っているに違いない。
 自分はただあの女に意地悪をしたくてジャレドに固執しているだけではないのだろうかと、ときおりレナは思う。
 次の写真が出てきた瞬間、両膝から力が抜けそうになった。
 レナはベッドに腰をおろした。
 その写真は何度も見ているが、ジャレドの財布に入っていたことはない。レナがクローゼットのなかの靴箱にしまいこんでおいたものだ。写真に写っているシビルはレナと双子の姉妹だった。レナは痛いような嫉妬に襲われたが、それもつかのまで、すぐに笑いだしたくなった。どうやらジャレドはレナの写真だと勘違いしたらしい。彼はシビルに会ったことがない。レナが彼と出会ったときには、シビルが死んで十年がたっていた。
 笑いが嗚咽(おえつ)になり、レナは口を手で押さえた。妊娠がわかったとき、真っ先に伝えたいと思ったのはシビルだった。電話をつかんだあのとき、つかのまだがたしかに幸せを感じた。
 それから、悲しみに胸を打たれた。
 レナは目の下をそっと拭い、写真を見つめた。ジャレドがこの写真を選んだ理由はわかる。シビルは公園で、ブランケットの上に座っている。口を大きくあけ、仰向いている。思いきり声をあげて笑っているのだ――レナは、こんなふうに楽しそうな顔をめったに見せない。シビルには、メキシコ人の祖母譲りの特徴がはっきりと現れている。日焼けした肌はブロンズ色だ。今日のレナのように、褐色の巻き毛をおろしている。ただし、レナはハイライトを入れているが、シビルは自然のままだし、白髪もまったくない。
 シビルが生きていたら、いまどんな姿になっているだろう? それは十数年のあいだに何度も考えたことだ。どの双子も、片方が死んだら似たようなことを考えるのではないだろうか。レナと違い、シビルにはよそよそしく刺々(とげとげ)しいところが少しもなかった。シビルの表情はいつもやわらかく、周囲の人を追い払うのではなく招き寄せるような、あけっぴろげな雰囲気があった。よほど見る目のない者でなければ、レナとシビルを取り違えたりしないだろう。
「リー?」
 下着姿で座りこんで夫の財布を眺めて泣くなどよくあることだと言わんばかりに、レナはジャレドのほうへ顔をあげた。彼はまた入口のすぐ外に立っていた。
「さっきの電話はだれ? あなたの携帯電話にかけてきたのは?」
「番号が非表示だった」ジャレドはツールベルトに両手の親指を引っかけてドア枠にもたれた。「大丈夫?」
「あ……ええと……」声が詰まった。「疲れてるの」
 レナは最後にもう一度シビルの写真を見てから財布を閉じた。涙が頬を伝うのを感じた。口元を引き締めてこみあげる感情を呑みこもうとした。だが、どうしても思いはふつふつと湧きあがりつづけて喉に詰まり、箍(たが)のように胸を締めつけた。
「リー?」ジャレドはまだ部屋に入ってこようとしない。
 レナは、放っておいてほしくてかぶりを振った。彼の顔を見ることができない。こんな自分を見せることができない。わかっているのだ、自分が泣き崩れるのを彼は待っている。期待している。
 求めている。
 そのとき、レナのなかでなにかがぽきりと折れた。また嗚咽が漏れた――心の奥底からの悲痛な声が。もう抵抗できない、いつまでもジャレドを追い払いつづけていられない。だが、レナは彼のほうから近づかせはしなかった。足早に部屋を突っ切り、彼の肩に両腕をまわして胸に顔を埋めた。
「リー――」
 ジャレドにキスをする。両手で顔を挟み、首に触れた。ジャレドは最初こそあらがったものの、この一週間、二十六歳の男がソファで独り寝していたのだ。レナが苦労せずとも反応が返ってきた。まめのできた手のひらが、レナの背中をなでた。ジャレドはレナを抱きしめ、さらに激しくキスした。
 次の瞬間、ジャレドがはじかれたように身を引いた。
 レナの口のなかに血が飛び散った。
 一瞬ののち、レナは銃声を聞いた。
 ジャレドが撃たれたあとに。ぐったりとレナにもたれかかってきたあとに。
 彼は重かった。レナはよろめいて仰向けに倒れ、上からのしかかってきた彼の体に押さえつけられた。身動きができない。レナは彼を押しのけようとしたが、また銃声が響いた。彼の体が痙攣(けいれん)して数センチ跳ねあがり、またレナの上にどさりと落ちた。
 甲高い音が聞こえた。それはレナの口から出ていた。レナはジャレドの体の下から出ると、彼のTシャツの襟ぐりをつかんで銃弾の当たらない場所へ引きずった。なんとか数十センチ引っぱっていったが、彼のツールベルトが絨毯(じゅうたん)に引っかかった。
「いや、いや、いや」レナはつい口走ってしまい、あわてて口を手で押さえて声を止めた。狼狽(ろうばい)の波に呑みこまれまいと、壁に背中を押しつけた。ウォッカと鎮痛剤がいまごろ効いてきた。喉の奥に吐き気がこみあげた。大声で叫びたい。叫ばなければいられない。
 だが、叫んではいけない。
 ジャレドは身動きひとつしなかった。レナの耳のなかでは、まだ銃撃の音が響いていた。ショットガンの発砲音。散弾が飛び散り、ジャレドの背中や頭に突き刺さる音。Tシャツに残っている乾いた黄色のペンキに、真っ赤な丸い斑点が広がる。ツールベルトのスクリュードライバーが彼の脇腹に刺さっていた。体の下の血だまりが広がっていく。レナは手をのばし、彼のふくらはぎのしなやかな筋肉に触れた。
「ジャレド?」かすれた声をかけた。「ジャレド?」
 彼の目は閉じたままだった。唇から血の泡があふれている。床の上で指が小刻みに震えている。レナとの約束を破って結婚指輪をはめていたのか、そこだけ日に焼けていない。
 レナはその手を取ろうとして、はたと動きを止めた。
 足音。


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