【試し読み】『破滅のループ』(カリン・スローター/ 〈ウィル・トレント〉シリーズ)
ミシェル・スピヴィーは半狂乱でスーパーマーケットの奥を走りながら、通路の一本一本に目を走らせた。頭のなかはパニック状態で、とりとめのない考えがぐるぐると渦を巻いていた。どうしてあの子を見失ってしまったのわたしはひどい母親だあの子は小児性犯罪者(ペドファイル)か人買いにさらわれてしまった警備員に知らせるべきか警察に通報するべきかそれとも──。
アシュリー。
急に足を止めたので、靴底が床をこすってきゅっと鳴った。ミシェルは大きく息を吸いこみ、激しい胸の鼓動を普段どおりのリズムに戻そうとした。娘は人身売買組織に売り飛ばされようとしているのではなかった。化粧品のカウンターでサンプルを試していた。
恐怖が薄らぐとともに、安堵(あんど)もしぼみはじめた。
十一歳の娘が。
化粧品のカウンターにいる。
十二歳の誕生日まではいかなる事情があってもメイクは禁止だとアシュリーに言い渡したのに、しばらくするうちに、チークとリップグロスだけはオーケー、友達がどうしようがそれ以上はだめだということになっていた。
ミシェルは胸に手を当てた。理性的かつ論理的な人間に変わる時間を稼ぐため、あえてゆっくりと通路を歩いていった。
アシュリーはミシェルに背中を向け、さまざまな色の口紅を試していた。慣れた手つきで口紅をひねっているのは、もちろん友達の家であらゆる化粧品を試し、たがいにメイクをほどこしているからであり、女の子とはそうするものだからだ。
すべての女の子ではないけれど。ミシェル自身は、めかしこむことに興味はなかった。脚の無駄毛を剃(そ)ろうとしない自分に、母親が金切り声で言ったことをまだ覚えている。そんなんじゃストッキングをはけないわよ!
ミシェルはこう答えた。べつにはきたくないし!
もう何年も前の話だ。母親が亡くなってから久しい。ミシェルはいまや娘のいる一人前の女性であり、女性の例に漏れず母親の轍(てつ)は踏まないと心に誓っている。
それが間違いだったのだろうか?
自分がいわゆる女らしさに欠けるせいで、アシュリーをとがめてしまうのだろうか。ほんとうは、アシュリーはメイクをしてもいい年頃なのに、自分がアイライナーだのブロンザーだの、あの子がユーチューブでえんえんと見ているものに興味を持てないせいで、女の子が大人になるある種の道を娘から奪っているのでは?
児童期の節目については、調べたことがある。十一歳は基準年と呼ばれる大事な年齢であり、そのころには能力が大人のほぼ半分に達している。ただ命令するのではなく、話し合いをはじめなければならない。理屈としてはよくわかるが、実践するとなると大変だ。
「あっ!」アシュリーは母親に気づき、あわてて口紅のサンプルをディスプレイ台に戻した。「あたし──」
「いいのよ」ミシェルは娘の長い髪をなでた。シャワー室にはシャンプーだのコンディショナーだのボディソープだのローションだの何本ものボトルが並んでいるが、ミシェルが美容のために使っているのは汗に強い日焼け止めくらいだ。
「ごめんなさい」アシュリーは唇からつややかな色を拭い取った。
「きれいよ」ミシェルはあえてそう言った。
「ほんとに?」アシュリーの笑顔はミシェルの心の琴線に触れた。「これ、知ってる?」アシュリーはリップグロスのディスプレイを示した。「ティントタイプだから、ずっと色が落ちないの。でも、こっちはチェリーの香りがするの、ヘイリーが言ってたんだけど、こっちのほうが──」
男の子に好かれるんでしょ、とミシェルは心のなかでつづきを埋めた。
アシュリーの部屋の壁がクリス・ヘムズワースだらけになっていることには、もちろん気づいている。
ミシェルは尋ねた。「あなたはどっちがいいと思うの?」
「さあ……」アシュリーは肩をすくめたが、十一歳児が好き嫌いを決められないものなどほとんどない。「ティントタイプのほうが色落ちしないし、こっちかな?」
ミシェルは言った。「そうね」
アシュリーはまだふたつのうちどちらにするか迷っていた。「チェリーの香りって人工的なのかな? しょっちゅう唇を噛(か)んじゃって──つけたらいらいらして、唇を噛んじゃって色が落ちちゃうかも」
ミシェルはうなずきながら、こみあげる理屈っぽい言葉を呑(の)みこんだ。あなたはきれいだし、賢いし、愉快だし、才能にあふれているのだから、自分を幸せにすることだけをすればいいのよ、まともな男の子はそこに惹(ひ)かれるのだし、そういう男の子は幸せで自信に満ちた女の子こそおもしろいと思うのだから。
結局、アシュリーにはこう言った。「好きなものを選びなさい。お小遣いを前借りさせてあげるから」
「ママ!」アシュリーの叫び声に、人々が振り返った。つづくダンスは、シャキーラよりティガーを彷彿(ほうふつ)とさせた。「ほんとに? ママたちずっとだめだって言ってたのに──」
ママたち。ミシェルは心のなかでうめいた。十二歳になるまではアシュリーにメイクさせないと取り決めたのに、この急な変節をどう説明すればいいのだろう?
ただのリップグロスよ!
あと五カ月待てば十二歳なのに!
確かに誕生日まではメイクはさせないってことに同意したわ、でもそっちこそiPhoneを買ってやったじゃないの!
これで行こう。話をそらして、iPhoneの件を持ち出せばいい。あのときは、ほんとうにたまたまミシェルのほうが折れるはめになったのだから。
ミシェルは言った。「ボスはわたしがなんとかするわ。でも、リップグロスだけよ。ほかはだめ。自分を幸せにするものを選びなさい」
アシュリーはほんとうに幸せそうだった。娘があまりに幸せそうなので、ミシェル自身も会計の列に並んでいる女にほほえみかけたくなった。きらきら光るキャンディピンクのケース入りリップグロスは、ランニングショーツをはいて汗にまみれた髪をベースボールキャップにたくしこんだ三十九歳には似合わないと、その女もわかっているはずだ。
「ああ──」アシュリーは有頂天で、言葉がすらすら出てこないようだった。「ほんとに最高だよ、ママ。ママ大好き。あたし、ちゃんとやる。ほんとにちゃんとやるから」
布袋に買ったものをしまいはじめたときには、ミシェルの笑顔はまるで死後硬直がはじまったばかりのように見えたに違いない。
iPhone。iPhoneも十二歳になるまでは持たせない約束だったが、サマーキャンプにやってきたアシュリーの友人たちがひとり残らず持っていたせいで、ミシェルがカンファレンスのために出張しているあいだに、“絶対にだめ”は“あの子ひとりだけ持っていないのに、買ってやらないわけにはいかないでしょう”に変わった。
アシュリーは満足そうに袋を持って出口へ向かった。早くもiPhoneを取り出している。スクリーンを親指でスワイプし、リップグロスを買ってもらったことを友人たちに知らせている。一週間後には、ブルーのアイシャドウをつけ、ほかの女の子たち同様、猫のような吊(つ)り目に見せる線を目の際に描くようになりそうだ。
ミシェルは、ささいなことを大災害のように考えはじめているのを自覚していた。
アイメイク用品を貸し借りすれば、結膜炎やものもらいや眼瞼(がんけん)炎をうつされるかもしれない。リップグロスやリップライナーは、ヘルペスウィルスやD型肝炎ウィルスを媒介するかもしれないし、言うまでもなくマスカラのブラシで角膜を傷つける可能性もある。口紅には重金属だの鉛だのが含まれているのではなかったか? ブドウ球菌、連鎖球菌、大腸菌。自分はいったいなにを考えていたのだろう? 娘を有害なものにさらしかねないのに。脳腫瘍の発症と携帯電話の使用に間接的な相関関係があると断定する研究論文はほんのわずかしかないが、モノの表面が汚染物質にまみれていることを証明する論文は数えきれないほどある。
前方でアシュリーが笑い声をあげた。友人たちからメッセージが返ってきたのだ。アシュリーは袋をぶらぶらと振りながら駐車場を歩いていく。あの子は十一歳で、十二歳ではないし、十二歳だってまだぜんぜん幼い。そうでしょう? メイクは信号を送ってしまう。興味を持たれることに興味を持っていると、暗に伝えてしまう。まったくフェミニストらしからぬ言いぐさだが、アシュリーはまだほんの子どもで、いらぬ注目をはねつけるすべを知らない。
ミシェルは静かにかぶりを振った。たかがリップグロスからメチシリン耐性ブドウ球菌、梅毒へ。すべりやすい斜面のようだ。家に帰ったら親としての厳粛な誓いを破ってアシュリーに化粧品を買ってやった理由をプレゼンできるよう、暴走しがちな想像力は閉じこめておかなければならない。
iPhoneも買わないと誓いを立てたのに。
ミシェルはバッグに手を突っこみ、車のキーを探した。外は暗かった。電灯の明るさが足りないのか、いや、年齢のせいで眼鏡が必要になったのかもしれない──なにしろ、男の子に信号を送りたがっている娘がいるくらいの年齢なのだ。あと数年で孫ができるかもしれない。そう思うと、不安でいっぱいになり、胃袋がひっくり返った。ああ、ワインを買えばよかった。
iPhoneをいじっている娘がよその車にぶつかったり、段差から転げ落ちたりしていないか確かめようと、ミシェルは目をあげた。
そして、自分の口が大きく開くのを感じた。
一台のワゴン車が、娘の脇にすべりこむように止まった。
スライドドアが開いた。
男が飛び降りた。
ミシェルは車のキーを握りしめた。とっさに飛び出し、娘目がけて全力で走った。
悲鳴をあげたが、遅きに失した。
アシュリーは、ミシェルたちが教えたとおりに走って逃げていた。
首尾よく逃げられたのは、男の狙いがアシュリーではなかったからだ。
狙いはミシェルだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?