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【試し読み】『ざわめく傷痕』(カリン・スローター/ 〈グラント郡〉シリーズ)

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土曜日1

「ダンシング・クイーン」サラ・リントンはスケートリンクをまわりながら、その歌を口ずさんだ。「ヤング・アンド・スイート、オンリー・セブンティーン」
 左側からウィールをこする激しい音がして、突進してきた幼い子供をかろうじて抱き止めた。
「ジャスティン?」七歳の少年に見覚えがあった。インラインスケートのシューズを履いた足首がぐらぐらしていたので、シャツの背中をつかんで支えてやった。
「こんにちは、ドクター・リントン」ジャスティンは息を切らしながら挨拶をした。ヘルメットが大きすぎて、サラの顔を見るために何度か押しあげなくてはならなかった。
 サラは笑いたくなるのをこらえて、にこやかに応じた。「こんにちは、ジャスティン」
「先生はこの曲が好きなの? ママも好きなんだよ」ジャスティンは小さく口を開けて、まじまじと彼女を見つめている。サラの患者のほとんどがそうであるように、クリニック以外の場所でサラを見かけたことに驚いているらしい。この子たちは、わたしがクリニックの地下で暮らしていて、風邪をひいたり熱を出したりした子供が来るのを待っていると思っているのかもしれないと考えることが時々あった。
「だって」ジャスティンはまたヘルメットを押しあげたが、その拍子に肘当てが鼻に当たった。「歌っているのを見たよ」
「ほら」サラは身をかがめて、顎のストラップを調整してやった。リンクに流れている音楽のボリュームがあまりに大きくて、ジャスティンの顎の下のプラスチックのバックルを通じて、ベースの振動が伝わってきた。
「ありがとう」ジャスティンは大声で礼を言ってから、両手を休めるつもりなのかヘルメットの上に乗せた。そのせいでバランスを崩し、あわててサラの脚にしがみついた。
 サラはまた彼のシャツをつかむと、そのままリンク周辺の手すりに向かった。インラインスケートのシューズを試してはみたものの、町の住人の半分に転んでいるところを見られたくなくて、サラは昔ながらのウィールが四つのシューズを履いていた。
「わお」ジャスティンは手すりに両腕をからませながら、くすくす笑った。サラのスケート靴を見て言った。「先生の足、すごく大きいね!」
 サラは恥ずかしさでかっと顔が熱くなるのを感じながら、自分の足を見おろした。七歳の頃からずっと、大きな足のことをからかわれてきた。三十年近くそう言われ続けてきたせいで、いまでも足のことを言われるとチョコレートファッジのアイスクリームを抱えてベッドの下に潜りこみたくなるのだ。
「それ、男の子のスケート靴だよね!」ジャスティンは手すりから手を離し、サラの黒いスケート靴を指さそうとした。サラは、また転びかけたジャスティンを支えた。
「ぼく」サラはジャスティンの耳元で優しく囁(ささや)いた。「二度目の予防接種のときに、いまのことを思い出させてあげるわね」
 ジャスティンはかかりつけの小児科医に向かって、かろうじて笑顔を作った。「ママがぼくを捜していると思うんだ」サラがあとをついてきていないことを確かめるように心配そうにうしろを振り返りながら、両手で交互に手すりをつかんでその場を離れていった。
 サラは腕を組んで手すりにもたれ、遠ざかっていくジャスティンを眺めた。たいていの小児科医がそうであるようにサラも子供が大好きだったが、彼らがいない土曜日の夜もまたいいものだ。
「あの子がデートの相手?」近づいてきたテッサが訊(き)いた。
 サラは険しいまなざしを妹に向けた。「どうしてこんなところに来たのか、思い出したわ」
 テッサは笑顔を作ろうとした。「わたしが大事だから?」
「そうよ」サラは辛辣な口調で答えた。リンクの向こう側に、テッサのいちばん新しい恋人デヴォン・ロックウッドの姿が見えた。リントン一家と同じ、配管業に携わっている男だ。デヴォンは兄に見守られながら、子供用リンクで甥(おい)と滑っていた。
「彼のお母さんはわたしが気に入らないの」テッサが言った。「彼に近づくたびに、さも嫌そうな顔でわたしを見るのよ」
「パパもわたしたちに対しては同じだわ」
 デヴォンはふたりが見ていることに気づいて、手を振った。
「彼、子供の相手が上手ね」サラは手を振り返しながら言った。
「手を使うのも上手なのよ」テッサはひとりごとのように小さな声で言ってから、サラを振り返った。「そういえば、ジェフリーはどこなの?」
 サラは同じことを考えながら、正面入り口を振り返った。さらに、元夫が現れるかどうかをどうして気にかけるのだろうと考えた。「知らない。ここはいつからこんなに混むようになったの?」
「土曜の夜だし、フットボールのシーズンがまだ始まっていないもの。ほかに行くところがある?」テッサは答えたが、話題を変えようとしたサラの手には乗らなかった。「ジェフリーはどこ?」
「来ないんじゃないかしら」
 テッサの笑みは、嫌味を言いたいのを我慢しているのだと告げていた。
「言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「別に言いたいことなんてない」テッサが言い、それが嘘(うそ)なのかどうかサラには判断がつかなかった。
「わたしたちはデートをしているだけ」テッサか自分か、どちらを納得させようとしているのだろうと思いながら、サラは言った。「真剣でもないし」
「そうだね」
「キスさえしていないし」
 テッサはあきらめたように両手をあげた。「そうだね」口元に薄ら笑いが浮かんでいた。
「何度かデートをしただけ。それだけだから」
「別にわたしに言い訳しなくてもいいよ」
 サラはうめきながら、手すりにもたれかかった。自分がばかみたいだ。大人の女のはずなのに、ティーンエイジャーに戻った気分だった。ジェフリーとは、二年前彼が町の看板屋の女性経営者と浮気をしたので離婚した。どうしてまた彼と会い始めたのかは、彼女自身にも彼女の家族にとっても謎だった。
 音楽がバラードに変わり、照明が薄暗くなった。リンクにいくつもの小さな四角い光を散らしながら、天井からミラーボールがさがってきた。
「トイレに行ってくる」サラは妹に言った。「ジェフを捜しておいてくれる?」
 テッサはサラの肩の向こうに目を向けた。「たったいま、だれかが入ったわよ」
「個室はふたつあるのよ」サラが女性用トイレを振り返ると、大柄な十代の少女が入っていくところだった。彼女の受け持ち患者のひとりジェニー・ウィーヴァーだ。サラは手を振ったが、少女は気づかなかった。
 テッサが言った。「我慢できるといいけど」
 別の十代の少女がジェニーのあとからトイレに入っていくのを見て、サラは顔をしかめた。この調子でいくと、ジェフリーが来る前に腎不全になりそうだ。
 テッサは入り口を頭で示した。「噂(うわさ)をすれば、背が高くて、色黒で、ハンサムな人が来たわよ」
 リンクに向かって歩いてくるジェフリーを見つめるうちに、サラは口元が呆(ほう)けたように緩むのを感じた。彼は、チャコールグレーのスーツにワインレッドのネクタイという仕事用の装いのままだ。グラント郡の警察署長である彼は、ここにいるほぼ全員と知り合いだった。あたりを見まわしているのはサラを捜しているのだろうが、あちこちで足止めされては握手を交わしている。彼が人込みの中を歩いている間は、こちらから合図を送るようなことはするまいと決めた。ふたりの関係がこの段階でいるうちは、するべきことはすべてジェフリーにやらせるつもりだった。
 郡の検死官として担当した事件のひとつで、サラはジェフリーと出会った。検死官事務所の所長の座に就いたのは、ハーツデール児童診療所の共同経営者から権利を買い取る資金を貯(た)めるためだ。バーニー医師への支払いは一年前に終わっていたが、それでもサラはこの仕事を続けていた。病理学という課題に取り組むのが好きだった。十二年前、サラはアトランタにあるグレイディ病院の緊急治療室の研修医だった。一刻を争う生と死のはざまの現場から診療所で腹痛や鼻炎を診ることになったときは、衝撃を受けた。検死官の仕事は能力を試されるものだったから、頭の鋭さを保つのに役立った。
 ジェフリーがようやくサラに気づいた。ベティ・レイノルズと交わしていた握手が止まり、唇の端がゆっくりと持ちあがったが、安物雑貨店の店主との会話に引き戻されて眉間にしわが寄った。
 ベティがなにを話しているのか、サラには見当がついた。この数カ月の間に、彼女の店には二度も強盗が入っている。彼女はかなり腹を立てているようで、ジェフリーが気もそぞろであることには気づいているはずなのに、話をやめようとはしなかった。
 やがてジェフリーはうなずき、ベティの背中を軽く叩(たた)きながら握手を交わした。おそらく、明日会って話を聞く約束をしたのだろう。ようやく解放されたジェフリーは、いたずらっぽい笑みを浮かべながらサラに近づいてきた。
「やあ」ジェフリーが言った。気がつけばサラは、リンクにいたほかの人たちと同じような仕草で彼と握手を交わしていた。
「こんばんは、ジェフリー」割って入ったテッサの口調には、彼女らしくない険しさがあった。ジェフリーに無礼な態度を取るのは、いつもならふたりの父親のエディの役目だ。
 ジェフリーは戸惑ったような笑みを浮かべた。「やあ、テシー」
「ふうん」テッサは手すりから離れると、訳知り顔でちらりとサラを振り返ってからリンクを遠ざかっていった。
 ジェフリーが訊いた。「いったいどういうことだ?」
 サラは手を引こうとしたが、ジェフリーはいつ離すのかを決めるのは自分だと教えるかのように、彼女の指をしばらく握ったままでいた。ジェフリーは傲慢なくらいの自信家だ。ほかのなによりもサラを引きつけるのがそこだった。
 サラは腕を組んで言った。「遅かったのね」
「なかなか帰れなくてね」
「彼女の夫が出張なの?」
 ジェフリーは、嘘をついているとわかっているときに証人に向ける顔でサラを見た。「フランクと話していたんだ」グラント郡警察の主任刑事のことだ。「今夜はおまえが責任者だと言ってきた。おれたちの邪魔をしてもらいたくないからな」
「なにを邪魔するの?」
 さっきと同じような笑みがジェフリーの唇に浮かんだ。「今夜はきみを誘惑しようと思ってね」
 サラは声をあげて笑い、ジェフリーがキスをしようとして顔を近づけると、あとずさった。
「キスっていうのは、普通は唇と唇が触れないとうまくいかないんだ」
「わたしの患者の半分がいるところではお断り」
「それじゃあ、おいで」
 不本意ではあったけれど、サラは手すりをくぐり、ジェフリーの手を取った。ジェフリーは彼女をトイレ近くのリンクの裏手へと連れていった。人目につかないところだ。
「ここならいい?」彼が訊いた。
「そうね」スケート靴を履いたサラはジェフリーよりも数センチ高かったので、彼を見おろす格好になった。「ずっとまし。すごくトイレに行きたかったのよ」
 サラは歩き出そうとしたが、ジェフリーがウエストに手を当ててそれを止めた。
「ジェフ」威嚇にはほど遠い口調であることはわかっていた。
「きみは本当に美しいよ、サラ」
 サラはティーンエイジャーのように目をぐるりとまわした。
 ジェフリーは腹立たしげに笑った。「ゆうべはずっと、きみにキスすることを考えていた」
「そうなの?」
「きみの味が恋しい」
 サラはうんざりしているような口調で言おうとした。「いまもコルゲートよ」
「おれが言っているのは、違う味のことだ」
 驚きのあまりサラの口が開き、その反応にいかにも満足したかのようにジェフリーは笑った。サラは体の奥のほうでなにかがうごめくのを感じ、なにか─それがなんなのかはさっぱりわかっていなかった─言おうとしたとき、ジェフリーのポケベルが鳴った。
 ジェフリーはなにも聞こえなかったかのように、サラを見つめ続けている。
 サラは咳払(せきばら)いをした。「返事しなくていいの?」
 ジェフリーはようやくベルトに留めてあったポケベルに目を向け、そこに記されたものを見てつぶやいた。「くそ」
「なに?」
「強盗だ」ジェフリーは素っ気なく答えた。
「フランクが待機していたんじゃないの?」
「あいつは軽犯罪要員だ。おれは公衆電話を捜さないと」
「携帯電話はどうしたの?」
「バッテリー切れだ」ジェフリーは、安心させるような笑みをサラに向けられるくらいには、いらだちを抑えこんでいた。「今夜はなににも邪魔させないよ、サラ」彼女の頬に手を当てた。「今夜ほど大切な夜はない」
「食事のあとで、大事なデートでもあるの?」サラはからかうように言った。「そうしたいなら、食事はキャンセルしてもいいのよ」
 ジェフリーは細めた目でサラを見つめてから、彼女に背を向けた。
 サラは彼の背中を眺めながら〝まったく〟と吐き出すようにつぶやき、壁にもたれかかった。会ってから三分もたたないうちに、ジェフリーが自分をくだらない女に変えてしまったことが信じられない。
 トイレのドアが勢いよく閉まる音がして、サラはぎくりとした。ジェニー・ウィーヴァーがトイレの前に立ち、なにかを考えこんでいるようなまなざしでリンクを見つめている。長袖の黒いTシャツを着ているせいか、その肌は青白く見えた。サラが近づいていくと、手に持っていた濃い赤色のバックパックを肩にかけようとした。バックパックは大きな弧を描いて、サラの胸をこすった。
「おっと」サラは体を引いた。
 ジェニーはかかりつけの小児科医に気づいて目をしばたたかせると、視線を逸(そ)らしながら小さな声で言った。「ごめんなさい」
「いいのよ」サラは会話を続けようとした。ジェニーは困惑しているように見える。「あなたはどうなの? 大丈夫?」
「はい、先生」ジェニーはバックパックを胸に抱えこんだ。
 サラにそれ以上なにか言う間を与えず、ジェニーは出ていった。
 サラは、テレビゲーム・ルーム近くにたむろしている若者たちの集団に紛れこむジェニーを眺めていた。スクリーンの明かりに照らされて緑色に染まったその姿が、角を曲がって消えた。なにか妙だとサラは感じていたが、彼女のあとを追っていき、なにがあったのかを尋ねるほどではない。あれくらいの年頃のときは、なにもかもが大げさに感じられるものだ。ティーンエイジャーの少女のことだから、おそらくは異性関係だろう。
 バラードが終わると照明が明るくなり、スピーカーから再び古いロックの曲が流れ始めた。サラの胸の中で、ベースの音が反響している。リンクの中の人々がそのテンポに合わせて滑るのを見て、自分はあれほど機敏だったことがあるだろうかと考えた。〈スケイティーズ〉の所有者は何度か変わっているが、サラが十代だった頃からグラント郡の若者に人気の場所であることは変わらない。サラはまさにこの建物の裏で週末の夜を幾度となく過ごし、初めての恋人だったスティーヴ・マンといちゃついたものだ。ふたりの関係はさほど情熱的なものではなく、たったひとつの目的─グラント郡を出ていくこと─で結びついた同盟に近かった。高校の最終学年のとき、スティーヴの父親が心臓発作で亡くなり、彼が家業の金物店を継いだ。いま彼は結婚して子供がいる。サラはアトランタに逃げ出したが、数年後に戻ってきた。
 そして今夜、サラはまた〈スケイティーズ〉にいて、ジェフリー・トリヴァーといちゃついている。少なくとも、いちゃつこうとしている。
 気持ちを切り替えて、トイレに向き直った。ドアノブに手を乗せたが、べたべたしていたのでとっさに手を引いた。リンクのこのあたりはまだ薄暗いので、手についたものを見て取るには顔の前まで持ってこなくてはならなかった。判別するより先に、においが鼻をついた。ジェニー・ウィーヴァーのバックパックがこすったあたりを見おろした。
 胸の上に細い血の筋ができていた。

2


 ジェフリーの手は公衆電話を壁から引っぺがしたくてうずうずしていたが、かろうじてそれを思いとどまった。気持ちを落ち着けるように息を吸ってから警察署の番号をダイヤルし、呼び出し音が鳴る間、辛抱強く待った。
 彼の秘書であり、警察署のパートタイムの通信指令係でもあるマーラ・シムズが応じた。「グラント郡警察です。少々お待ちください」マーラは返事を待つこともなく、電話を保留にした。
 ジェフリーはいらだちに支配されまいとして、もう一度深呼吸をした。スケートリンクにいるサラのことを考えた。今夜のデートはやめて帰ろうと考えているかもしれない。ジェフリーが一歩踏み出すと、サラは二歩あとずさる。そうする理由は理解できたが、だからといって納得しているわけではない。
 ジェフリーは背中を汗が伝うのを感じながら壁にもたれた。八月は全力でやってきた。記録的な暑さだったジョージア州の六月と七月が冬に思えるほどだ。外に出ると、濡(ぬ)れたタオル越しに息をしているように感じる日が何度かあった。ネクタイを緩め、風がいくらかでも通るようにシャツのいちばん上のボタンをはずした。
 建物の前から短い笑い声があがり、ジェフリーは駐車場がよく見えるように角の向こう側をのぞきこんだ。おんぼろの古いカマロの脇にたむろする少年たちが、順に煙草(たばこ)をまわして吸っている。公衆電話は建物の横手にあったから、ジェフリーの姿は鮮やかな緑と黄色の張り出し屋根の陰になっていた。マリファナのにおいを嗅いだ気がしたが、確信はない。少年たちには、よからぬことを企(たくら)んでいるような雰囲気があった。そう感じたのはジェフリーが警察官だからではなく、あれくらいの年の頃に同じようなグループとつるんでいた経験があるからだ。
 声をかけようかどうしようか迷っていると、マーラが電話に出た。
「こんばんは、グラント郡警察です。お待たせしました。どういったご用件でしょう?」
「マーラ、ジェフリーだ」
「あら、署長。邪魔してすみません。お店のひとつで誤警報があったんです」
「どこだ?」ダウンタウンで安物雑貨店を経営しているベティ・レイノルズからついさっきたっぷり聞かされた苦情を思い出しながら訊いた。
「クリーニング店です。バージェスじいさんがうっかり鳴らしてしまったみたいで」
 ジェフリーは、とっくに七十歳を超えているマーラがビル・バージェスを〝じいさん〟と呼ぶことに驚いたが、そのまま聞き流した。「ほかには?」
「軽食レストラン(ダイナー)でなにかあったらしくてブラッドが連絡してきたんですが、なにも見つかりませんでした」
「彼はなんで連絡してきたんだ?」
「なにか見たような気がするとしか言っていませんでした。ブラッドがどんなふうだか知っているじゃないですか。自分の影を見て通報してきたりするんですよ」マーラはくすりと笑った。ブラッドは警察署のマスコットのような存在だった。二十一歳だが、丸い顔と細い金色の髪のせいで少年のように見える。ブラッドの帽子を盗んで町のあちこちのランドマークのまわりに隠すのが、年上の警察官たちのお気に入りの冗談になっていて、高校の正面にあるリー将軍の像がかぶっているのを、先週ジェフリーは目撃していた。
 ジェフリーはサラのことを考えた。「今夜はフランクが担当だ。だれかが死んだのでもないかぎり、おれを呼ばないでくれ」
「一石二鳥というやつですね」マーラはまた笑った。「一本の電話で検死官と署長を呼び出せるんですから」
 バーミンガムからグラント郡に異動してきたのは、だれもが隣人を知っているような小さな町がよかったからだと、ジェフリーは改めて自分に言い聞かせた。彼の個人的な問題をみなに知られているのは、その代償のようなものだ。なにかあたりさわりのない返事をしようとしたとき、駐車場から大きな悲鳴が聞こえた。
 角の向こう側をのぞきこんだのとほぼ同時に、少女の叫び声が聞こえた。「くたばれ。くそったれのろくでなし」
 マーラが訊いた。「署長?」
「ちょっと待ってくれ」怒りに満ちた少女の声に、ジェフリーははらわたを締めつけられる気がした。これまでの経験から、腹を立てた少女というのは土曜の夜の駐車場で対応するには最悪の相手であることがわかっている。これが少年なら対処できる。単なる口論だし、たいていの場合、若者は本物の喧嘩(けんか)になるのを止めてほしいと思っているものだからだ。だが若い娘はなかなか怒らない代わりに、一度腹を立てると落ち着かせるのがものすごく大変だ。激怒しているティーンエイジャーの少女は恐ろしい存在だ。その手に銃が握られているとなれば、なおさらだった。
「殺してやる。くそったれのろくでなし」彼女はひとりの少年を怒鳴りつけた。少年の友人たちは素早く半円に広がり、胸に銃を向けられた少年はひとりでその場に立っていた。ふたりはほんの一・二メートルほどしか離れておらず、ジェフリーが見ている間に少女は一歩踏み出して、その距離を詰めた。
「くそっ」ジェフリーはつぶやいてから、電話中だったことを思い出して、指示を出した。「フランクとマットをいますぐ〈スケイティーズ〉によこしてくれ」
「ふたりはマディソンに行っています」
「それじゃあレナとブラッドだ。サイレンは鳴らすな。正面の駐車場に銃を持った娘がいる」
 ジェフリーは全身で緊張を感じながら、受話器を戻した。喉は締めつけられるようだったし、頸動脈(けいどうみゃく)は喉の奥で拍動する蛇になったかのようだ。数秒の間に千もの事柄が脳裏をよぎったが、それらすべてを脇へ押しやりながらスーツの上着を脱いで、ホルスターを背中にまわした。両手を横に広げて、駐車場へと進んでいく。彼の姿が視界に入ると、少女はちらりとこちらを見たが、少年に向けた銃はそのままだった。銃口は少年の腹を狙っていて、ジェフリーがさらに近づいていくと銃を握る手が震えているのが見えた。幸いなことに、彼女の指はまだ引き金にはかかっていない。
 ジェフリーは建物に沿って進んだ。少女はリンクに背を向けていて、前方に駐車場と幹線道路がある。ブラッドを建物の横側から来させるだけの機転がレナにあることを祈った。大勢に囲まれていると感じたら、少女がなにをするか予想がつかない。愚かなひとつの過ちが、大勢の命を奪うことになりかねなかった。
 少女たちから六メートルほどまで近づいたところで、ジェフリーは全員の注意を引けるくらいの声で言った。「やあ」
 ジェフリーが近づいてきていることに気づいていたにもかかわらず、少女はぎくりとした。引き金に指がかかった。マウスガンと呼ばれるベレッタ三二口径で、一発で行動不能にできるほどの威力はないが、近距離からであればかなりのダメージを与えることが可能だ。少女にはその銃でだれかを殺すチャンスが八回ある。射撃の名手であれば─この距離なら猿でもはずさないだろう─その手の中に八人の命を握っていることになる。
「おまえたちはさがれ」ジェフリーはまわりに立つ少年たちに言った。少年たちはしばらくためらっていたが、やがてジェフリーの言葉を理解したのか、駐車場の入り口に向かって歩き始めた。これだけの距離があるというのに、マリファナのにおいがつんと鼻をついた。少年はゆらゆらと体を揺らしていて、少女に不意に銃を突きつけられるまで、かなりの量を吸っていたのだろうとジェフリーは思った。
「あっちへ行って」全身を黒でまとめた少女はジェフリーに告げた。暑さのせいか、長袖Tシャツの袖を肘の上までめくっている。ティーンエイジャーになったかならないかくらいの年頃で、声もかわいらしかったが、口調はそれなりに険しかった。
 彼女は同じ言葉を繰り返した。「あっちへ行ってって言ったの」
 ジェフリーが動こうとしなかったので、少女は少年に視線を戻した。「あたしは彼を殺すから」
 ジェフリーは両手を伸ばした。「なぜだ?」
 少女はその質問に驚いたようだったが、それこそがジェフリーの目的だった。銃を握っている人間は、あまり多くのことを考えたりはしないものだ。彼女の注意がジェフリーに向けられると、銃口がわずかにさがった。
「あいつを止めるため」
「なにを止めるんだ?」
 少女はその質問の答えを考えているようだった。「それは他人には関係ない」
「そうなのか?」ジェフリーは答えながら、一歩、二歩と近づいた。少女から五メートル弱のところで足を止めた。様子を見て取れるくらいには近いけれど、彼女を脅かすほどではない距離だ。
「そうです、サー」少女の礼儀正しい答えに、ジェフリーはいくらかほっとした。〝サー〟と言う少女は人を撃ったりしない。
「いいかい」ジェフリーはなにを言えばいいだろうと考えた。「おれがだれなのか、わかるかい?」
「はい、サー。トリヴァー署長です」
「そうだ。きみのことはなんて呼べばいい? きみの名前は?」
 少女は答えなかったが、マリファナでぼんやりしている脳みその焦点がようやく合ってなにが起きているかに気づいたかのように、少年が代わりに言った。「ジェニー。ジェニーだ」
「ジェニー?」ジェフリーは彼女に尋ねた。「かわいい名前だ」
「え、うん、まあ」ジェニーは明らかに驚いたようで、しどろもどろになっている。だがすぐに気を取り直して言った。「お願いだから黙って。あなたとは話したくない」
「そうかな。きみには言いたいことがたくさんあるように思えるが」
 ジェニーは反論しかけたように見えたが、銃を持ちあげて少年の胸に狙いをつけ直した。その手はまだ震えている。「あっちへ行って。でないと彼を殺す」
「その銃で? 銃でだれかを殺すのがどういうことかわかっている? どんな気持ちがするものか、わかっている?」ジェニーの様子を眺めていたジェフリーには、彼女がそこまで考えていなかったことはすぐにわかった。
 ジェニーは大柄な少女だった。おそらく二十キロほど太りすぎだろう。全身を黒でまとめた、常に背景に埋もれてしまうような少女のひとりだ。彼女が銃を向けているのは、女の子が勝手に熱をあげそうなハンサムな少年だった。ジェフリーの時代であれば、ジェニーは少年のロッカーにいやがらせの手紙を入れていただろう。だがいま彼女は少年に銃を向けている。
「ジェニー」銃に弾は入っているのだろうかと思いながら、ジェフリーは口を開いた。「話し合おう。彼に、こんなことをするだけの価値はないよ」
「あっちへ行って」ジェニーは繰り返したが、その声にさっきほどの断固とした響きはなかった。彼女は空いているほうの手で顔をぬぐった。泣いていることにジェフリーは気づいた。
「ジェニー、そんな─」彼女が安全装置をはずしたので、ジェフリーは言葉を切った。カチリという金属製の音が、まるでナイフのように耳に突き刺さった。背中に手をまわして銃に手を当てたが、取り出しはしなかった。
 ジェフリーは落ち着いた理性的な口調を失うまいとした。「なにがあったんだ、ジェニー? 話してみないか? それほど大変なことじゃないはずだ」
 ジェニーはまた顔をぬぐった。「いいえ、サー。大変なことなの」
 その声があまりに冷たかったので、ジェフリーは首筋がぞくりとするのを感じた。体の震えを抑えこみながら、ホルスターから銃を出した。警察官である彼は銃にどれほどのことができるかを承知していたから、銃が大嫌いだった。銃を携帯しているのはそうしなければならないからであって、そうしたいからではない。警察官になってからの二十年の間に、ジェフリーが容疑者に銃を向けたのは片手で数えられるほどだ。そのうち引き金を引いたのは二度だが、人間に向かって発砲したことは一度もなかった。
「ジェニー」ジェフリーはいくらか強い口調で言った。「おれを見るんだ」
 ジェニーは永遠にも思える間、目の前の少年をただじっと見つめていた。ジェフリーは、彼女が自分をコントロールできるようになるまで無言で待った。やがてジェニーはゆっくりと顔をジェフリーに向けた。視線が下に向けられ、彼が体の脇で構えている九ミリの銃に気づいた。
 不安そうに唇をなめたのは、どれほど危険が迫っているのかを判断しているのだろう。だが彼女が発した言葉には、銃と同じくらい危険な響きがあった。「あたしを撃って」
 聞き間違いだとジェフリーは思った。予期していた言葉とはあまりに違いすぎる。
 ジェニーは繰り返した。「あたしを撃って。でないと、彼を撃つから」そう言いながら、ジェニーはベレッタを少年の頭に向けた。ジェフリーは、彼女が両足を肩幅に広げ、もう一方の手で台尻を包むのを眺めた。その姿勢は、銃の打ち方を知っている若い女性のものだ。両手はもう震えておらず、まっすぐに少年を見つめている。
 少年は哀れっぽい声をあげた。「やめてくれ」彼が失禁し、アスファルトに尿が飛び散る音がした。
 ジェニーが発砲すると同時にジェフリーは銃を構えたが、彼女が撃った弾は少年の頭を大きくはずれ、プラスチックの看板と建物の張り出し屋根の一部を砕いた。
「なんだ?」ジェフリーは、ジェニーがまだ立っているのは引き金を引くなと直感が命じたからであることを知りつつ、つぶやいた。彼女は〈スケイティーズ(Skatie’s)〉のiの点の中央を打ち抜いていた。このプレッシャーの中、自分の部下のほとんどはあれほどの正確さで撃てないだろうとジェフリーは思った。
「いまのは警告」ジェフリーは答えが返ってくるとは思っていなかったが、ジェニーは言った。「あたしを撃って。撃たなければ、いまここであいつの脳みそを吹き飛ばしてやるから」彼女はまた唇をなめた。「できるんだから。これの使い方なら知ってる」ジェニーはその言葉の意味を示すように、銃を小さく振った。「あたしが撃てるってわかったでしょう?」ベレッタの反動を受け止められるように、ジェニーはまた足を開いて構えた。銃口をわずかに動かし、看板のアポストロフィーを吹き飛ばした。駐車場にいた人々は逃げ出したか、叫んだかしたのだろうが、ジェフリーは気づかなかった。ジェニーの銃の銃口から立ちのぼる煙しか目に入っていなかった。
 再び息ができるようになったところで、ジェフリーは言った。「看板と人間は全然違うぞ」
 ジェニーはなにごとかつぶやき、ジェフリーはかろうじてそれを聞き取った。「あいつは人間じゃない」
 ジェフリーの視界の隅でなにかが動いた。サラだとすぐに気づいた。スケート靴を脱いでいるせいで、黒いアスファルトの上で白いソックスが目立っていた。
「ハニー?」サラの声は恐怖のあまり、普段より高くなっている。「ジェニー?」
「あっちへ行って」険しい口調ではあったが、その声はほんの数秒前の怪物じみた少女ではなく、不機嫌な子供のようだった。「お願い」
「彼女は無事よ」サラが言った。「ついさっき、彼女を見つけたの。大丈夫だから」
 銃がぐらりと揺れたが、心に決めていたことを思い出したのか、少女は再び銃を構えて少年の眉間に狙いをつけた。決意と共に死の声も戻ってきたらしく、ジェニーは言った。「嘘よ」
 ジェフリーはサラをひと目見ただけで、ジェニーの言うとおりであることを悟った。サラは嘘がうまくないから、見抜くのは簡単だった。それを差し置いても、サラのシャツの前部とジーンズが血まみれであることは、この距離からでも見て取れた。リンクにいるだれかが怪我(けが)をしている。そしてひょっとしたら、いやおそらく、死んでいる。ジェニーに視線を戻したジェフリーは、少女の柔らかそうな顔と危険な存在としての彼女をようやく重ね合わせることができるようになった。
 ジェフリーは自分の銃の安全装置がかかったままであることに気づいてはっとした。音を立ててはずしながら、さがっていろというように険しい顔をサラに向けた。
「ジェニー?」サラがごくりと唾を飲んだのがわかった。歌うような彼女の声を聞いたのは初めてだ。サラは子供にも決して偉そうな口のきき方はしない。ジェニーが関わったなんらかの暴力沙汰のせいで、サラはこんな話し方をしているのだ。どう考えればいいのかわからなかった。リンクで銃声は聞こえなかったし、さっき警備員のビューエル・パーカーと会ったとき、彼はなにも問題ないと言っていた。ビューエルはどこだとジェフリーは考えた。リンク内の現場にいて、だれも近づけないようにしているのだろうか? リンクでジェニーはいったいなにをした? いまここで時間を止めて、なにがあったのかを知ることができればなんでも差し出すのに。
 ジェフリーは、薬室に弾を送りこんだ。その音を聞いてサラはさっと振り返り、だめ、落ち着いて、やめてとでも言うように、下に向けた手を彼のほうに突き出した。ジェフリーは彼女の肩越しにリンクの入り口を見た。ガラスに鼻を押しつけている野次馬たちの姿が見えるかと思ったが、そこに人気(ひとけ)はなかった。リンクで起きた出来事は、いま目の前で繰り広げられていることよりも面白いのだろうか?
 サラはもう一度試みた。「彼女は無事よ、ジェニー。自分で確かめるといいわ」
「ドクター・リントン」ジェニーの声は震えていた。「お願いだから、あたしに話しかけないで」
「いい子ね」サラの声も同じくらい震えている。「わたしを見て。お願いだから、わたしを見て」ジェニーが応じなかったので、サラは再び言った。「彼女は無事よ。嘘じゃない。本当に大丈夫なの」
「嘘よ。あなたたちはみんな嘘つき」ジェニーは少年に視線を戻した。「あんたは最悪の嘘つき。あんなことをしたあんたは地獄で焼かれるんだ、このろくでなし」
 少年は口から唾を飛ばしながら、激高して言った。「おまえとそこで会うんだろうな、くそあま」
 ふたりの間でなにかが伝わったらしかった。ジェニーが口を開いたとき、その声は子供のようだった。「そうなるだろうね」
 ジェフリーは視界の隅で、サラが一歩前に出たのをとらえた。ジェニーが銃身の短い銃の狙いをつけ直し、まっすぐ少年の頭に向けるのを見た。少女は身じろぎもせずその場に立ち、待っている。その手は揺れていなかったし、唇は震えていなかったし、ためらっている様子はなかった。ジェフリーよりも、いますべきことの覚悟ができているように見えた。
「ジェニー……」ジェフリーは、この状況を脱する方法を探っていた。少女を撃つつもりはない。こんな子供を撃てるはずもなかった。
 ジェニーは背後を振り返り、ジェフリーはその視線をたどった。パトカーがようやくやってきて、銃を手にしたレナ・アダムズとブラッドが降りてきた。ジェフリーを頂点として、教科書どおりに三角形を作っている。
「あたしを撃って」ジェニーは少年に銃を向けたまま言った。
「武器をおろせ」ジェフリーはレナとブラッドに命じた。ブラッドは従ったが、レナはためらっている。ジェフリーは険しいまなざしをレナに向け、もう一度命令しようとしたところで、彼女はようやく銃をおろした。
「撃つんだから」ジェニーが言った。ありえないくらい微動だにしない彼女を見て、この状況にこれほどの覚悟を持って立ち向かえるのは、どんな理由があるのだろうとジェフリーは考えた。
 ジェニーは払いをして言った。「撃つんだから。前にもやったことがあるんだから」
 ジェフリーはその言葉を確かめようとサラを見たが、彼女の目には銃を手にした少女しか映っていなかった。
「前にもやったことがあるんだから。あたしを撃ってよ。どっちにしろ、あいつを殺してから、あたしも自分を撃つんだから」
 その夜初めてジェフリーは、撃つことを真剣に考えた。彼女が何歳であれ、目の前にいる少年にとっては脅威であることを受け入れろと自分に命じた。脚か肩を撃っても、彼女が発砲する時間は充分にある。たとえ胴を狙ったとしても、倒れる前に引き金を引くことはできるだろう。銃口がどこを向いているかを考えれば、彼女が地面に倒れたときには少年は死んでいる。
「男なんて弱虫」ジェニーが銃の狙いをつけながら言った。「あんたたちは正しいことをしたことなんてない。そうするって言ったのに、絶対にしない」
「ジェニー……」サラが懇願するように言った。
「五つ数える」ジェニーが少年に告げた。「一」
 ジェフリーはごくりと唾を飲んだ。心臓の鼓動が耳の中であまりに大きく響いていたので、数を数える彼女の声は耳ではなく目で聞いていた。
「二」
「ジェニー、お願いだから」サラは祈っているかのように、体の前で両手を組んだ。その手は血のせいで黒ずんで見えた。
「三」
 ジェフリーは狙いをつけた。彼女は撃たない。撃つはずがない。ようやく十三歳というところだろう。十三歳の少女が人を撃ったりはしない。自殺に等しい。
「四」
 ジェフリーは引き金にかかった少女の指に力がこもり、それにつれて前腕の筋肉がゆっくりと動くさまを眺めた。
「五!」少女は首の血管を浮き立たせながら叫んだ。ベレッタの反動に備えて身構えた。「あたしを撃ってってば!」彼女の腕の筋肉が張りつめ、手首が固定されたのがわかった。時間の流れがゆっくりになったように感じられた。
 ジェニーはジェフリーに最後のチャンスを与えた。「あたしを撃って!」
 ジェフリーはそのとおりにした。

3


 二十八週だったジェニー・ウィーヴァーの子供は、母親がトイレに流そうとしなければ子宮の外でも生存可能だったかもしれない。胎児は充分に発育していたし、栄養状態もよかった。脳幹は無傷だったから、医療の手助けがあれば、いずれ肺は完全に機能するようになっていただろう。手は物をつかむことを、足は曲げることを、目はまばたきすることを学んだだろう。口はいずれ、いまサラに訴えている恐怖とは違う言葉を発することを覚えたはずだ。肺は空気を取りこみ、口は生きようとしてあえいだ。そして、そのあとで殺された。
 この三時間半、サラはジェニーがトイレに残していた部位と、テレビゲーム室のそばのゴミ箱から発見された赤いバックパックに入っていた部位をつなぎ合わせ、赤ん坊をもとどおりの形にしようとしていた。いつものベースボール・ステッチではなく細かい縫い目で、子供の形になるように紙のように薄い皮膚を縫い合わせていった。手が震えていた。指が素早く動いてくれず、一度ではうまく結べなくてやり直さなくてはならないことが何度かあった。
 それでもだめだった。細かい縫い目でつなぎ合わせようとしても、それはまるでセーターに糸を通すようだった。どこかを修復するたびに、隠せない箇所が出てきてしまう。赤ん坊が負った傷を隠すことは不可能だ。最後にはサラも、自ら始めた作業が徒労であることを認める気になった。この子は、母親が最後に見たときとほぼ同じ姿で葬られることになる。
 サラは大きく深呼吸をすると、サインをする前に報告書にもう一度目を通した。解剖を行うのに、ジェフリーかフランクが来るのを待たなかった。サラが行った切開や切断や縫合を見ていた者はいない。サラはあえてだれにも見せなかった。だれかが見ているところでその作業ができるとは思えなかったからだ。
 サラのオフィスと遺体安置所は大きな窓で隔てられていて、サラは椅子の背もたれに体を預け、解剖台に載せられた黒い遺体袋を眺めた。ぼんやりと思考を漂わせていると、さっきまで調べていた死の代わりに、別のものが頭に浮かんできた。笑うことや泣くことや愛することや愛されること。やがて現実が戻ってきた。ジェニーの赤ん坊はそういったものを決して知ることはない。ジェニー自身もほとんど知らないままだっただろう。
 数年前の子宮外妊娠のせいで、サラは子供を産むことができなくなっていた。当時は耐えられないくらい辛(つら)かったれど、時間と共に痛みは薄れてきていたし、決して手に入らないとわかっているものを欲しがることはやめていた。それでも、解剖台の上の望まれなかった赤ん坊、実の母親に命を奪われた赤ん坊を見ると、当時の感情が戻ってきた。
 サラの仕事は子供の面倒を見ることだ。子供たちを腕に抱き、揺らし、あやす。自分の子供に対しては決してできないことだった。遺体安置所の黒い袋を見つめていると、自分の子が欲しいという思いが驚くほどの鮮明さで蘇(よみがえ)ってきて、同時に湧き起こったむなしさで胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
 階段から足音が聞こえたので、サラは姿勢を正して涙をぬぐい、気持ちを落ち着けようとした。ジェフリーが遺体安置所に入ってきたのは、机の天板に手のひらを当てて立ちあがろうとしているときだった。冷静さを取り戻そうとしながら眼鏡を捜していると、いつもはまっすぐ彼女のオフィスにやってくるジェフリーが来ていないことに気づいた。彼が黒い袋の前で立っているのがガラス越しに見えた。サラの姿が視界に入っていたとしても、認識はしていないようだ。両手を背中にまわし、解剖台に身を乗り出している。なにを考えているのだろうとサラはいぶかった。あの赤ん坊が送るはずだった人生のこと? それとも、サラには子供が産めないという事実を思い出しているのだろうか?
 サラは解剖報告書を抱えてその部屋に入っていきながら、払いをした。解剖台の端に報告書を置き、赤ん坊をはさんでジェフリーの前に立った。口を開けたままの大きすぎる遺体袋は、毛布のように赤ん坊をくるんでいる。袋のファスナーを閉じてこの子をに包み、冷凍庫の棚に入れるだけの心の強さがサラにはなかった。
 なにを言えばいいのかわからなかったから、サラは黙っていた。白衣のポケットに片手を入れると、そこに眼鏡があったので驚いた。眼鏡をかけたところで、ジェフリーがようやく口を開いた。
「つまり」ここしばらく喉を使うことがなかったかのように、声は低くしゃがれていた。「赤ん坊をトイレに流そうとすると、こういうことになるわけだ」
 彼の無神経さにサラは心臓が止まりそうになり、どう応じればいいのかわからずにいた。眼鏡をはずし、なにかすることが欲しくてシャツの裾でレンズを拭いた。
 ジェフリーは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。サラは彼に一歩近づき、アルコールのにおいがすると思った。だが同時に、ジェフリーは土曜日に大学のフットボールの試合を見ながらたまにビールを飲むくらいで、滅多にお酒を口にすることはなかったから、それはありえないと考えていた。
「小さな足」ジェフリーは赤ん坊を見つめたままつぶやいた。「普通でもこんなに小さいのか?」
 やはりサラは答えなかった。赤ん坊の足を、十本の指を、足の裏のしわだらけの皮膚を見つめた。母親がキスするだろう足。庭師が薔薇(ばら)の茂みの花を数えるように、母親が毎日数えるだろう指。
 サラは唇を噛(か)んで、再び感情に流されまいとした。胸に開いた穴に呑(の)みこまれそうで、無意識のうちに心臓の上に手を当てていた。
 ようやく顔をあげることができるようになると、ジェフリーが自分を見つめていることに気づいた。彼の目は充血していて、虹彩(こうさい)から幾筋もの細く赤い線が伸びていた。まっすぐ立っているのが難しいようだ。それがアルコールのせいなのか、それとも悲嘆のせいなのか、サラには判断できなかった。
「お酒は飲まないと思っていたけれど」サラはそう言いながら、咎(とが)めるような口調になっていることに気づいた。
「自分が子供を撃つとも思わなかったよ」ジェフリーはサラの背後のなにかを見つめている。
 サラは彼を慰めたかったけれど、自分自身の悲しみに縛られてしまっていた。
「フランクだ」ジェフリーが言った。「ウィスキーを一杯飲まされた」
「楽になった?」
 彼の目が潤み、それをこらえようとしているのをサラは見て取った。彼は奥歯を噛みしめ、乾いた笑みを浮かべた。
「ジェフリー─」
 ジェフリーは自分から質問をすることで、サラの懸念を封じた。「なにか見つかったか?」
「いいえ」
「おれは─」ジェフリーは顔を伏せたが、赤ん坊を見つめているわけではなかった。その視線はタイル貼りの床に注がれていた。「どういう態度を取ればいいのかわからない」ようやく口を開いた。「なにをするべきなのか、わからないんだ」
 その声のなにかが、サラの心の奥深くに突き刺さった。こんなふうに打ちひしがれた彼を見るのは、自分自身が味わっている痛みよりも辛かった。解剖台の向こう側にまわり、ジェフリーの肩に手を乗せたが、彼はこちらを向こうとはしなかった。
「彼女は撃つつもりだったと思うか?」ジェフリーが尋ねた。
 サラは喉になにかがつかえるのを感じた。たったいままで、そのことは考えないようにしていた。ジェニーはサラに背を向けていた。現場をはっきり見ることができたのは、ジェフリーとレナとブラッドだけだ。
「サラ?」
 自分に向けられたジェフリーのまなざしを見たサラは、いまは曖昧なことを言うべきではないと悟った。
「思うわ」サラはきっぱりと答えた。「きれいに命中していた。撃たなきゃいけなかったのよ、ジェフリー」
 ジェフリーは彼女から離れると、壁際まで歩いていき、向きを変えてもたれた。「マークが父親なんだろう?」壁に頭をもたせかける。「彼女が撃とうとした少年が?」
 サラは両手をポケットに入れ、彼に近づいていかないように両足をしっかり踏みしめた。「それで筋が通るわね」
「彼の両親は、明日になるまでおれたちを息子に会わせないと言っている。知っていたか?」
 サラはゆっくりと首を左右に振った。マークはなにかの疑いをかけられているわけではない。胸に銃を突きつけられたからといって、逮捕することはできないのだ。
「彼はもう充分に辛い思いをしたと言っている」ジェフリーはがっくりと頭を垂れた。「なにが彼女にあんなことをさせたんだろう? いったい彼女はどんな目に遭ったんだ……?」ジェフリーの声は尻すぼみに途切れ、再びサラに視線を戻して尋ねた。「きみの患者だったんだろう?」
「三年ほど前に越してきたのよ」サラは気持ちを切り替えようとして、言葉を切った。彼の行為について語り合うのではなく、ほかの事件と同じような調子で話をするほうが、ジェフリーを楽にするとわかっていた。それは、サラの必要としていることではないという事実は、いまは重要ではなかった。
 ジェフリーが訊いた。「どこから?」
「北部のどこかだったと思う。母親がかなり揉(も)めたらしい離婚をして、そのあとここに越してきたの」
「どうしてそんなことを知っているんだ?」
「親がいろいろと話してくれるのよ」サラは一度言葉を切った。「ジェニーが妊娠していたのは知らなかった。少なくとも、ここ半年は診ていなかったと思うわ。もっとかもしれない」サラは胸に手を当てた。「本当にかわいい子だった。こんなことをするなんて、夢にも思わなかった」
 ジェフリーは目をこすりながらうなずいた。「テッサは、トイレから出てきた人間を判別できるかどうかわからないと言っている。ブラッドが学校からイヤーブックを借りてきて、見覚えがある人間がいるかどうか確かめてもらうつもりだ。きみにも見てもらいたい」
「もちろんよ」
「ひどく混んでいたからな」ジェフリーが言っているのは、もちろんスケートリンクのことだ。「供述を取る前に客は帰ってしまった。全員を見つけられるかどうかはわからない」
「なにかわかったことはあるの?」
 ジェフリーは首を横に振った。「トイレに入っていったのはふたりだっていうのは間違いないのか? ジェニーともうひとり?」
「わたしが見たのはそれだけ」サラは答えたが、今夜こんなことがあったあとでは、なにかに再び確信を持てるとは思えなかった。「その子の顔は見ていないの。わたしの患者だったら、だれなのかきっとわかったと思うんだけれど。多分」サラは記憶をたぐろうとしたが、なにも浮かんではこなかった。「背が高かった。野球帽をかぶっていたような気がする」
 ジェフリーが顔をあげた。「色を覚えている?」
「暗かったのよ、ジェフリー」彼を落胆させることを承知しつつ、サラは答えた。どうしてあれほど多くの証人が進んで偽りの証言をするのか、いまならわかる。もうひとりの少女がだれなのかを答えられない自分が、ばかで役立たずになった気がした。その埋め合わせをするために、本当の記憶かもしれないし、そうではないかもしれない思いつきの情報をサラの心は彼に与えたがっていた。
 サラは言った。「よく考えてみたら、あれが野球帽だったかどうかもはっきりしないわ。注意していたわけじゃないもの」笑顔を作ろうとした。「あなたを捜していたのよ」
 ジェフリーは笑みを返さなかった。「彼女の母親と話をした」
「なんて言ったの?」
 彼の声に軽薄な調子が戻ってきた。「あなたの娘さんを撃ちました、ミセス・ウィーヴァー。すみませんって」
 サラは下唇を噛んだ。大きな郡であれば、ジェフリーが肉親の死を家族に告げに行くことはなかっただろう。調査が終わるまで、休職になっていたはずだ。だがもちろん、グラント郡は大きいとは言えない。すべての責任はジェフリーの肩にかかっていた。
「母親は解剖を望まなかった。選択肢はないことをおれは説明しなきゃならなかった。母親は……」ジェフリーは一拍置いてから言った。「母親は、娘は二度殺されるんだと言った」
 サラは胃のあたりにずしりと罪悪感を覚えた。
「子殺しと呼ばれたよ。おれは子殺しになったんだ」
 サラは首を振った。「あなたに選択肢はなかった」それが事実であることはわかっていた。サラは彼を愛し、人生の一部を共にしたのだ。彼が判断を誤ることはありえない。
 サラは言った。「あなたは手順に従った」
 ジェフリーは冷ややかに笑った。
「ジェフ─」
「彼女は撃ったと思うか?」ジェフリーはまた同じことを尋ねた。「おれはそう思わないんだよ、サラ。あのときのこと思い返してみると、彼女はなにもせず立ち去っていたかもしれないという気もする。きっと彼女は─」
「これを見てよ」サラは彼を遮り、解剖台を示した。「彼女は自分の子供を殺したのよ、ジェフリー。父親のことは殺さなかっただろうって本当にそう思うの?」
「それはわからないだろう?」
 濃い雲のような沈黙が広がった。病院の地下にある遺体安置所はタイル貼りで、どこか役所的な雰囲気がある。聞こえるのは冷凍庫のコンプレッサーの音だけだったが、カチリという大きな音と共にスイッチが切れて、その音が部屋の壁に反響した。
「赤ん坊は生きていたの?」ジェフリーが訊いた。「産まれたときは、生きていた?」
「医師の手当なしには、長くは生きられなかったでしょうね」サラは質問をはぐらかした。どういうわけか、ジェニーをかばいたかった。
「赤ん坊は生きていたの?」ジェフリーはもう一度尋ねた。
「あの子はとても小さかった。生きられたとは……」
 ジェフリーは解剖台に戻ってきた。ポケットに両手を突っ込んで、赤ん坊を見つめている。「おれは……おれは家に帰りたい。きみにも一緒に来てほしい」
「わかった」サラは答えた。彼の言葉は聞こえていたが、なにをしてほしいのかはよくわかっていなかった。
「きみを抱きたい」
 サラの目に驚きの表情が浮かんだに違いない。
「おれは─」ジェフリーは言いかけて口をつぐんだ。
 サラは虚脱感を覚えながら、彼を見つめた。「子供を作りたいのね」
 彼がまったくそんなことを考えていなかったのは、その目を見ればよくわかった。屈辱感がサラの胸に広がった。心臓が喉元までせりあがってきて、声が出せなくなった。
 ジェフリーは首を振った。「そんなことを言おうとしたんじゃない」
 サラは彼に背を向けた。頬が燃えるようだ。すでに口にしてしまったことをごまかす言葉は思いつかなかった。
「おれはきみが─」
「忘れて」
「おれはただ─」
 サラが腹を立てていたのは自分であってジェフリーではなかったが、「忘れてって言ったでしょ」と言った口調は険しかった。
 ジェフリーがしばし黙りこんだのは、言うべき言葉を探していたのだろう。ようやく口を開いたとき、その口調は悲しげだった。「おれは五時間ほど時間を戻したいんだ」サラが振り返るのを待って、ジェフリーは言葉を継いだ。「きみと一緒にいたあのいまいましいスケートリンクに戻りたい。おれのポケベルが鳴ったら、ゴミ箱に放りこみたい」
 サラは自分がなにを言い出すのかわからなかったので、黙って彼を見つめていた。
「それがおれの望みだよ、サラ。ほかのことは考えていなかった。きみが言ったことは─」
 サラは片手をあげて、彼を黙らせた。階段から足音が聞こえる。ふたりだ。サラは涙をぬぐいながら、自分のオフィスに戻った。机の上の箱からティッシュペーパーを取り出して鼻をかみ、ゆっくりと五つ数えている間に心の準備を整え、屈辱感を呑みこんだ。
 サラが振り返ったときには、刑事のレナ・アダムズとブラッド・スティーヴンスが遺体安置所にいて、サラと同じように自分の感情に蓋をしたジェフリーと並んで立っていた。三人とも、現場で警官がするように背中で手を組んでいる。うっかりなにかに触ったりしないためだ。その瞬間、サラは三人を─ハエのように無害なブラッド・スティーヴンスさえも─憎んだ。
「こんにちは、ドクター・リントン」サラが入っていくと、ブラッドは帽子を取って挨拶をした。その顔は普段より青白くて、目には涙が浮かんでいる。
「悪いけれど……」サラは言いかけて口ごもり、払いをした。「悪いけれど、上に行ってシーツを取ってきてくれるかしら? ベッドのシーツよ。四枚ほど」シーツが必要なわけではなかったが、ブラッドはかつてサラの患者だった。サラはいまでも彼を守らなければならない気がしていた。
 やることができてほっとしたらしく、ブラッドは笑顔で応じた。「わかりました」
 ブラッドが出ていくと、レナは事務的に尋ねた。「赤ん坊は終わったんですか?」
「ああ」その場にいなかったにもかかわらず、ジェフリーが答え、解剖台の端に置かれた報告書に気づいて手に取った。彼が胸ポケットからペンを取り出して、報告書の最後にサインをしている間、サラはなにも言わなかった。厳密に言えば、立ち会いの人間もなしに解剖を行ったサラはいくつかの法を犯したことになる。
「女の子は冷凍庫なの?」レナは冷凍庫のドアに近づきながら尋ねた。いま目の前で起きているのがありふれた出来事であるかのような、無神経な足取りだった。サラは、レナがごく最近、大変な目に遭ったことは知っていたが、それでもその態度には腹立ちを覚えた。
「ここ?」レナは冷凍庫のドアに手をかけて訊いた。
 サラはうなずいただけで、動こうとはしなかった。ジェフリーがレナを手伝おうとして近づいていき、サラはどうすることもできず赤ん坊をくるんでいる袋のファスナーを閉めた。ジェニー・ウィーヴァーの遺体を載せたストレッチャーをレナとジェフリーが転がしてきたときには、サラの心臓はドラムのように打っていた。ふたりは解剖台のそばでストレッチャーを止め、サラが遺体袋を移動させるのを待っている。やがてジェフリーが大きな黒い袋を両手で抱えあげた。彼が頭とおぼしき部分を手で支えたところで、サラは顔を背けた。袋の端を引きずりながら、ジェフリーは冷凍庫に向かった。
 レナはわざとらしく腕時計を見た。サラは彼女をひっぱたきたくなったが、そうする代わりにシンクの脇にある金属製のキャビネットに歩み寄った。無菌包装の袋に入っていたガウンを着ると、ジェフリーはどうしてこんなに時間がかかっているのだろうと冷凍庫を振り返りながら考えた。レナとふたりで遺体を解剖台に載せようとしていたとき、ようやくジェフリーが戻ってきた。
「代わろう」ジェフリーがレナと交代し、白い磁器の解剖台にジェニー・ウィーヴァーの遺体を載せた。ウィーヴァーは大柄な少女だったから、その拍子に解剖台の頭の部分にあるホースがかたかたと揺れた。
 サラは黒いブロックに少女の頭を載せながら、自分を彼女のかかりつけ医ではなく検死官として考えようとした。グラント郡の検死官になってから十年、死亡した人間がサラの知り合いだったことは四回しかない。ジェニー・ウィーヴァーは、サラの患者でもあった初めての被害者だった。
 サラは消毒済みの器具が載ったトレイを動かし、必要なものすべてがそろっていることを確かめた。解剖台の頭部にある二本のホースは、検査の間、遺体から液体を吸引するために使われる。その上にある大きなはかりは、臓器の重さを量るためのものだ。台の足側には解剖用のトレイが置かれていた。解剖台そのものは、体液が外に漏れるのを防ぐために両側が高く、中央がくぼんだ形になっている。はっきりとわかるほど傾いていて、その先には大きな真鍮(しんちゅう)の排水管があった。
 遺体安置所でサラの助手を務めているカルロスが、ジェニー・ウィーヴァーの遺体を白いシーツで覆ってくれていた。喉の上あたりに、中くらいの大きさの赤い染みができている。サラは赤ん坊の処置をしている間、カルロスにジェニーを任せた。彼はジェニーのレントゲンを撮り、解剖の準備を整え、サラは赤ん坊のためにできるだけのことをしようと無駄な努力をした。ジェニーの処置が終わったら帰っていいというサラの言葉に驚いたとしても、カルロスはなにも言わなかった。
 サラはシーツを頭からはいでいったが、少女の胸の上でその手を止めた。傷はきれいとはとても言えない。首の右側のほとんどは、生肉の断片のようにぶらぶらしている。傷の周辺で黒く固まった血から軟骨と骨が突き出していた。
 サラは壁のライトボックスに近づいてスイッチを入れた。またたいて明かりがつき、カルロスが撮影したジェニー・ウィーヴァーのレントゲン写真が写し出された。
 自分が見ているものに納得がいかなかったサラは、写真を念入りに眺めた。ふたりに説明する前に、もう一度写真に記されている名前を確認した。「左上腕骨にうっすらと骨折のあとが見えるでしょう? できてから一年はたっていないわね。典型的な骨折とは違う。運動選手でなければなおさらね。つまりこれは、なんらかの虐待によるものだと考えられる」
「きみが治療したの?」ジェフリーが尋ねた。
「まさか」サラが答えた。「だとしたら、ちゃんと報告しているわ。どんな医者でも報告したはずよ」
「わかった」ジェフリーは両手をあげた。レナも突然、床に興味を持ったようだったから、思っていたよりも強い口調だったらしいとサラは気づいた。
 サラはレントゲン写真に視線を戻した。「肋軟骨(ろくなんこつ)のまわりにも怪我の跡がある。あばらのこのへんよ」サラは胸を写した写真を指さした。「ここ、胸骨の近く。うしろ向きに強く押されたときにできる打撲のようね」サラは言葉を切り、ジェニーは違う医者にかかったのだろうかと考えた。一年目の研修医でも、この手の怪我を見ればなにかおかしいと感づくだろう。
 サラは言った。「こんなことをした人間は、彼女より背が高かったはず。それに最近だわ」
 サラは別のレントゲン写真をライトボックスに取りつけた。胸の前で腕を組み、じっと眺める。「これは骨盤帯。座骨に薄い線があるでしょう? これは座骨にかなりの力が加わったということ。一般的には疲労骨折と呼ばれている」
「疲労って?」ジェフリーが訊いた。
 レナが答えたので、サラは驚いた。
「この子はレイプされたのよ」少女の目の色は青だと言うときと変わりない口調だった。「激しくレイプされた。そうね?」
 サラはうなずき、さらになにか言おうとしたところで、再び階段から足音が聞こえてきた。あのだらしない足音は、ブラッドが戻ってきたのだろうと見当をつけた。
「持ってきましたよ」ブラッドはうしろ向きに部屋に入ってきた。片手に帽子をぶらさげ、両腕でシーツを抱えている。
 サラは彼を止めた。「枕カバーも持ってきてくれた?」
「え?」ブラッドは驚いたようだ。首を振って答えた。「すみません、持ってきていません」
「いちばん上の階にあったと思うわ。最低四枚は欲しいの」
「わかりました」ブラッドはドアの脇のテーブルにシーツを置いた。
 彼が出ていくと、レナは腕を組んで言った。「彼は十二歳じゃないのよ」
 遺体安置所に入ってきてから初めて、ジェフリーはレナに話しかけた。彼らしくない言葉だった。「黙れ」
 レナは顔を赤くしたが、口をつぐんだ。それも彼女らしくない態度だ。
「胸の打撲は、鎮痛剤のタイレノールを投与する以外にできることはないの」サラはさらに説明した。「恥骨の骨折は治療しなくても治る。彼女が最近になって太ったのはそのせいかもしれない。骨折のせいであまり動けなかったはずだから」
 ジェフリーが尋ねた。「彼女のボーイフレンドが虐待していたんだと思うか?」
「だれかがしていたのね」サラはいま一度、レントゲン写真に目をやり、なにか見逃しているものがないかを確かめようとした。ジェニー・ウィーヴァーを何度か診たときも、虐待を疑ったことはなかった。彼女がどうやって、そしてなぜそれを隠していたのか、サラにはわからない。もちろん、喉の痛みにサラがレントゲン撮影を要請することはなかったし、ジェニーが着ているものを脱ぐこともなかった。診察の際、ジェニーは確かに一度も服を脱がなかった。十代の少女は自分の体についてとても神経質であることを知っていたから、サラはジェニーを恥ずかしがらせないように、常に彼女のシャツの下に聴診器を差し入れて、胸や肺の音を聞くことにしていた。
 サラは予備検査を再開するため、解剖台に戻った。シーツをはがしていく彼女の手は小さく震えていて、それを止めようとすることに気を取られていたせいで、現れたものに気づかなかった。
「なんてこと」レナはつぶやき、低く口笛を吹いた。
 ジェフリーは今回は咎めようはせず、サラはすぐにその理由を悟った。少女の体、特に腕と足には小さな切り傷がいくつもあった。新しいものもあれば古いものもあったが、なかには数日前につけられたように見える傷もあった。
「どういうことだ?」ジェフリーが訊いた。「彼女は自殺しようとしていたのか?」
 サラは皮膚の傷を眺めた。手首や外から見える場所にあるものはひとつもない。少女が真夏でも長袖のシャツを着ていた理由がこれで説明できる。左の前腕には深く切った跡が何本もうっすらと残っていた。手首から八センチくらいのところから始まっているのは、そこまで袖をまくりあげるからだろう。傷が濃い色をしているところを見れば、何度も繰り返し切ったことがわかる。脚の傷はもっと深く、十字模様に見えた。膝から太腿に向かって切ったのだろうと、サラは傷跡から判断した。少女が自分でやったのだ。
「これはなんだ?」わかっているはずなのに、ジェフリーが訊いた。
「切ったのよ」レナが言った。
「自傷行為」サラが訂正した。そうすれば、いくらかでも事態がましになるとでもいうように。「診療所で見たことがある」
「なぜだ? どうしてこんなことをするんだ?」
「たいていは愚かだからよ」サラは腹の奥で怒りを感じながら答えた。わたしは何度この子を診た? どれほどのサインをわたしは見逃していたの? 「どんなふうに感じるかを知りたいだけのときもあるけれど、たいていは結果を考えもせずに、人に見せつけるためにやるの。でもこれは」サラはジェニーの左腿の深い傷を見つめた。「これは違う。彼女は隠していた。人に知られたくなかったのよ」
「なぜだ?」ジェフリーが繰り返した。「どうしてそんなことをする?」
「コントロールしたいから」レナがそう言いながらジェニーに向けた表情が、サラは気に入らなかった。一目置いているような表情だ。
「重度の精神病よ」サラは反論した。「過食症や拒食症の患者がすることが多いわ。自己嫌悪のひとつの表れなの」サラは決然としたまなざしでレナを見つめた。「たいていはなにかきっかけがある。たとえば虐待とかレイプとか」
 レナは一瞬だけサラの視線を受け止めたが、すぐに顔を背けた。
 サラは言葉を継いだ。「ほかにも原因になることはある。薬物乱用、心の病、学校や家でのトラブル」
 サラはキャビネットに近づいて、包装されたプラスチック製の膣鏡(ちつきょう)を取り出した。手袋をはめ直し、袋から膣鏡を取り出して開いた。レナはその音にかすかに身じろぎした。彼女がいくらかでも感情を表すことができると知って、サラはほっとした。
 サラは遺体の足側にまわり、両脚を開いた。動きが止まった。サラの心はそこで見たものを受け入れようとしなかった。膣鏡を解剖台に置いた。
 レナが訊いた。「どうしたの?」
 サラは答えなかった。今夜あんなことがあったあとでは、なにを見てもショックを受けることはないだろうと思っていた。間違いだった。
「どうしたの?」レナが再び訊いた。
「この子は子供を産んでいない」サラが答えた。「どんな子供も」
 ジェフリーは使われていない膣鏡を示した。「検査もせずに、どうしてそう言い切れるんだ?」
 どう説明すればいいのかわからず、サラはふたりを見つめた。

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続きは本書でお楽しみください。

H147_ざわめく傷痕




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