少しだけ、死ぬことについて考えてみる。

今日、親父が倒れた。昨年の9月にはしごから落ちて死の淵を彷徨い、どうにかうちに帰ってきた親父が、再び倒れた。

どうやら「てんかん」の発作が起こったのだろうと母は説明してくれた。
発作の病状がどうこうではないのだが、人の人生とは、なんだろうと少しだけ考えてみた。あくまでも私感だがお付き合いいただけたら幸いだ。

介護とは大人の保育だなと実感する…。

現在、親父は要介護2か3かそこらだ。あまり詳しいことを知らないでいるのは、そこを聞きたくない自分の弱さも起因している。が、とにかく介護しないと通常の生活が送れない。認知も進んでいるため、これから先もっと悪くなるとも説明された。
フリーライターというとても自由な仕事を営んでいるおかげで、親父がデイケアサービスの車に乗るのを見送ることができる。
とても失礼な言い方をあえてすると「大人の保育園」だ。
車に乗せられて、介護施設に通っているのだから、そう比喩しても可笑しくないと思う。当事者だからこの表現は許してもらいたい。
介護職の職員さんは、この立場になると本当に頭が下がる。友人に何人介護士として活躍しているが、このサービスは介護をする家族として本当にありがたい。自分の時間が持てるのだから。

どこか他人事で掛けてしまうのは、自分の親父がそうなってしまったことを認めたくなかったのだと、今日気がついた。歩いて、散歩してる姿を見かけるので、元気になってきたんだなぁ~くらいの無責任な見方だった。

が、今日、突然倒れた。てんかんの発作が母の見ている眼の前で起こって、そのまま倒れたのだと言う。
家内を職場まで迎えに行き、その帰りにすれ違った救急車には親父が乗っていた。後から聞いたが母は相当慌てていたのだろう、とりあえず財布と保険証は忘れなかったようだが。

帰宅の車内、親父はずっと寝ていたようだ。迎えに行った救急外来でも寝ているようにうなだれていた(ように見えた)。

死ぬことに向かってる人は何が幸せな死に方だろうか?

これは語弊があるかも知れないがあえて書く。介護されてまで生きながらえるのは、自分は嫌だ。ぱぱっと死にたい。贅沢だが。
死ぬことのために人は生きている。息をして、飯食って、働いて、稼いで、稼いだ金使って家族を食べさせて、正直、何が幸せなんだろうか?死ぬことに向かって生きてるはずなのに、と考え出すと止まらなくなるのでこれ以上は考えないことにした。

つまりは明日もあさっても僕は僕がやりたいと思ったことができることに幸せを感じようと思う。そうやって生きれることに、感謝しかないのだ。

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