悪くはないけど、責任はあるという言葉が好きなのである(´・ω・`)

昔から、どうしてぼくは自分が悪くないのに責任を負わなければならないのだろうというのが、テーマだった。

韓国人という立場で日本に生まれて、国籍を理由に少しだけ・・・ほんの少しだけ嫌な目にあったからだ。
誤解しないでほしいのは、ぼくは自分が韓国人であることを嫌だったことは一度もないし、日本に生まれたことに対してなんの後悔もない。

そもそもそういったナショナリティで物事を語るのは好きではない。

ただ、世界にはそういったナショナリティで物事を語る人もいるのだ。

それは、正しい間違いではなく、おそらくは生き方の問題であり、ぼくはとは違う。非難するわけでもない。少しだけ距離を取らせてもらい、目に入らないようにすればいいだけの話なのだ。

理解することはできなくても、譲り合うことはできる。必要なことはどれだけ思想が違っていても礼儀正しく対応することなのだ。

いつもならが前置きが長い(´・ω・`)

悪くはないけど、責任はある・・・・ぼくが30代の時にたどり着いた言葉だ。そういう考えに至るまでには、まあまあな対価を払った。

ボロボロになりながらたどり着いた言葉だ。

だから、よくこの言葉を使う。

責任という言葉と、お前が悪いという言葉を混同している。

それを切り分けて、伝えるだけで前を向くことができる人も沢山いるのだ。

で、成功という言葉を自分に対して使うことはない。成功の定義を死ぬほど考えた結果、人間は善いことをしようと考えた時点で、成功しているというのがぼくの考えだからだ。

だって、上手く行くかどうかは運だからだ。確率を高めることはもちろんできる。もちろんできるが、1%~99%の違いは確率が高まるということだけであり、運という要素は排除できない。

マイケルサンデルの本が好きだ。『実力も運のうち』という書籍がある。

『運も実力のうち』ではない、『実力も運のうち』ということだ。

まあ、そうだろう。少なくともぼくは、自分がこの身体で、そしてこの時代に、ぼくの両親から生まれることを選んでいない。

この年まで、大きな事故にあわずに生きてこれたことや、入試でたまたま頭が冴えていて問題が解けたことや、大切な人と出会えたことは、すべて運だ。

そう考えると、自分のささやかな経済的余裕など価値があまりないことがわかる。そういったことを誇り、そして人に成功の秘訣など偉そうにいうのは、恥ずかしいことなのだ。

『アラブの石油王の長男が教える、成功するために必要なたった一つの法則』とか『宝くじに当選するために必要な努力』とか、そういった馬鹿らしい本を出すようなものだ。

大切なことは、結果的に上手くいくことではなく、上手くいかない時に、引き受けるということなのだ。それは、自責というのとも少し違う。

自責というのは、他責のベクトルが反対に向いただけであり、例えば過激だが、破壊願望が自分に向けば自殺であり、人に向けば他殺である。

両方とも罪深い(´・ω・`)

自責でもなく他責でもなく、しょうがない時に運だ。今、この場所にいるのは自分であり、責任をとる、そういう順番なのだという感じだ。

そういう順番なのだ。だから、粛々と責任を果たそう。ぼくもあなたも。


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